第180話 悪意の行方
「あれ? どっちだっけ」
個人の邸宅とは思えないほど広いフォレッド家の屋敷の廊下で、廊下の分岐を前に困ったように陽斗は首を捻る。
普段暮らしている皇の家も、住居としてはあり得ないほど広いのだが、この屋敷はそれすら比較にならないほど大きく、元々それほど方向感覚に優れていない彼はすでに何度か迷子になりかけていたりする。
なにしろ大きなホテル並みの建物でありながら、一般客が滞在するホテルとは異なり案内板やドアの部屋番号などは無いので似たような景色が多くて覚えきれないのだ。
ジャネットたちが親族の集まりに出席してから、陽斗たちも自分たちに割り当てられた部屋に戻っていた。
といっても別にすることがあるわけじゃないし、フォレッド家の親族が来ているのならあまり出歩かない方が良いだろうということで、陽斗の部屋に集まってゲームや雑談に興じていたのだ。
しばらくして部屋に食事が運ばれてきたのでそのまま皆で食べてから入浴することになったため解散した。
陽斗も軽くシャワーを浴びて、のんびりしようと思ったところでジャネットたちと一緒に居た部屋に本を忘れてきたことに気づく。
部屋に備え付けられた電話の受話器を取れば屋敷のメイドに内線が繋がるので持ってきてもらうこともできるはずなのだが、当然陽斗にそんな発想があるわけもない。
出歩くときは警備班の誰かか、賢弥や巌に知らせるように言われていたものの、建物から出るわけでもないからと、忘れ物をとりに部屋を出たのだ。
目的の部屋までは意外にあっさりと辿り着き、テーブルの隅に置かれていた本を回収したところまでは良かったのだが、案の定、帰り道で迷ってしまう。
曲がり角というものは往々にして行きと帰りの印象がまるで違うように感じられるもので、なんとなく見覚えのありそうな道を辿ってきたつもりが、気がついたら自分がどこに居るのかもわからなくなってしまっていた。
「えっと、こっち、かな?」
せめて向かっている方向だけでも確認しようと窓の外を見るが、そこはすっかり日の沈んだ暗闇が広がるばかり。
とはいえ陽斗にそれほど危機感があるわけではない。
遠い異国にいると言っても家の中。
歩いていればフォレッド家で働いている人に会えるだろうし、そうでなくてもそのうち部屋に辿り着くだろうと楽観的に考えていた。
人気のない少し薄暗く感じる廊下をトテトテと歩ていると、進行方向の先にある曲がり角からいささか乱暴な足音が聞こえてきて、それに続くように10人ほどの男女が姿を現した。
「あっ……」
陽斗がそれに気づいて小さな声を上げると、向こうも気づいたらしい。
『ん? なんだ、このガキは』
一番前を歩いていた壮年の男性が眉を顰めて侮蔑のこもった視線を陽斗に向ける。
他の連中も不躾に頭からつま先までジロジロと見つめていたかと思えば揃ってまるで汚いものに向けるような目をしていた。
「Ah, well, I'm ……」
『あっ、コイツ、ジャネットが連れてきた奴だよ。たしか、スメラギとか言う日本の投資家の孫だとか』
彼らの姿を見てすぐにジャネットの親族であることに気づいた陽斗は、とりあえず拙い英語で挨拶しようと口を開く。が、男の後ろからの別の声に遮られた。
陽斗がそちらを向くと、この屋敷に到着した日に出くわしたジェイクの孫デビッドが睨みつけてきたので思わず首をすくめてしまう。
『スメラギ? ではアンジェとジャネットの後見人というのはこのガキの祖父か』
男の視線がさらに厳しくなり、憎しみすらこもっているかのようだ。
『関係ないくせに我々の家のことに首を突っ込んで来やがって』
『そうだ! いったい何のつもりだ?』
『そうよ。そのせいで話がややこしくなったわ! どうしてくれるのよ!』
男たち、いや彼らの妻や孫娘もいるので男女が揃って陽斗を半ば取り囲むように詰め寄ってきて口々に激しい口調で文句を言う。
ただ、スラング混じりで早口の英語なので陽斗にはほとんど聞き取ることができない。
