第171話 閑話 疵痕と時明かり
「ふむ、大丈夫そうですね」
私は画面に映し出された表の項目に漏れがないか注意深くチェックしてから保存し、ソフトを閉じる。
立ち上がって身体を大きく伸ばすと背中と腰、肩からコキコキと鈍い音が響き、少々の痛みと共に奥からじんわりと疲労感が滲み出てくる。
長時間、と言っても3時間ほどでしかないのですが、歳を取るとパソコンの画面を見続けるのは目に負担が掛かるようで、目の焦点が合わなくなって難儀しますね。
若い人たちはよくあんな小さな画面のスマートフォンを見続けられるものです。
壁に掛かっている時計を見るとすでに夜の10時過ぎ。
旦那様が不在のうちに仕事を片付けておこうとしたのですっかり遅くなってしまいました。
皇家の財務全般を担う執事である私は、使用人たちが使用する事務所の奥に執務室があるのですが、部屋を出ると数人のメイドが挨拶をしてくれます。
この時間ですと遅番の人たちが勤務終わりに休憩しているのでしょう。
この屋敷ではメイドはシフト制で、早番と遅番、そして数人が深夜番として働いています。ちなみに料理人は早番と遅番、警備班は3交代制ですね。
「和田さん、お疲れさまです。こんな時間まで残ってたんですか?」
「ええ、年末年始に旦那様と同行していましたから事務仕事が溜まっていまして。陽斗さまには言わないでください」
お優しい陽斗さまは使用人が無理をすると心配してしまいますからね。
「ふふ、あんまり無理しないでください。旦那様を止められるのは和田さんと比佐子さんだけなんですから」
冗談めかした言い方ですが、最近の旦那様は陽斗さまが絡むと知能指数が著しくさがりますから困ったものです。
「あなた方も仕事が終わったのなら早めに帰るように」
「は~い」
和気藹々といった雰囲気で語り合う彼女たちに私も挨拶を返しつつ、事務室を出てそのまま通用口から外に出る。
1月も半ばとなれば夜の風は老骨に凍みますね。
昼間は日差しが暖かかったせいで薄い上着しか着てこなかったが失敗だったようです。
それも今さら口にしたところで意味はありません。
幸い私の住んでいるのは敷地内にある使用人エリアですのでそれほど離れていませんから、諦めて足を踏み出したところ、後ろから声がかけられました。
「そんな薄着では風邪を引いてしまいますよ」
そんな言葉と同時に、背中に温かなストールが掛けられた。
「比佐子ですか。貴女こそこんな遅くまで仕事をしていては駄目じゃないですか」
「兄さんにだけは言われたくない台詞ですね」
私が首だけで振り返ると、侍女服にダウンコートを羽織った妹が呆れたような笑みを見せていました。
「今夜は旦那様が不在ですからね。陽斗さまに万が一のことがあってはいけないので」
「相変わらずの苦労性ですね」
「兄さんも人のことは言えないでしょう」
比佐子が私の隣に並んだのでそのまま歩き出す。
私は単身者用の宿舎ですが、彼女は家族向けの建物に住んでいるので住まいは近いのです。
「陽斗さまはもうお休みになりましたか?」
「先程まで書斎で勉強をされていたようですが、今は寝室に入られたようなのでそろそろお休みかと思いますよ」
陽斗さまはもともとかなり睡眠時間が少なかったようですが、こちらに来られて2年の間にかなり改善されたようで安心しています。若いときの睡眠不足は後々に影響すると聞きますからね。
屋敷から私たちの暮らす使用人エリアは歩いても10分程度。
壁と門で仕切られてはいるものの同じ敷地です。
3階建てのマンションタイプの住居がいくつかあり、他には体育館やプール、ジム、食堂やバー、売店もあり、下手をすれば敷地から一歩も出なくても生活ができるほど。
様々な条件をクリアしてこれだけの広さの土地を探すのは随分と苦労したことを覚えています。
通いの使用人も居るには居るのですが、福利厚生として住居費はかなり安いですし、家族向けの部屋で3LDK~5LDK、単身者向けでも1LDKの部屋ですから、今では使用人とその家族で600人以上が生活しています。
