異説 矛盾縁起
楚の人で、盾と矛とを鬻ぐ者がいた。屋台にそれらを並べて、宣伝文句の書かれた木札を掲げていた。
曰く、
「私の盾の硬いことは、それをもって防ぐことのできないものはないほどである」
「私の矛の鋭いことは、それをもって貫くことのできないものはないほどである」
そこに智者然とした壮年の男が通りがかってこう言った。
「では、あなたの矛であなたの盾を突いたならばどうなるか」
商人は返答に窮してしまった。
智者はいい加減な宣伝文句を掲げていた商人を言い負かすことができ、満足げな表情を浮かべた。
智者にとって不幸だったことは、辻褄の合わないことを目敏く見つける程度の利口さは備わっていたものの、全てを貫く矛と全てを防ぐ盾を持つ男の気分を損ねた時に、どのようなことが起こるかについての想像力に欠けていたことであった。
痛いところをつかれ、とんだ恥をかいてしまった。商人は辺りを見回したが、皆が自分を笑っているように思えた。
今まで味わったことのない屈辱を感じ、頭に血がのぼった商人は、思わず売り物の矛を手にとって、智者に一撃を放った。
全てを貫く矛は謳いに違わず、智者の左胸を穿ち、いとも容易くその命を摘み取った。
戦国の世にあって、商人も人を殺めた経験がないではなかったが、流石にその時ばかりは茫然としてしまった。
しかし、放心状態の裏で、商人は頭の一部が冷静に計算を働かせていることを自覚していた。
こうなってしまっては、すぐに私は拘束され、裁判にかけられるだろう。そして私は処刑されるに違いない。
どうせ死ぬならば、いっそのことどうだろう。私には、全てを貫く矛と、全てを防ぐ盾があるのだ。とことんまで抵抗し、うまくいかなければそのあと死ねば良い。
人を刺し貫いたかと思えば、突然黙り込んだ商人をよそに、白昼の惨劇を前にして、周囲は阿鼻叫喚の様相を呈した。人々は次に自らがこの凶漢の標的となってはたまらないと逃げ惑う。
騒ぎを聞きつけた軍人たちが、下手人を捕らえんとすぐさま駆けつけた。
彼らは商人に向かって鉄戈を振るったが、それらは全て盾に受け止められ、次の瞬間には矛が彼らを刺突した。
商人は無我夢中で盾を構え、矛を振るった。気がつくと数十人いた兵で、立っているものはいなかった。
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たった一人の商人による反逆は、楚王の耳にも入った。
すぐさま楚王は勅令を下した。
「楚の威信にかけて、大逆人を討ち取るべし」
膨大な軍勢が叛徒討伐のために遣わされた。楚軍は商人を取り囲み、四方八方から、矢を打ちかけた。
しかし、それでも商人は負けなかった。
商人が千の兵を迎え撃ち、万の兵を打ち倒した頃から、商人の武威に心酔した者や楚の統治に不満を抱いていた者たちが商人の後ろに列をなすようになった。
軍勢を相手に決して不覚を見せない商人に攻めかけることは、最早自殺行為であると悟った兵たちは、楚に反旗を翻して商人の側に付いた。
商人が国都の陳に攻め寄せて、楚王を討ち取った時には、商人の軍勢は四十万ほどにまで膨らんでいた。
商人は建国を宣言し、国名は双と号した。双とは、矛と盾、一揃いの神話的な強さを誇った軍器を称える意味を持った。
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楚が周王朝以来の伝統ある諸侯であったのに対して、なんの血統も正統性もない双の建国を周囲の国々は皆非難し、秦を盟主とした六国連合軍が双への侵攻を開始した。
六国連合軍による侵攻の内実は楚の崩壊を好機と見た秦による侵略戦争であったが、建国を果たした双の勢い、そして双王が誇る矛と盾の力を秦は見誤っていたと言える。
双王の矛・盾への信頼はその時にはもはや信仰の域へ達していた。双つの武器もまた、双王の信仰によく応えた。
双王が穿たんと念ずれば、先に貫いたという結果が確定し、矛は因果律を遡行して、寸分違わず標的の下へ翔破した。然るのちよく訓練された伝書鳩の如く主の元へと舞い戻った。
双王が防がんと念ずるその前に、敵意を窺知し、盾は因果律を裁断して、攻撃が為された事実そのものが葬られた。その防禦の領域は双軍全体へも及んだ。
秦の指揮官を射程外から一方的かつ的確に狙撃し、自軍への攻撃はその全てを一切の被害を生むことなく防ぎきる。
双王の存在はたった一人にして戦略的次元で機能し、双軍は破竹の勢いで秦軍を打ち破った。
ついに双王は秦の都咸陽に至り、秦王を討ち取った。秦を併合した双は中国大陸の三分の二を占めるまでに版図を広げた。
秦の敗北を微塵も予想していなかった残りの五国は激しく狼狽した。
一介の商人が王にまで成り上がったことに刺激され、各国で反乱が発生した。その結果斉は内部崩壊を起こし、双はこれを併合した。
双王は遠征を重ね、三年の内に韓・魏・趙を滅ぼし、最後には燕都、薊に攻め込み、燕王を討った。
ここに双による中国統一が為り、五百年近く続いた諸国の群雄割拠の時代は終わりを告げた。
奇しくも、別の道を辿った歴史における秦王政と同様に、双王は始皇帝を名乗った。
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意外にも始皇帝の治世は平穏なものだった。
始皇帝の武名は中国全土に轟いていたため、反逆を起こそうなどという者は少なかった。
