第172話 閑話 甘い関係
黎星学園は部活動にそれほど力を入れているわけではないのだが、それでも大会や発表会の前などは休日でも活動を行っているし、芸術科の生徒は実習室や練習室で自主練習を行う生徒も多い。
普通科の生徒も勉強などで図書室を利用したりするため、お盆や年末年始を除き食堂や売店も営業している。
そんなわけで、最も寒い時期である2月半ばの日曜日でも学園内はそれなりに生徒が居たりするわけだ。
「さて、それでは準備に取りかかりましょう」
陽斗や穂乃香、セラが所属している料理部の部室で、若い女性がそう声を上げる。
「何故貴女が仕切っていますの?」
その女性をジト目で睨んでいるのは、陽斗との仲が進展して最近浮かれ気味の穂乃香嬢である。
「せっかく西蓮寺様とくっついたのにお嬢様の手料理が原因の食中毒でおじゃんになってしまっては目も当てられませんから」
「失礼すぎますわ!」
すました顔で言ってのける女性に対して、いつになく素の表情で噛みつく穂乃香の様子に部員たちは意外そうにしながらもどこか微笑まし気に見守っている。
「穂乃香様は、えっと、瓜生さん? と仲が良いんですね」
「そんなことはございません。生活力皆無のお嬢様にはいつも手を焼いていて」
「千夏さん! いい加減に」
「おっと、これ以上口を滑らしてはクビになってしまいますね」
顔を真っ赤にして怒る穂乃香に、おどけたように肩をすくめる四条院家のメイド瓜生千夏。
そのコントラストに部員たちが思わず笑い声を上げる。
「うふふ、若い娘たちは賑やかで楽しいですね。もう少し見ていたいけれど、時間が無くなってしまいますからそろそろ始めましょうね」
部室にいたもうひとりの大人の女性が手を叩いたことで穂乃香たちのじゃれ合いも終了する。
もっとも穂乃香は不満そうに頬を膨らませて唇を尖らせているが、それを見返す千夏の表情は優しいものだ。
それだけで彼女たちの関係が良好で強固なものであることがわかる。
「それでは改めて自己紹介をさせてもらいます。今回臨時で講師を務めさせていただく河居紀子です。普段はパティシエとして店のスイーツを作ったり、お菓子教室で教えたりしています。今回はバレンタインのチョコレートを作るということでそのお手伝いをさせていただきます」
『よろしくおねがいします!』
部室の正面、ホワイトボードの前に立った女性が挨拶すると、部員たちが声を揃える。
紀子の言葉どおり、翌週のバレンタインデーに合わせて料理部でチョコレート菓子を作ることになり、そのため外部から講師を招いている。
部長から穂乃香に相談があって、四条院系列のレストランから紹介を受けて彼女に依頼したのだが、どういうわけか穂乃香付きのメイドである瓜生千夏までもがお手伝いと称して、しれっと参加しているのである。
もちろん穂乃香はつい先程までそのことを知らされていない。
ちなみに陽斗と、昨年入った新入生の男子ふたりは今日は部室に出入り禁止を言い渡されている。
逆に来月のホワイトデー前は彼らだけで部室を使う予定だ。
「それではグループに分かれて事前にお知らせしたリストの材料を揃えてください。計量は正確に。お菓子作りの肝は正確な分量ですよ」
部員たちは3つのグループに分かれてそれぞれ決まったレシピの材料を準備し始める。
グループ分けはスキルに応じて上級者、中級者、初心者である。
1年生もすでに入部してから1年近く経っており、普通の料理はそれなりにできるようになっているのだがお菓子作りはまた別の知識と技術が必要なので初心者グループが多い。
逆に2年生は半数以上が上級者グループなのだが、残念なことに穂乃香はいまだに初心者から抜け出せていない。まぁ、生徒会活動で忙しく、あまり部活に参加できていないのも理由ではあるが。
決められたレシピは上級者グループがザッハトルテ、中級者グループはトリュフチョコ、穂乃香の初心者グループはチョコクッキーである。