……そろそろ余裕がなくなってきたのでまた敷地を拡張しなければならないかもしれませんが。
まぁ、職場はすぐそば、子供たちの学校は警備班の担当が送迎していますし、敷地内には庭園もある。不審者や訪問販売が入り込むことも、目を離した子供たちが勝手に外に出てしまうこともありませんから誰も退去しようとしませんし。
そのうち街になってしまう気もするのですが、あまり考えたくありませんね。
しばらく無言のまま歩いていると、私の部屋のある建物に到着しました。
比佐子に別れの挨拶をしようと口を開きますが、出てきたのは別の台詞でした。
「久しぶりに少し飲みませんか? 久代さんが旦那様に同行されてひとりでしょう?」
私の申し出に、比佐子は少し驚いたようですが、少し考えてから頷いてくれます。
「兄さんが誘うなんて珍しいわね。そうね、寝るには早いし、少しお邪魔しようかしら」
おや、バーにでもと思ったのですが、どうやら私の部屋にということになりそうです。
そんなわけで妹を伴って自室に向かう、といっても入り口からすぐですが。
「相変わらず几帳面な部屋ね」
感心したように言われましたが、実際はあまり物がないだけ。
特に趣味と言えるようなものもありませんし、部屋で彩りと言えるのは窓際に並んだサボテンの鉢くらいでしょう。
サボテンは良いですよ。
綺麗な花を咲かせる種もありますし、なにより仕事の都合で部屋に帰らない日も多い私でも枯らすことなく育てることができますからね。
比佐子をリビングのソファーに座らせ、あまり生活感のないキッチンで簡単なツマミと熱燗を用意します。
といっても冷蔵庫に入っているのは飲み物や氷の他はチーズやサラミ、瓶詰めの珍味類くらいなので大したものは出せませんが。
火にかけた鍋に入れた徳利がいい具合に温まったのでそれを持って比佐子の向かい側に腰を下ろす。
私は黙ってお猪口に酒を注ぐと、比佐子に手渡す。
「ふふ、兄妹で飲むなんて何年ぶりかしら」
「お互い忙しい身だからね。特に陽斗さまがお戻りになってからは目が回るほどだよ」
ようやく人心地がついて口調も砕けてしまう。
「本当に。でも、今は屋敷の中に活気があってやり甲斐があるわ」
比佐子は普段あまり酒を飲まないので、最初の一杯でもう頬に赤みが差し始める。
「だからといって無理は駄目だよ。君が倒れたら陽斗さまが泣いてしまう」
「そう、ね」
冗談めかした私の言葉に、比佐子は一言だけ返し、杯に残っていた酒を飲み干す。
私もそれ以上声をかけることなく、塩味の強い鱈の干物を口に入れた。
彼女の胸の中には様々な想いが渦巻いているのだろう。
それは彼女自身のもので、私などが何を言ったところで気休めにもならない。
16年前。
陽斗さまが誘拐されたとき、おそらく一番自責の念に駆られていたのは彼女でしょう。
比佐子の真面目さと献身的な人柄を旦那様が高く評価して愛娘である葵様の邸宅の管理を任されていたのです。
その中には使用人の人事権も含まれていて、旦那様からの紹介があったとはいえあの誘拐犯、佐藤をベビーシッターとして雇用したのも彼女でした。
佐藤の仕事ぶりは十分に評価できるほどで、誰ひとりとして不審を覚えていなかったということもあり、事件の後、旦那様も葵様も、誰ひとりとして比佐子を責めたりはしませんでしたが、彼女としてはそれがかえって辛かったことでしょう。
あの頃の比佐子は見ていて不安になるほど思い詰めていました。
それでも職を辞すことはせず、それまで以上に仕事をこなし、体調を崩されてしまった葵様を支えました。
そして休日のたびに様々な場所に行っては陽斗さまの写真を手に手がかりを探し、警察にも足繁く通って捜索の進捗を確認したりもしていましたね。
ですが、葵様が懸命の治療の甲斐なく亡くなった日、あの日だけは人目を憚ることなく泣きはらしました。
