第17話 合格発表
陽斗の勉強部屋となっている書斎。
いつものように問題集を広げながらプリントアウトした解答用紙に答えを記入していく。
この家で暮らすようになってから食事と入浴、睡眠以外の時間のほとんどを勉強に費やしていた陽斗にとっては日常となっている行動だが、この日はほとんど捗っておらず手が止まっている時間の方が長い。
表情もどこか心ここにあらずといった様子で、時折落ち着きなく身体のあちこちに手を触れて、不意に我に返って問題集に目を落とし、しばらくするとまたボーッとしたりしていた。
陽斗の起床時間は新聞配達の習慣から4時前に目が覚めていたのだが、少しずつ調整して現在では6時少し前くらいに目覚めるようになってきている。
だが、今日はまた4時前に目が覚めてしまい、それからは眠ることが出来ずとうとういつものように書斎で勉強を始めたのだった。
そしていつもの時間に朝食を摂り、そしてまた書斎に戻って勉強の続きをしているのだが、ほとんど集中することが出来ず、いつもの数分の一程度しか進んでいないのが現状である。
陽斗がこれほど落ち着かない理由、それは1月に試験を受けた『黎星学園』の合格発表がこの日であり、今日中に合否の通知が郵送されてくる予定となっているためだ。
近年では珍しいことに、黎星学園では結果の掲示やホームページでの発表は行わず、書面を郵送するという形で発表しているらしい。
陽斗個人としては高校自体の希望は特にない。もちろんあまりに学力に見合わなかったりガラの悪い人が多い学校は嫌だが、陽斗にとっては高校に通えるというだけで何よりも嬉しいことで、行ける学校はどこでも良いのだ。
だが、祖父である重斗が真っ先に名前を挙げて勧めてきたのが黎星学園であり、あの辛いことの多かった生活から救い出してくれた重斗の期待にはなんとしても応えたかった。それに、やはり心のどこかに重斗に見捨てられることへの恐怖もある。
普段、郵便物が届けられるのは午前10時頃。
その時間が近づいてくるにつれ、ソワソワと落ち着きなく動き回ってしまうのである。
結局陽斗は勉強を続けるのを諦め、問題集を閉じて1階の共有リビングに向かうことにした。
メイド達からは「部屋でお待ちいただければ、届き次第すぐにお持ちします」と言われていたが、やはり少しでも早く結果が知りたいのだ。
実はメイド達の中で、誰が陽斗に通知を手渡すかで熾烈なくじ引き大会が繰り広げられていたのだが、陽斗が知るよしもない。
そもそも動機が、合格して喜びのあまり潤む瞳を見たい、あわよくば感激のあまり抱きついてくれたり祝福のハグを許してもらったりしたい、万が一不合格だったら優しく抱きしめて慰めたいなどという多分に不純なものばかりなので知らない方が良いだろう。
リビングでは重斗と麻莉奈が陽斗を出迎えた。
もともとの予定では通知を陽斗が受け取ったらここで待っている重斗と麻莉奈に報告する事になっていたのだ。
どちらの結果であっても気持ちを落ち着かせる時間が必要だろうという配慮だったのだが、どうやらあまり意味がなかったらしい。
そして、何故か普段なら一人か二人しか部屋に待機しないはずのメイドや執事が壁にそってずらりと並んでいる。料理人達までだ。
陽斗は最初彫像のように待機していた使用人達に気付かず、重斗の隣に座ったときに数人と目が合ってひっくり返るほど驚いた。
もちろんその中には陽斗付きのメイドである湊や裕美、それにおちゃらけ弁護士メイドの彩音もいる。というか、警備を除いた使用人のほとんどがここにいた。
「どうやら落ち着かんようだな。なに、大丈夫だ。陽斗があれほど頑張っていたのだからな。それに滑り止めの学校は既に合格しているのだからそれほど心配することもなかろう」
重斗は陽斗を安心させるように笑みを浮かべながら陽斗の頭を撫でる。
「ええ。自己採点でもかなり点数が取れていましたから大丈夫だと思いますよ」
麻莉奈もそう太鼓判を押してくれる。
黎星学園の後に受験した私立高校は、それなりの偏差値の比較的自由な校風で人気のあるという学校だった。
事前に陽斗の希望を聞きながら通える範囲の高校のうち偏差値で安全圏にある学校を麻莉奈が選んだ。そして結果は無事合格。
黎星学園とは違い、試験から3日で結果が発表され、既に手続きも完了しているのでもし黎星学園に不合格であってもその学校には入学できるのだ。
「でも、学力だけじゃなくて面接とか食事時間も評価対象になるって。僕、面接で緊張して、何を話したのかよく覚えてなくて」
面接試験ではありがちである。ただ、当たり前だが覚えているかどうかは結果には関係がない。
試験の時の事を思い返しながらオロオロとしている陽斗を見る使用人達の目は温かい。というか、内心はかなり萌え苦しんでいる。
不安な様子を隠しきれない陽斗とは対照的に、重斗の態度は泰然としている。もちろんそれには理由があるのだが。
「失礼します。陽斗様、黎星学園から郵便物が届きました」
やがて、ノックの後に扉が開き、メイドの一人がそう言ってリビングに入ってきた。
30代半ばくらいの女性であり、名前は大西瑠美子。この屋敷の警備をしている夫をもつ既婚者である。子供は就学前の娘がひとり。
