プロローグ7
一瞬にして硬くなった頸部の筋肉を無理矢理動かし、震えながら右を向く。
倒れていたのは、赤茶色の髪を下ろしている青年であった。
思わず名を叫ぶと、僅かだが動いてくれた。
何があった。そう問う前に、遥か先方より何者かの気配を感じ、ガウンはユタを担いで森の中へと入る。
静かにユタを枯れ草の上に寝かせ、羽織っていたコートを脱ぎ、迷わず裂いた。
鞄の中に、消毒液や薬草などを詰め込まなかったことを悔やみながら、包帯の代わりにと裂き繋げた布で止血を試みる。
まずい、ホギよりも状態が酷い。
額から足先まで、切り傷が痛々しく刻まれている。
流血は止まらず、左目は潰れ、口内は既にボロボロだ。
いくつかある噛み跡は、おそらくホギによるものだろう。
ユタは守ったのだ、ホギの心を。
彼が敵諸共、皆を喰ってしまわないように。
自分が止めなければ、確実にホギは壊れていた。
目の前で細い呼吸を繰り返すユタの思いは、ガウンにも痛い程刺さってくる。
血のついた手で顔を汚しながら汗を拭いつつ、ようやく頭ごと左目を固定し終えた。
「ユタ、ユタ。ねぇ、私が誰だか分かる?」
声をかければ、彼は無理にでも笑おうとした。
「分か、るよ。ガウンだろ。」
たったその一言だけで、目から涙が零れおちそうになる。
ガウンは自分を叱咤し、何とか冷静さを取り戻した。
「ここまで来る間に、半分以上の皆に会った。村は今どうなってるの。」
「大丈夫だから、おまえは階段に行け。」
既に自力で動く力も無いはずなのに、ユタは顔を歪ませながら上体を起こす。
「どうして皆私を頼らないの。そんなに私は足でまとい?私はもう二度と失いたくない。」
「違う、そうじゃなくて俺たちは―――」
二人は小声で交わされていた会話を中断し、同時に木の裏に隠れた。
呼吸を止め、気配を限界まで薄める。
「ったく、あの犬どこ行きやがった。」
敵だ。
ガウンは静かに息を飲む。
「犬じゃないよ、狼だよ。彼たぶんルコスの子だ。」
子供のような声だ。相手の視界に映らぬ箇所にいるため顔と性別の確認はできないが、節々に狂気を感じる幼さがある。
「ルコスの中でも、狼化できるやつは稀有なんだろ。なんでまたこんな森に捨てられたんだか。」
もう一方は、無骨な男。
何の武器かは知らないが、振り下ろす際に聞こえた風の音は低かった。おそらく体格もよいのだろう。
「あの傷じゃあ大して保たないよ。部隊長様のとこに戻ろ。」
「珍しいな、持って帰らないのか。」
「だって、僕らが来る前から彼、ぼろぼろだったじゃないか。キズモノを集める趣味はないよ。」
だんだんと彼らの声が小さくなる。
行ったか。ガウンが動こうとしたのを察し、ユタはそれを制した。
木の陰から出ぬよう道の向こうを見ると、まだ二つの人影が残っている。
思わず、小さく息を吸ってしまった。
ユタの優れた視力でも負えなくなった頃、二人はようやく声を使う。
「ヘバルの奴らが、まだ村にわらわらいる。ロギさんにも言われたろ、先に階段に行け。」
「〈誰の〉先に行くの?」
ユタの瞳孔が開く。あえて見ていなかったガウンの目を、彼は見てしまった。
彼女の迷いなき瞳に対し、自分はどれだけ悲痛を隠せているだろうか。ユタは再び顔を逸らす。
「皆の先を歩くことならできる。でも一人で逃げるのは、もうごめん。」
自分のこの言葉と行動が、彼を困らせてしまっているのは重々承知である。
しかし、彼女はどうしても譲ることができなかった。
もう既に遅いのかもしれないが、悔やむのは後でいい。
後で目一杯今日の、この今のことを悔やんでやるから、未来くらい選ばせてくれ。
「…俺、何回ロギさんに怒られればいいんだろ。」
「それと同じくらい、私もお父さんに説教する。もちろん、ユタにも。」
そりゃ参ったな。ようやくユタは、負けを認めたように微笑んだ。
「俺の方が確実に足でまといだ。いざとなったら、俺を切れ。」
「冗談も大概にして。私一人で見知らぬ土地に行かせる気?」
「なんか、今のロギさんみたい。」
そうだ、そうだよな。ユタは未だ笑っている。
その奥の心が何色なのか計り知れないが、今は風が少し心地よい。
作戦は、無い。
とにかく生きる道を探しながら戦うのみ。ガウンは鞄と袋を自分の身体に巻きつける。
幼い頃から抱えていた、剣と槍を両端に付けている、リンネラの民特有のもののみを武器として。
ユタは人型で動くことはままならないため、狼化しガウンの援護に回る。
「ホギが謝ってた。もっと自分が強ければって。」
「それは、一発殴ってやらないといけませんな。」
「そうだね、私も皆に一発ずつ手を上げさせてもらいます。」
ユタは笑いながら小声でごめんと謝り、ガウンをほんの数秒だけ抱きしめた。
「どうしたの。」
「生きてる自信を、持ちたくて。」
それ以上は聞かないで欲しいとでも言うような、あまりに切ない笑顔。
ガウンはただ笑みを返し、頬を撫でた。
行こう。家はすぐそこにある。