私たち兄妹にとって葵様は生まれた頃から見てきた我が子にも等しい存在です。
そんな葵様が、過失がなかったとはいえ自分に責任のある場所で最愛の息子を誘拐され、失意のまま若くして命を落としてしまった。
比佐子の心情はいかほどのものだったでしょう。
旦那様の父親、先代様の頃の皇家は、裕福ではあったものの、あくまで一つの企業を経営しているそれなりの家といった程度でした。
私たち兄妹は父親が先代様の秘書を務めていた縁もあって随分と可愛がっていただきました。
そして、先代様が40代の若さで身罷られ、まだ20代だった旦那様が跡を継いだ時に私たち兄妹に声をかけられました。
これから事業を拡大していく。脇目も振らず駆け抜けるには脇を守り、私生活を支える信頼できる人間が必要だと。
私たち兄妹は可愛がってくれた先代様への恩返しのつもりで引き受けました。
時代もよかったのでしょう。
戦後の復興もある程度なされ、高度成長の時期でした。
旦那様は瞬く間に経済界に影響力を高め、莫大な資産を、実質一代で築いたのです。
私たち兄妹はそれを陰から支えていた、というのはさすがに口幅ったいですが。
まぁ、おかげで私は忙しさのあまり結婚相手を探す暇はありませんでしたが。
私たちの人生は皇家と共にありました。
旦那様や桜子様には、ありがたいことに家族のように接していただき、それだけにあの事件の疵痕は今も心に影を落としています。
陽斗さまが見つかり、最悪の事態だけは避けられましたが、それでも葵様が戻ってこられるわけではありません。
本来なら見られたはずの家族の形は永遠に失われてしまいました。
ですが……
「ふふ」
「どうかしましたか?」
私が熱燗を喉に流し込みながら物思いにふけっていると、不意に比佐子が笑みをこぼしたので、その意外さに思わず訊いてしまいます。
「いえ、先日のことを思い出してしまって、つい嬉しくて」
「ああ、なるほど」
すぐに何のことが思い至り納得します。
数日前、普段はメイドたちがローテーションを組んで同席する陽斗さまの昼食に、珍しく比佐子が呼ばれました。
その席で、陽斗さまが彼女の前に置いたのが、陽斗さま手作りのケーキと小さな箱。
それはその日誕生日を迎えた比佐子への陽斗さまからのプレゼントでした。
『あの、いつもお世話になってるから。僕はお母さんのことを覚えてないけど、きっとお母さんって比佐子さんみたいなんじゃないかなって。優しくて、いつも見守ってくれてて、ときどき厳しくて』
顔を赤くしてモジモジとしながら言う陽斗さまの姿に感動しました。
その場に居た給仕のメイドや、入り口で様子を窺っている者が鼻を押さえていたのが少々興ざめでしたが。
小箱のプレゼントは比佐子が遠慮しないようにでしょう。
装飾品などではなく、とても良い香りのするハンドクリームだったそうです。
仕事で荒れ気味の手を見て思いついたのでしょうか、相手のことを思いやる陽斗さまらしい贈り物です。
「陽斗さまが屋敷に来られて、旦那様もですが、私たちも随分変わりましたね」
「ええ、そうね」
「……まだ自分が許せませんか?」
私の問いに、妹はほんのわずかに目を伏せました。
「きっと自分を許せる日なんて来ないと思うわ。でも」
「でも?」
「だからこそ、葵お嬢様の分まで……」
比佐子がそれ以上言葉を続けることはありませんでした。
ですが、気持ちだけは伝わってきます。
今はまだ彼女も私も、心の中の闇が晴れるには至りません。
ですが、夜明けを告げる明かりが確かに見えてきた、そんな気がするのです。
「そういえば、先日旦那様に贈られた物を分けていただいたのですが、新潟の銘酒だそうですよ」
「良いわね。兄さんのお酌でいただきたいわ」
「可愛い妹のためです。お任せあれ」
センスのない私の冗談に、妹は久しぶりの柔らかな笑顔を見せた。
※時明かり-明け方近くに東方の空がかすかに明るくなること