第103話 無礼の対価
錦小路家主催のパーティーの2日後。
皇家の屋敷の隣にある迎賓館の一室で陽斗の新たな友人である羽島華音がいつもの落ち着きを無くしてキョロキョロと部屋の中を見回していた。
「のかちゃんとラブだったり、元かいちょーと仲よさそうだったから良い家なんだとは思ってたけど、予想以上でびっくり」
口調こそ平坦なものだったが、その目はそれなりに驚いたといったように見開いている。
「そうなるとやっぱり正妻狙いは難しそう。愛人枠をなんとか、いひゃい、のはひゃん、はひをふる」
ブツブツと不穏なことを呟いているがどこまで本気なのか表情だけでは判断できない。
が、すぐ側に居た穂乃香にはしっかりと聞かれていたらしく、頬を抓られたのだった。
「のかちゃんがウチに容赦ない。嬉しくも悲しい。それはそれとして……」
赤くなった頬をさすりながら華音は部屋の奥に置いてあるピアノに目を止めていた。
部屋の広さは50畳以上はありそうな部屋だが、それでもグランドピアノはかなりの存在感を放っている。
「YAMAHAの超高級ピアノ、見るのは初めてだけど、ほとんど使ってない? もったいない」
やはり自分がピアニストなだけあって気になるのだろう。
そんな華音を見て重斗と桜子も朗らかに笑みを見せる。
「確かにしっかりとメンテナンスはしているはずだがほとんど飾りのようになってしまっているのは勿体ないな。お嬢さんが望むならいつでも弾きに来て欲しい」
「ホント? おじーさん太っ腹。弾くのは今日でも良い?」
「もちろん良いとも。何、大した用事でも無いからすぐ終わるだろう。陽斗に素晴らしい演奏をすると聞いているから、儂らにも聴かせてもらえるかな?」
「あの、重斗様、同級生が失礼をして申し訳ありません。華音さん、さすがに気安すぎですわ」
「穂乃香ちゃん、気を使わなくても大丈夫よ。陽斗のお友達だし、畏まられるよりも私達は嬉しいから」
この部屋に居るのは華音と穂乃香の他には重斗と桜子、そしてもちろん陽斗も居る。
穂乃香はともかく、華音までがここに来ている理由は先日のパーティーで陽斗に暴言を吐いた錦小路家の分家、高桑家の家長と当事者である聡が謝罪したいとアポイントを取ってきたからだ。
聡の態度に怒っていた重斗ではあったが、謝罪したいというのを無視するのはさすがに狭量だし、当人である陽斗の希望もあって会うことにした。
無論許すかどうかは実際に面談してからの話ではあるが。
「それではそろそろ呼ぶとしようか。陽斗、良いか?」
「あ、うん。でも僕は別にそんなに気にしてないんだけど」
高桑家の面々は別室で待たされているのだが、陽斗としては穂乃香に対する態度は少々不満があるにしても自分が言われたことはまったく気にしていないのでこんなに大事になってしまったことに戸惑いしかない。
それでも家同士の問題となれば無かったことにはできないと諭されたのだ。
そういった事情で、あの場に居た陽斗と穂乃香、華音が呼ばれたというわけだ。そして親しくもない相手を本邸に招きたくない重斗の指示で隣接する迎賓館で迎えることにした。
実は高桑家の人達は30分ほど前に到着しているが、歓迎しているわけではないということを示すために待たせている。
陽斗としてはそのことも気になって仕方がないようだが。
「し、失礼いたします」
重斗の指示で案内されてきたのは4名。
壮年の男女、おそらくは家長とその妻だろう。他には20代半ばくらいの男性、それに当事者の聡だ。
彼等は部屋に入るなり深々と頭を下げる。
「先日は息子が御令孫と四条院のお嬢様、ご友人の方に大変失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありません。このたび、謝罪の機会を与えていただいたことにお礼を申し上げます」
高桑家の面々は揃って顔色が青く、聡に到っては今にも泣き出しそうなほど悲壮な表情をしている。
「ふん、その謝罪は単に相手が儂の孫だという理由だろう。侮辱した相手が自分達より強い権力をもっているから遜る。そうでなければ謝罪などしないのではないか?」
要は皇の不興を買いたくないから謝って見せている、そう皮肉を込めて重斗が言うと、聡の肩がビクリと震える。