それぞれレシピに別の材料やトッピングを加えてアレンジできるようになっている。
「材料はたっぷりと用意してありますので失敗しても大丈夫です」
料理部の部長がにこやかにそう付け加えると、部員たちのはしゃいだ声が広がる。
ザッハトルテの象徴でもある表面のなめらかなショコラーデン・グラズュールのコーティングを綺麗に仕上げるにはロスを承知でたっぷりと掛ける必要があるし、材料が余れば別のお菓子を作ったりもできる。
なにしろメインの材料であるチョコレートは製菓用の物がキロ単位で作業台に置かれているし、バターや牛乳、生クリーム、ナッツ類やドライフルーツも山積みだ。
これらは部費に加えて、料理にとことん自信の無い穂乃香が失敗するのを想定して過剰に寄付しているのである。
もちろん料理部で使い切れなかった場合は穂乃香が引き取って四条院グループの飲食店で使われるので無駄にはならない。
「にひひ、穂乃香様、陽斗くんが楽しみにしてるらしいですよ」
「せ、セラさん、プレッシャーを掛けないでください」
揶揄い交じりのセラの言葉に、一瞬で緊張した穂乃香が恨めしげに返す。
セラは普通の料理はそれなりにこなせるはずなのだが、お菓子作りは得意じゃないということで穂乃香と同じ初心者グループでのクッキー作りをするらしい。
おそらくは穂乃香の目付役の名目で揶揄うつもりだったらしい千夏は中級者グループの手伝いを申しつけられつまらなそうにしていたのだが、もちろん穂乃香は無視する。
というよりもすぐさま講師の女性に口添えしてそうなるようにしていたりする。
「まぁ確かに陽斗くんは料理もお菓子作りも得意ですからねぇ。女子としては複雑というか」
「本当にそう思いますわ。一昨年に続いて今年の誕生日会でもとても美味しいケーキを作っておられましたし」
披露するたびに腕を上げている小さな恋人に、コレばかりは少し不満な様子である。
「穂乃香様は陽斗先輩に渡すとして、都津葉先輩は誰に渡すんですか?」
「やっぱり武藤先輩ですか?」
「え? あの空手でインターハイ全国2位の!?」
「幼馴染みなんですよね! 付き合ってるんですか?」
「え? え? ちょっ!」
いきなり自分に矛先が向いて慌てるセラ。
良家の令嬢ばかりとはいえそこはやはり女子高生である。恋愛話となれば興味津々に決まっている。
「賢弥とはそういうのじゃないってば。小っちゃい頃から一緒に居たから兄妹みたいな感じなのよ。向こうもそう思ってるみたいで、私のことなんて女の子と見てないわよ」
実際、親しく付き合っている穂乃香から見ても賢弥とセラの関係は幼馴染みや恋人というよりも兄妹に近い。
互いに遠慮がない分、異性を意識している様子はなく、絶妙な距離感で自然に接している。
それよりも……
「そういえば最近のセラさんは天宮さんと親しいようですわね」
「んな!?」
穂乃香がポツリと呟くと、セラが手に持っていたボウルをひっくり返し、後輩たちの目が光る。
「穂乃香様、そのお話詳しく!」
「天宮さんって、あの天宮先輩ですよね!」
「穂乃香さん、ちょ、待って!」
不用意に発した言葉でお菓子作りそっちのけの後輩たちに囲まれてしばらくの間作業どころではなくなってしまった。
騒ぎを聞きつけた講師の紀子にやんわり注意され、ようやく作業を再開する。
一言でチョコクッキーと言っても作り方は様々だ。
固い物、ソフトタイプ、チョコを練り込んだりブロック状の物を混ぜたりと見た目も味も数多くのバリエーションがある。
とはいえバレンタインということで、チョコレートを練り込んだ褐色の生地をベースにチョコレートチップや刻んだドライフルーツを混ぜて焼き上げるものになった。
バターと卵、小麦粉、砂糖、ココアパウダーなどを混ぜて生地を作り、穂乃香はチョコチップとクランベリーのドライフルーツを、セラはビターチョコにオレンジピールを加えて混ぜてからスプーンでオーブンの天板に敷いたクッキングシートに落とす。