くじ引きによって通知を運ぶ役目を獲得した彼女は、当たりのくじを高々と掲げて雄叫びを上げていた。
子供までいる既婚者ということで若いメイド達がブーイングしていたがガン無視してその権利を譲ろうとはしなかった。
瑠美子は大きな封筒を大切そうに両手で持ち、駆け寄ってきた陽斗に一礼すると恭しく膝をついてその封筒を差し出した。
この時点で見ていた者達には結果が知れている。
大きな封筒であり、中にいくつもの書類などが入っているのを見て取れる厚さだ。
不合格であれば紙が一枚入っているだけの小さな封書であるはずなので、それは合格通知と入学手続き関係の書類以外にあり得ない。
それでも震える手で破らないように丁寧に封を開けた陽斗は、一番上に入っていた『合格通知』の書面を食い入るように見つめ、みるみるうちにその瞳から涙が溢れ出す。
そして、目の前で優しげな微笑みを浮かべていた瑠美子に抱きついた。
途端に周囲のメイド達から上がる悲鳴じみた声。
そしてショックを隠しきれない重斗。
陽斗の行動は完全に無意識のものだった。
念願の合格通知に感情が爆発してしまい、ほとんど反射的にすぐ前にいた瑠美子にしがみついてしまったのだ。
大人の、それも子供のいる母性溢れる優しそうな女性にたいする本能的な行動だったのかもしれない。
「ご、ごめんなさい!」
すぐに我に返って離れた陽斗が謝る。
いつも優しくしてくれる使用人とはいえ、中学生の男がいきなり抱きついたりするのが許されるはずがないのだ。……陽斗以外なら、だが。
「陽斗、おめでとう!」
重ねて謝ろうとする陽斗を遮るように重斗が陽斗を抱き上げる。
「あ、えっと、お祖父ちゃん、ありがとう。あの、でも、僕……」
重斗の抱擁に陽斗も応えながら、やはり罪悪感で瑠美子の方に顔を向ける。
「陽斗様、お気になさらず。私は陽斗様が最初に私に、わ・た・し・に! 抱きついてくれたことをとても光栄に思っています。お望みならいつでも、何度でもこの胸に飛び込んでくださいませ!」
残念メイド爆誕!
堂々とした言葉とはうらはらに瑠美子の顔はニヘラとだらしなく崩れ、鼻からは血が垂れている。
雇用主である重斗に先んじて抱擁を受けたことで不興を買うかもしれないが、今の瑠美子にそんなことは知ったこっちゃないのである。
周囲から突き刺さる嫉妬の視線が心地好いくらいなのだ。
ともかく、瑠美子の言葉にホッとした陽斗は、恥ずかしそうに重斗に降ろしてもらえるよう頼み、そして改めて重斗に感謝を込めて抱きついた。
陽斗からは見えていないが、普段の威厳に満ちた表情からは想像できないほど重斗の顔はデレている。
放っておくといつまでも離れようとしない重斗に痺れを切らした麻莉奈が強引に割り込む。
「とにかく、陽斗君、おめでとう。よく頑張ったわね」
麻莉奈の、陽斗の努力を評価する言葉にまた涙がこぼれる。が、両手を広げてにじり寄ってくる麻莉奈に陽斗は戸惑う。
それでも麻莉奈の手はそのままで、顔には『カモ~ン!』とありありと浮かんでいる。
なんとなしに麻莉奈の意図を察した陽斗は、若くて綺麗な女性を前に恥ずかしげにしながらもおずおずと抱きつく。
欧米の人がするように身体を密着させない軽いものだったのだが、陽斗の手が麻莉奈の背中にちょっぴり触れた瞬間、麻莉奈の方から力一杯抱きしめた。
その時の麻莉奈の顔は、まぁ武士の情けということにしておくべきだろう。
控えめに言ってもしていることは青少年へのセクハラだが。
その後は、待ち受けていた他の使用人達からも祝福の言葉やハグを受けて、半ば揉みくちゃにされている陽斗を見つつ、重斗に彩音が耳打ちする。
「旦那様、結果を知ってたんですよね?」
重斗の態度からそう読み取っていたのは彩音だけでなく、麻莉奈もそうだ。
いくら滑り止めに合格しているにしても、あれだけ陽斗が緊張している中で、その心中を察しているだろう重斗が心配そうな顔ひとつしていないのはそういうことだ。
「うむ。儂もあの学校の理事のひとりだからな。だが、誤解の無いように言っておくが、儂は陽斗の合否には口を出していないぞ。学力は申し分なかったらしいし、面接官の評価も高かったそうだ。まぁ、あの学校の基準からして儂の孫というのが影響しなかったわけではないだろうし、万が一不合格なら何らかの手を入れたかもしれんがな」
「そのことを陽斗君には?」
「言う必要は無い。陽斗の実力で合格したのは間違いないのだからな」
重斗の言葉に麻莉奈と彩音が頷く。
「でも本当に合格して良かったです。陽斗様は受験に失敗して旦那様に見捨てられるんじゃないかっていう不安があったようですから」
いつの間に近づいて来ていたのか、湊がそういってため息を吐く。
その言葉に重斗は眉を顰める。
「……心の傷が癒えるにはまだまだ時間が掛かりそうだな。そんなことはあり得ないと口で言っても心から信じられるようには簡単にならんか。
これからは、もっともっと甘やかせてやらねばな」
重斗の言葉に、彩音と湊が力強く頷いた。
……いったいどこまで甘やかすつもりなのか、ある意味陽斗が不憫である。