「率直に申し上げて、そういった理由が無いとは言えません。他の方に対してであれば電話や詫び状で済ませてしまったかも知れません。ですが、それは当家が息子の言葉を容認しているというわけではなく、私が事情を知れば必ず叱責しております。
言い訳になりますが、次男の聡は努力家で少々プライドが高いところはありましたが、社会に出れば自然と矯正されるだろうと考えておりまして、これが安易な考えであったと今では反省しております」
意外に素直に打算を認めたことで重斗の表情がわずかに緩む。
この場で口を開いているのは重斗と高桑の家長だけだ。陽斗が何か言いたげにしているが桜子が目で制している。
家同士の問題となったときは当主が対応する。これもまた社交界での作法であり、この場は陽斗の教育の機会でもある。
「ふむ、それで、ご子息の不始末をどう納めるお積もりかな?」
「まずは本人から直接誠意のある謝罪をさせていただき、御令孫と四条院穂乃香様、ご友人の羽島華音様のご希望をお伺いしてしかるべき対応を行おうと考えております。皇様の関係者に対して金銭や物品での謝罪など意味はありませんので」
慰謝料などは金銭を必要としない相手には何の意味も無い。場合によってはかえって怒らせることになりかねないが、かといって何もしないわけにはいかないので相手に委ねるということだろう。
さすがは錦小路家の分家の中でも有力と評価されている家の当主といえる。
「ふむ、穂乃香嬢と羽島さんはどうかな?」
重斗が穂乃香と華音に訊ねる。
「わたくしは陽斗さんに対しての言葉を撤回して謝罪していただければ後は重斗様にお任せしたいと考えておりますわ」
「ん、ウチはどうでも良い。何か欲しいとかも無いし、二度と陽斗に対して嫌な態度を取らなければ」
無難な対応をする穂乃香と、すぐにでも高級ピアノを弾きたい衝動と戦っているらしい華音。
桜子が口元を手で隠しながら笑いをこらえているが、さすがにそれをツッコむ人は居ない。
「それでは陽斗に訊く前に、君の言葉を聞こうか」
重斗が聡に向かって言う。
「は、はい。せ、先日は大変失礼な態度を取ってしまい、そ、それから、侮辱してしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」
ここまでずっと頭を下げたままだった聡は、さらに下げるために跪いて額を床に擦りつける。
「私も父親として今後厳しく躾け直します。本来一般消費者が居られるからこそ我々の仕事も成り立っております。息子はそのことを理解しておらず、そのせいで他者を見下すという態度をとっておりました。矯正しきれなければ縁を切るつもりでいます。どうか我々の謝罪を受け入れていただけないでしょうか」
父親と母親も、それから兄であろう男性も一緒になって再び頭を下げた。
陽斗は重斗の視線を受け、おずおずと一歩前に出る。
「あ、あの、僕は気にしていないです。で、でも、穂乃香さんにも謝って欲しいです。それから、もう人を馬鹿にしたりしないでください」
「それだけで良いのか?」
「そうよ、なんだったら引っ叩いたって誰も怒らないわよ」
重斗と桜子の言葉に困ったような顔で首を振る陽斗。
本当に気にしていないのだから、これ以上何かを要求しろと言われても困る。
「ふぅ、陽斗がそれで良いのなら儂もこれ以上は言うまい。だが、次は無い。それだけは理解しておいてもらおう」
「もちろんです。二度と、お孫さんだけでなく、誰に対しても相手を侮ったり見下す態度を取らせません」
「はい。私も今回のことを教訓に、謙虚さを身につけることをお約束します。穂乃香さんにもお詫びいたします。申し訳ありません」
父親と聡の言葉に頷く重斗。
「では、錦小路のご当主には儂から和解の意思を伝えておこう」
そう言うと、聡以外の高桑家の者達の顔にようやく安堵の表情が浮かぶ。
「ありがとうございます。寛大なお言葉に感謝しきれません。ですが、それだけでは私どもの気が済みませんので、どのようなことでも構いませんので何かできることはないでしょうか」
これは高桑家の家長としての正直な気持ちだろう。
