第102話 陽斗の目
「それでは、今後の錦小路グループの発展を祈念して、乾杯!」
『乾杯!』
会場の片隅で一騒動あったものの、時間通りに始まった新組織の発表は大きな問題もなく進み、最後に錦小路正隆氏の挨拶と今後の展望が語られ、乾杯の音頭が交わされる。
陽斗と穂乃香、それから華音の3人は会場の隅の方でグラスに注がれたマスカットのジュースを飲んでいた。
「あ、美味しい」
「そうですわね。さすがにソフトドリンクもちゃんとしてますわ」
「ん、美味。あ、陽斗の方も飲みたい。交換して」
「同じ物です!」
冒頭で錦小路家の分家のひとつ、高桑家の令息から不快な思いをさせられて憤慨していた穂乃香だったが、当の陽斗がまったく気にしていなかったことと、こんな場でもマイペースを崩さない華音の言動ですっかりいつもの雰囲気を取り戻していた。
重斗は祝いのスピーチをするため演台近くに行っており、桜子も一緒なためここには居ないが、元々こういった社交界に陽斗を慣れさせるという目的なのでこの後で合流することになっている。
「まだ食べちゃ駄目? ウチ、お腹すいた」
「まったく、もう乾杯も終わりましたから食事しても構いませんけれど、あまり食べ過ぎないように」
「ん。こんな贅沢な食事、次はいつ食べられるか分からないから、頑張る」
どっちの方向に頑張るつもりなのか。
そんなやりとりに陽斗はクスクスと楽しげな笑い声を上げる。
「わ、笑わなくても良いでしょう。もう、羽島さんと居ると調子が狂いますわ」
拗ねるように頬を膨らませる穂乃香は、いつものような凜とした雰囲気ではなく年相応の可愛らしさを見せる。
「何度も言ってるけど、ウチのことは華音でいい。ウチも副会長のことはのかちゃんって呼ぶ」
「ですから、勝手にあだ名をつけないでください!」
意外に相性は悪くないのだろう。家柄で距離を置かれることを悩んでいたこともある穂乃香に対し、華音は一切構えることなくマイペースに接している。
穂乃香も陽斗に対する態度だとか空気を読まない傍若無人ぶりに文句は言うもののどことなく楽しそうにも見える。
「とにかく、陽斗さんとわたくしはお祖父様達のところに行きましょう。人との交流が参加した目的ですから。羽島さん、いえ、華音さんはどうされますか?」
「……面倒そうだからここで食べてる。陽斗はのかちゃんに貸してあげるから後で返して」
「陽斗さんは貴女のものではありません!」
掛け合い漫才のようなやりとりをしつつその場を離れた穂乃香に腕を引かれた陽斗は、笑いをかみ殺しながら後に続く。
「そんなに笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、華音と話す穂乃香さんが楽しそうだから、僕も嬉しくて」
「楽しそう、ですか? 私は別に、それに、彼女は陽斗さんに馴れ馴れしすぎますし」
「ん~、華音は僕をからかってるだけじゃないかな。気に入っては、くれてるのかなと思うけど」
穂乃香から見れば露骨にアプローチしているように思えるのだが、どうも陽斗にはピンとこないようだ。
「ん? 陽斗、友達とはもう良いのか?」
「うん。向こうで好きなものを食べたいみたい」
ふたりが近づいてくるのに気づいた重斗は、話をしていた相手から目を外して陽斗に訊ねる。
「お話の邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「いえいえ、私の挨拶は済みましたし問題ありません。むしろ、皇様のお孫さんと四条院家のご令嬢とお目にかかれて光栄です。それではまた機会があれば」
重斗の対面に居た男性は鷹揚にそう帰すと、一礼して離れていった。
さすがにこういった場に招かれている人は引き際を熟知しているということだろう。もっとも例外が最初に現れたわけだが。
「二人が大丈夫なら私達と一緒に居なさい。主催者である正隆氏には挨拶が終わっているのでしょう? だったら他の人は待っていれば向こうから声を掛けてくるでしょうから」
桜子がそう言ったそばから数人の男性が近寄ってきて重斗に話しかけてくる。
「皇さん、お久しぶりです。○○グループの佐藤です。その節はお世話になりました」
「うむ、息災そうで何よりだ。ああ、紹介しておこう。妹の桜子と孫の陽斗、孫の友人であり四条院家の令嬢、四条院穂乃香さんだ」
「おぉ! 噂は耳にしておりましたが、そうですか。桜子さん、それから陽斗さん、初めまして、どうかよろしくお願いします」
「ええ、よろしく」
「は、はい、よろしくお願いします」