始皇帝は儒学によって国を治めることとした。楚の市場にて、始皇帝をして屈辱を味わわしめた智者は、法家であったと知り、法家と反目していた儒家を重用することに決めたためであった。
元々はしがない商人であって、政治には才能などないことを自覚していた始皇帝は、全ての国務を当世一流の儒家たちに任せきっていた。
徳を重んじた統治によって、双の国はそれなりに治っていたのであった。
始皇帝は度々北に親征を行なっては、常勝の軍を率いて匈奴を蹴散らした。そして戦国時代に各国が築いていた長城を繋げ、北方民族への備えとした。
最期にはそれほど大きくはない陵を営み、手厚く葬られた。
皇位は長男が後を継いだ。
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二世皇帝には諡号が存在しない。
そのため、彼のことは二世皇帝と呼ぶほかないのだ。
正史における秦の始皇帝がしたように、諡号が廃止されたわけではない。
ただ、最後には諡号を贈る者も、贈られる者もいなくなってしまったというだけなのだ。
それは一体どういうことであるのだろうか。
若い頃から次期皇帝として指折りの儒家たちの薫陶を受けた二世皇帝は、結局のところ月並みな人間に過ぎなかった父親とは違い、聡明な男へと成長した。
そして、かつての智者と同じ疑問に至った。
「全てを貫く矛で全てを防ぐ盾を突けば、どうなってしまうのだろうか」
いつ何時でも変事に対応できるように、そしてそれ以上に皇帝の権威の象徴として、玉座の傍らには常に双つの神器、矛と盾が据えられていた。
好奇心に抗えなかった二世皇帝は、玉座の間から誰もいなくなったのを見計らって、矛を手にとって、盾に向かって突き出した。
その瞬間、二世皇帝は全てを後悔した。
因果律に干渉する神器同士が競合し、盾は貫かれており、また同時に貫かれていない状態になった。
盾は存在と不存在の境界を不安定に振動していた。
その刹那、盾を中心とした量子色力学的閉じ込め相転移によって、指数関数的な急膨張が引き起こされた。
それはまるで宇宙の開闢のような有様であった。
相転移によって、アップ・ダウン・ストレンジの三種のクォークが束縛状態となって、原子核が崩壊し、より安定なストレンジレットが生成された。
本来であれば中性子星の内部にしか観察されないであろうストレンジレットは、ストレンジ物質仮説の通りに周囲の原子核に衝突し、ストレンジ物質へと転換させた。
生成されたストレンジ物質はそのまた周囲の物質をストレンジ物質へと転換し、その繰り返しによって地球は瞬く間にストレンジレットに飲み込まれた。
当時、オリエント世界はアレクサンダー大王が築いた広大なマケドニア王国の後継国家同士が相争う、いわゆるヘレニズム時代であった。
共和政ローマは地中海世界の統一の途上であり、インドではアショーカ王のもとで、仏教教義の確立が進められていた。
日本列島には文明の萌芽が見え始め
た頃であり、この時期には古墳時代に先立って墳丘墓が出現していたと考えられる。
だがしかし、世界の歴史の針は、突如その動きを止めた。
地球は熱いストレンジ物質の塊へと成り果ててしまった。
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二世皇帝は意識を取り戻した。
辺りを見回すと、先程まで居た玉座の間ではないようであった。
人の往来が激しい通りであって、多くの屋台が軒を連ねていた。
突然周囲の風景ががらりと変わってしまったわけであるが、二世皇帝の心中は奇妙な落ち着きで満たされていた。
ここは初めて来た場所ではないような気がしているのだ。
二世皇帝はしばし困惑した後、すぐに既視感の正体に気がついた。
「ここは父が何度も思い出話に語っていた、楚の市場であるのだ」
見ると自分も屋台の内側に座っているようで、台上には矛と盾が並べられ、その横には木札が掲げられていた。
曰く、
「私の盾の硬いことは、それをもって防ぐことのできないものはないほどである」
「私の矛の鋭いことは、それをもって貫くことのできないものはないほどである」
そこに智者然とした壮年の男が通りがかってこう言った。
「では、あなたの矛であなたの盾を突いたならばどうなるか」
全てを悟った二世皇帝は、何も答えずに、店を畳むことにした。
幼い頃の記憶を頼りに、故郷の村に帰ると、小さな子供が出迎えた。
「お父様、おかえりなさいませ」
「これは過去の私であるか。まったく奇妙なことよ」
二世皇帝はひとりごちた。
突然人の変わったように聡明になり、またやたらと威厳のある振る舞いをするようになった男に、邑の者は驚いたが、皆すぐに慣れた。
二世皇帝は商人稼業はやめて、邑の子供たちを相手に私塾を開いた。
大した対価も求めずに子供たちを教える男は皆から尊敬され、やがて老い、死んだ。
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中国は秦によって統一され、法治主義によって治められた。
智者が商人を痛快にやりこめた話は、人々の語り草となっていたが、法家を大きく発展させた韓非はこれを耳にして、自身の著作に採用した。
後にこの故事をもとに矛盾という言葉が生まれた。
今では、辻褄が合わないこと、物事の道理が一貫しないことという意味で使われている。