いくつかはそのままの円形で、その他は型を使って成形したものを180℃に熱したオーブンに入れる。
後は20分ほど焼き上げれば完成だ。
上級者グループの作るザッハトルテは結構な時間が必要なため、中級者と初心者のグループは余った時間を使って別のお菓子を作ったり、焼き上がりを見て失敗したのを作り直したりする。
のだが、そこはそれ、やはりメインはおしゃべりである。
先程後輩たちに追いかけ回されたセラは、今度は捕まらないようになのか、それとも意趣返しか、ニヤニヤしながら穂乃香ににじり寄る。
「でぇ? 穂乃香様が陽斗くんと付き合い始めてもうすぐ2ヶ月ですけど、どこまで進んだんですか?」
「あっ! それ私も知りたい!」
「聖夜祭の前ですら手を繋いだりところ構わずイチャイチャしてたくらいだし、キスは当然として……」
「年末年始も別荘で一緒に過ごしたんですよね? ってことは……」
部員たちの視線が一斉に穂乃香に注がれる。
「貴女たち……」
照れて真っ赤になるかと思われた穂乃香だったが、返ってきたのは低い声と口元だけの笑顔である。
「あ、ヤバ」
「ほ、穂乃香様?」
その後、部室から怒声や悲鳴が響いたとか響かなかったとか。
翌週。
生徒会役員は翌年度の予算編成のために手分けして各部を回り予算案や要望の聞き取りを行っていた。
もちろん陽斗と穂乃香も割り当てられた文化系クラブをいくつか回り、所定の書式に記入された予算案を回収しつつ各部活の予算に充てられない設備や環境関係の要望を聞いたりしている。
「えっと、次は文芸部、だよね?」
「そ、そうですわね。ですが、時間が」
「あ、うん、明日の方が良いかな」
「え、ええ、遅くなってしまいそうですし」
『…………』
どこかぎこちない様子で会話を交わす陽斗と穂乃香。
いつもどおり仲良さそうに歩いてはいるものの、陽斗はチラチラと穂乃香の様子を窺い、彼女は何度か陽斗に向かって何かを言いかけ、そのたびに顔を赤くして止めるというのを繰り返している。
もちろんふたりとも自分ではいつもどおり振る舞っているつもりなのだが、ハッキリ言って見ている方は微笑ましいを通り越してイライラしてくるほどだ。
実際、今も物陰に隠れて陽斗たちの後をつけ回している男女も、いい加減自分たちの行動が馬鹿馬鹿しくなっていたりする。
「……アイツらは何をやってるんだ?」
「さすがにケツを蹴っ飛ばしてやりたくなってきた」
「ケツとか言うな」
「だって、さすがにアレは、ねぇ」
「だいたい何で僕がこんなことに付き合わされてるんだ」
壮史朗が傍らの少女、セラに文句を言うが、小声なので似たもの同士ということだろう。
「……はぁ~、帰ろうか」
「ったく、最初からこんなことしなきゃ良いだろうが」
バレンタインデー当日ということで、連れだって生徒会室を出て行った陽斗たちを、いつものように強引なセラに無理矢理引っ張られてきた壮史朗なのだが、目的がわかった後も律儀に付き合っていたのだから同罪である。
「ちぇっ、もっと盛り上がってイチャイチャすると思ってたのに」
「アイツらがそう一足飛びに進展することなんて無いだろうさ」
亀より遅い歩み寄りでようやくくっついたくらいなのだから壮史朗の言葉には説得力がある。
「あはは、まぁそうよね。付き合わせてゴメンね」
「ふん。いつもいつも強引すぎるんだ都津葉は。せめて目的くらいは最初に言え」
「そう言わないでよ。はい! お詫びとお礼」
セラが空笑いを浮かべつつ、どこから取りだしたのか小さな紙袋を壮史朗に差し出した。
「何だコレは?」
「ん~、義理、というか友チョコ? みたいなもの、かな? 一応手作りだから」
「は? お、おい!」
袋を壮史朗に押しつけて走り去っていくセラを、壮史朗が呼び止めたが、彼女の背中はすぐに見えなくなってしまった。