無難な挨拶をなんとかこなしたものの、その後も次から次へと重斗の元に人が挨拶に訪れてくる。
普段あまり重斗がこういった場に出てくることがないので、なんとか関係構築の糸口ぐらいは作りたいという考えなのだろう。
重斗の方もそれを承知した上で応じつつ陽斗を紹介している。
そのせいで陽斗に会話を振ろうとする者も居たが、桜子がさりげなく遮って捌いていく。
「さすが皇様は大人気ですね」
何人も続けて挨拶を受け、さすがに陽斗が疲れた顔を見せ始めた頃、タイミング良く琴乃が声を掛けてきた。
さすがにグループの総裁令嬢の目の前で重斗に話しかけづらいのか、残念そうに表情を作りながら周囲から人が離れていく。
「単に儂が錦小路家の主催する場に居るのが珍しいのだろう」
「でも、陽斗は慣れていないから疲れてしまったみたいね。ちょうど良いタイミングだったわ」
琴乃がしばらくの間様子を覗っていたことを皮肉っぽく揶揄する桜子に、曖昧な笑みを返す。
「あの、そういえば鷹司先輩は一緒じゃないんですか?」
以前、琴乃の屋敷に招かれたときには雅刀もパーティーに参加するかのように言っていた気がしたので陽斗が訊ねると、琴乃は小さく肩をすくめて陽斗と穂乃香だけに聞こえるような声で理由を説明する。
「今はまだ私と雅刀君の関係は公にしていないからこういった場では別行動なのよ。余計な茶々が入ると嫌だもの。だからあっちは父の秘書見習いという名目で雑用に飛び回ってるわ」
雅刀の実家は普通の家だと言っていたが、そういうことが影響しているのだろう。とはいえ、黎星学園に通えるのだからそれなりに裕福な家庭なのだろうが。
「錦小路先輩も苦労されますわね」
「まったくよ。他の男性をパートナーにしたくないし、ひとりで居ると変なのが声を掛けてくるし。今回はグループ関連の人ばかりだからまだマシだけどね。穂乃香さんが羨ましいわ。あっ、そうだ、今度陽斗くんをお借りしようかしら」
そう琴乃は冗談めかして言うが、穂乃香と桜子に睨まれてすぐに撤回するのだった。
それから、琴乃の提案で重斗達も少し何かを摘まもうと移動しようとすると、30代前半くらいの男性が琴乃に声を掛けた。
「琴乃お嬢様、私も皇さんにご挨拶させていただいてよろしいでしょうか」
「あら、御子神さん」
顔見知りなのだろう、琴乃は少し迷ったあげく重斗の方を向いて男性を紹介した。
「皇様、グループの中核企業で主幹を務めている御子神です。一言だけよろしいですか?」
「構わんよ。その若さで錦小路グループの重鎮とはよほど優秀なのだろう」
「恐れ入ります。皇さんのご高名は会長からだけでなく伺っております。いまだ若輩者ですが、どうかお見知りおきください」
折り目正しくそう言うと、重斗も穏やかな笑みを浮かべて頷き、陽斗達を紹介した。
「陽斗くん、ですね。御子神です。どうぞよろしくお願いします」
「は、い、こちらこそ」
人好きする優しげな笑顔を見せ、一礼すると御子神と名乗った男は立ち去っていった。
「陽斗さん? どうかしましたか?」
御子神に声を掛けられた陽斗はいつになく表情を強張らせていて、穂乃香がそれを見咎める。
「あの、錦小路先輩、今の人は先輩の家の会社の偉い人、なんですか?」
唐突に聞かれた琴乃は、少し戸惑いながらも頷く。
「ええ、そうですね。グループの中核企業のひとつで役員を任されているわよ。内外からの評判も良いし、かなりのやり手だと聞いているけど」
「そう、ですか」
陽斗はそれを聞いて困ったように俯く。
そこに、黙ってやりとりを聞いていた桜子が腰を落として陽斗の顔を覗き込んだ。
「……陽斗、何か気になったの?」
「桜子叔母さん、えっと、気になったっていうか」
「聞いているのは私達しかいないわよ。だから大丈夫。少しでも思うことがあるなら言ってしまいなさい」
桜子の力強い声音に、陽斗は躊躇いつつも口を開く。
「あの、さっきの人が錦小路先輩や僕を見る目がすごく、その、嫌な感じがして。恐いっていうか、笑ってるのに、値踏み? そんな感じがしてて、その……」
その言葉に、穂乃香と琴乃が顔を見合わせる。
ふたりはそんな印象を受けていないようで、重斗も眉根を寄せて御子神の言動を思い返しているようだった。
そんな中で桜子は、フッと小さな笑みをこぼし、陽斗の頭を優しく撫でた。
「良い子ね」
「桜子叔母さん?」
意味が分からず見返す陽斗にひとつ頷いてから、桜子は琴乃の方を向いた。
「あの人のこと、もっと調べた方が良いかもしれないわよ」
「それは……分かりました。父に相談してみます。桜子様の名前をお出ししても?」
桜子の態度に何かを感じたのか、琴乃がそう応じると、桜子が頷いた。