基は言葉による無礼であり、見方によっては些細なトラブルに過ぎないが、はるかに格上の家に対して謝罪した、許された、だけでは逆に不安を感じてしまうのだ。
それには重斗や穂乃香の視線が陽斗に向けられることになった。
「え、あの、えっと……あ、これから先、琴乃先輩の味方になってあげてもらえませんか?」
注目を浴びて戸惑いつつも何か無いかと頭を回転させた陽斗が、ようやく思いついたことを口にする。
「は? あの、琴乃先輩とは、本家の琴乃お嬢様のことでしょうか。もちろん高桑家は錦小路家傘下ですので本家の意向に背くつもりはありませんが」
「えっと、先輩にはすごくお世話になってて、だから、もし先輩が何かをしようとしたときに反対する人が居ても味方になって欲しいんです」
「そう、ですわね。錦小路家がグループの総領といっても、大きな決定をしようとすれば反対される方もいらっしゃるでしょう。その時に琴乃様に無条件で味方をすること、そういうことです。わたくしもそれを望みます」
陽斗の言葉に穂乃香までが賛同したことで高桑父はしばらく思案し、やがて頷いた。
「わかりました。琴乃お嬢様がグループに敵対するようなことをするとは思えませんし、それ以外のことでしたら多少の不満や異論があったとしても全面的にお嬢様を支持します。それでよろしいですか?」
理由は分からないまでも琴乃の為人は知っているし、打算的な考えをしたとしても無条件の支持が家にとってマイナスにはならないだろうと即座に計算したらしい。
陽斗の念頭にあったのは琴乃の恋人である雅刀のことだ。
雅刀の家柄が理由で、現状ではその関係を公にできないし、この先もそれなりの障害があるだろうと考えて、味方になってくれる家があったら少しは助けになるかと思ったのだ。
「はい! よろしくお願いします!」
心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべて頭を下げる陽斗に、面食らった高桑氏だったが、すぐに穏やかそうな笑みを返した。
「なんというか、不思議な方ですね。これから先が楽しみです。皇様、今後もし私どもが力になれることがあれば、何なりとお申し付けください。改めてこの度は申し訳ありませんでした。謝罪を受け入れてくださったこと、心から感謝いたします」
『ありがとうございました』
「私も兄として弟を監視していきますのでご安心ください。それと、陽斗君、機会があればゆっくりと話をさせてもらいたいですね」
「あ、はい」
最後に若い男性がそう言って陽斗に話しかけ、高桑家の人達は退出していったのだった。
それを見送り、桜子が満面の笑みを浮かべて陽斗を抱きしめる。
「ふぇ? さ、桜子叔母さん?!」
「あははは、陽斗、あなた最高!」
ご機嫌な様子の桜子に戸惑う陽斗と、可笑しそうに笑みを堪える重斗と穂乃香。
まったく理解できていない陽斗に、重斗が説明する。
「今回、高桑家から儂らが受け取ったものは何も無い。だが、謝罪を受け入れたことで彼等は陽斗と穂乃香さんに借りを作ったのは間違いない。そこまでは儂も想定していたのだがな。陽斗が要求した琴乃嬢に味方するという条件が大きい」
重斗は当然陽斗の周囲の人間関係やその背後までしっかりと調べている。
なので、琴乃と雅刀の関係も把握しているのだが、琴乃と雅刀が錦小路家の後継者になるのは間違いない。ただ、順風満帆とはいかないのは見えているし、そこに有力分家の支持があれば大きな力になるのは確かだ。
それが陽斗の要請によるものだとなれば、間接的に錦小路宗家へ貸しを作ったことになるのだ。
これまで皇家と一定の距離を取っていた錦小路家が、将来陽斗の大きな力になるかもしれない。
それを無意識に引き込んだ陽斗の行動に、感心すると同時に巡り合わせの妙を感じざるを得ない。
とはいえ、陽斗にはそんな自覚は無いし、単に思いついたから大切な先輩達の力になればと考えただけ。
重斗と再会して反転した運命。
それが引き寄せた価値を知るのはもっと先のことだろうが。
「おじーさん、もうピアノ、弾いて良い?」
結局最後まで興味なさそうにしていた華音が、ウキウキした様子で聞いたことでようやく一騒動が片付いたのを実感したのだった。