が、そこに込められた怒りや侮蔑、差別的な態度を察するのは容易で、陽斗は身を縮ませて俯くことしかできない。
『いい歳した大人が寄ってたかって客人を罵倒するとはな。フォレッド家を名乗っていても所詮は程度が知れるというものだ』
グイッ! ひょい。
「はぇ?」
「先輩、大丈夫っすか?」
「大隈くん?」
不意に聞き慣れた声が聞き慣れない言葉で割り込んだかと思うと、陽斗は後ろに引っ張られると同時に両脇を大きな手で掴まれて持ち上げられる。
慌てて首を後ろに巡らすと、巌の顔を見上げる形になり思わずポカンとしてしまう。
「たっちゃん、ダメじゃん! ひとりで出歩くなって爺ちゃんと穂乃香さんに言われてたろ?」
「探したぞ。まったく、なんでこんなところに来たんだ? 部屋とは全然方向が違うだろうが」
持ち上げられたままの陽斗を正面から叱るのは光輝と賢弥。
ふたりとも口調は強いがあからさまにホッとした顔をしている。
「ご、ごめんなさい。建物の中だし、すぐ近くだからって思って」
陽斗にくっついている皇家の警備班も、さすがに他家の邸宅内まで一緒に居るわけにもいかないため気づくのが遅れたようだ。
今回はたまたま光輝が陽斗の部屋に遊びに行こうとして居ないのに気づいて探していたらしい。
ちなみに、穂乃香たち女性陣には心配させるので知らせていない。もっとも、後から知ったら叱られることになるだろうが。
『にしても、コイツら何なん?』
『例の、欲の皮が突っ張った親戚連中だろう。予想どおり揃いも揃って頭と性格が悪そうだ』
ひとしきり説教して陽斗がシュンと落ち込んだのを見てから光輝がクルリと後ろを振り返り、未だに男たちを睨みつけていた壮史朗に英語で訊ねると、簡潔にして辛辣なコメントが返ってきた。しかもこちらも英語で。もちろん相手に理解できるようにわざとだ。
「こーくん、英語できるの?!」
「そこ?! しかも今さら?! ……半年以上もジャネットの奴につきまとわれたから、ついでに教わってたんだよ。そのうち必要になるだろうからな」
絶体絶命? の状態から親友たちに保護された陽斗のメンタルが奇妙に一回転したらしく変な部分に感心していた。
『な、なんだ貴様等は! 無礼だぞ!』
『私たちを誰だと思って!』
突然壮史朗たちが割り込んだことで唖然としていた親族たちだったが、壮史朗の皮肉に満ちた言葉と光輝と陽斗ののほほんとしたやり取りに我に返る。
『誰だも何も、資産を受け継ぐ資格無しと見做された穀潰しだと聞いている。まぁ、無関係な子供に罵声を浴びせるような精神構造では仕方がないだろう』
『というか、そもそもいい歳して親の遺産当てにしてないで働きゃいいと思うけどな。別に今の仕事を首になるわけでも何も貰えないってわけでもないんだろ?』
壮史朗と光輝の言葉に睨みつけてくる親族たち。
実際、普通の人から見れば彼らはすでに十分な資産を持っている。
フォレッド家の財産は世界でも片手で数えられるほどのものであり、その3割は彼ら親族が分散して所有しているのだ。それを金額に直すとひとり当たり10億ドルを越える。
一般人が少々贅沢な生活をしたとしてもとても使い切れないほどの資産だ。
にもかかわらず彼らはジェイクの遺産までも手に入れようとこうしてわざわざやって来ている。強欲の誹りを受けても仕方ないだろう。
親族たちは今にも爆発しそうなくらい怒りで顔を真っ赤にしているが、何か言いかけるとすぐに壮史朗と光輝が嫌味たっぷりに言い返すため、だんだんと口数が減っていき、やがて無言になって睨むだけになっていた。
かといって暴力に訴えるにも、アメリカ人にも引けを取らない体格を持つ(どころかひとりは彼らが見上げるほどの巨漢)ふたりの男が立ちはだかっているからそれもできない。
だがそれでも立ち去ろうとしないのは言い負かされるのが嫌だったのか、普段見下している東洋人に背中を向けたくなかったのか。
『何をしているのですか』
半ば膠着状態になっていたのを止めたのは、大きくない、それでいて力強い女性の声だった。
『っ? アマンダ・リシュエル。それにジャネットか』
『この方たちは旦那様がお招きになったゲストです。無礼は許されません』
『私の友人に何か文句でもあるの? あるなら私が聞くわ。内容は聞くまでもないと思うけど』
割り込んできたのはアマンダとジャネットだ。
つい先程まで彼らはジェイクを何とか説き伏せようと言葉を尽くしていたのだが結局彼の意思を覆すことはできず、憤懣やるかたない様子で解散していたのだ。
部屋に帰る途中で陽斗たちと遭遇して感情をぶつけていたのだろうことは簡単に想像できる。
ふたりが親族たちを見る目は厳しく、一回り以上年下に見据えられて彼らは気まずそうに目を逸らす。
『なんでもない。失礼する』
『あのっ!』
最初に突っ掛かってきた男が踵を返すと、他の親族たちもそれに続いて立ち去ろうとしたのを陽斗が呼び止めた。
その声に足を止めて振り返るが、陽斗が目を向けていたのはここまで一言も発せずに一歩下がったところで冷たい目を向けてきていたひとりの女性だ。
『……何かしら? 私はBOYに何も言っていないわよ』
巌に降ろしてもらった陽斗がその女性の前に歩いて行くと、彼女はあからさまに面倒そうに言う。
『あの、僕は気にしてないです、けど……』
たどたどしくそこまで口にした陽斗だったが、それ以上は英語で続けられず困ったように壮史朗のほうを見る。
「僕が通訳しよう」
「天宮くん、ありがとう。あのね……」
苦笑を浮かべて壮史朗が陽斗の口元に耳を寄せると、陽斗が何やら日本語で伝える。
『……西蓮寺がひとつ気になることがあるそうだ。アンタ、多分アンジェリーナさんの妹だろう?』
『っ! だったら?』
『なんでアンタは姪であるジャネットを憎んでるんだ?』
『!!』
壮史朗が口にした陽斗の質問に、女性は一瞬で顔を強ばらせる。
『メリッサ叔母さん……』
あまりにストレートな問いに、ジャネットも呆然とした様子で呼びかける。
『……何のこと? 私が姉の娘を憎んだりするわけがないでしょ。言いがかりは止めてちょうだい。話がそれだけなら部屋に戻らせてもらうわ。アマンダ、私は明日帰るから』
それだけ言い捨てて足早に去って行くメリッサに、アマンダも困惑した顔で呼び止めるもそれに応えることなくすぐに廊下の先に姿を消してしまったのだった。
親族との騒動の数十分後、陽斗たちとジャネットはアマンダに連れられてジェイクの私室に来ていた。
そこには重斗と桜子も一緒に居て、何か打ち合わせのようなことをしていたようだ。
大まかにアマンダから報告を受けていたようで、詳細を訊ねられた陽斗は、与えられていた部屋を出た理由から親族たちと別れるまでの出来事を説明する。
『そうか。私の子供たちが迷惑を掛けて申し訳ない』
『い、いえ。すぐに天宮くんたちが来てくれたので』
「怪我はなかったのね?」
『もし陽斗に危害を加えるというのなら、貴様の血族であろうが容赦はせんぞ』
ジェイクが真面目な顔で頭を下げ、陽斗が慌てて首を振る。
そして桜子が陽斗を抱き寄せて身体の隅々までチェックし、重斗はジェイクに吠える。
ある意味予定調和と言えるやり取りをしてから、改めて陽斗たちに親族たちの印象などを聞く。
『ハルトくん、君の目にはメリッサがジャネットを憎んでいるように見えたのだね?』
ジェイクが訊ねると、陽斗はおずおずと首を縦に振る。
「でも、僕がそう感じただけなので」
陽斗はそう言い足したが、ここまで彼の人物評が外れたことはない。
重斗と桜子はもちろん、彼のことを調べ尽くして居るであろうジェイクも信じているようだ。
『アレはよからぬ連中との付き合いもあるようだ。馬鹿な真似をしないように注意しておくことにするよ。忠告ありがとう』
陽斗の性格的に人のことを悪く言いたくない。
だが、ことは友人であるジャネットに関わる。それを聞いてほんの少しホッとした顔をした陽斗だったが、言い辛そうにまた口を開く。
『えっと、メリッサさんだけじゃなくて、もうひとり気になった人が……』
そう前置きしてある人物の特徴を陽斗が言うと、ジェイクとアマンダが驚きの表情を見せた。