プロローグ6
風の音すら聞こえない。彼女は霧の中、自分が泣くことしかできていなかったことに気がついた。
何に泣いているのだろうか。ずっと繋いでいた手を離された気分だ。
追わなければ。父は村へ向かった、私も行こう。
涙を拭って立ち上がると、一枚の折りたたまれた紙が落ちた。
開いてみれば片手に収まるほどのサイズで、あらゆる方向を指した矢印が十数個並んでいる。
こんなものを自分の鞄に入れた記憶はない。父か。
つまりこの無数の矢印は、ミレーの階段を下りきるための地図なのだ。
だとしたら、今は必要ない。自分が生きて皆を案内すればいいだけだと、彼女はそれを自身の靴の内側にしまった。
さて。気持ちを入れ替える。
とりあえず門から出よう。彼女は数歩前に進み、手を伸ばした。
「どうして…」
何にも触れられない。
目を凝らしてまっすぐ前を見てみれば、先の見えぬ道が続いていた。
ただ倒れ込んだだけだというのに、こうも帰そうとしないか。更に数歩走ってから、足を止める。
このまま進み続けても意味は無い。
だが、私は帰らねばならない。先程までの速さで走っていれば、今頃父は村に着いているはずだ。
今は霧ごときに構っている暇はないんだ。
考えろ、考えろ。一筋縄でこの霧は消せない。
〈たまには誰かの助けを求めるように〉小さい頃、誰かに言われた言葉を思い出した。
何故今頭をよぎったのかは分からないが、右手に持つコレゾアが温かさを増したのを感じた。
願えと、頼れと言っているのか。
「これ以上、借りは作れない。」
彼女の言葉など振り切り、コレゾア達は彼らが持つ全ての光を一瞬にして放つ。
その輝きに視界を奪われたのはたったの数秒。光の線は右側の霧を指していた。
「そちらに、行けと?」
道など見えない。だが、本能がそちらに行くように指し示す。
一度頷き、霧の中へと飛び出した。
足が石に着く感触があり目を開けると、目の前には先程のような道が広がっていた。
一方、踏み台にした方は既に姿を消し、あたかもそこには何もなかったかのように、濃く霧が渦巻いている。
再び両足に体重を乗せ、光に従い走り抜ける。
たまに屈折する線を追えば、またそこが道になる。コレゾアは、コアは彼女が目指す場所を知っているようだった。
どれだけ走っているか分からない。この中にいては、どうも時間の感覚が無くなる。
自然が一つも無いからだろうか。では、ヘバルにいても朝昼夕を感じられないではないか。
そんなことを考えてから数秒。突然逃げるように霧が姿を消した。
コレゾアの光も殆ど同時に消えて無くなり、ガウンは後ろを振り返った。
そこではミレーの門が、ただ呆然と虚空を見つめている。
余韻に浸っている暇はない。直ぐ様踵を返し、ガウンは本来の予定で通ってくる予定であった道を逆走し始めた。
三日月がもう、てっぺん近くまで登っている。私はどれほどの時間、霧の中を彷徨っていたのだ。
もう既に、爆発音など聞こえてこない。恐ろしい程に静かな森だ。
何故、民がどこにもいない?
もうすぐ村との境目に着いてしまうというのに、ガウンは未だ誰とも会うことができていない。
誰でもいい、顔を見せてくれ。
上体を低くし、最大限のスピードで走り続けるガウンの視界に、肌色が映った。
振り返りながら、右手と右足で地を滑りながら速さを緩めると、広がった視界には見覚えのある人物が入ってくる。
「ホギ!」
首元に手を添えてみる。どうやらまだ息はあるらしい。
なんとか顔を上にあげ、ガウンは自身の折った膝を使って彼を支える。
初めて会った時から、綺麗な髪だと思っていた。
毎日手入れを欠かさず、指通りのいい肩までの茶色い髪の毛を毎日保つホギに、よく維持の方法を聞いたものだ。
しかし今の彼の髪は、泥と枯葉にまみれている。
整った顔も傷と小石でぼろぼろだ。
「ガ、ウン」
掠れた声に、ガウンは何度も頷く。
「階段を降りる道は分かった。皆を迎えに来たの、手当するからじっとしてて。」
「これ以上は、駄目だ。」
利き手が折れているのか、ホギは震える右手でガウンの右頬に触れる。
「俺が、もっと自分をコントロールできてれば良かったんだ。そうすればユタも、傷つかないですんだのに。昔から、俺ばかり迷惑を、かけて。ごめんな、ガウン。ごめん、ごめん。」
喋るなと言えど、ホギは謝ることをやめない。
止まらぬ涙と共に詫び言ばかり繰り返され、ガウンは彼をそっと抱きしめることしかできなかった。
大丈夫、大丈夫。子をあやすように背中を叩くと、ホギの嗚咽は収まった。
しかしそれは、彼の短い生の音が止んだ静けさでもあった。
ホギは、狼と共に生活を営むルコスの民であった。
民の殆どが力を有さない人間らしいが、暦の内に一人から二人、狼の血を半分継ぐ子供が産まれるそうな。
その子供達は稀有な存在とされ、大切に、大切に育てられる。
ホギはその内の一人だったが、昔から感情のコントロールが苦手な子供だった。
激昂した流れで人型を捨ててしまうと、他からの勢力がない限り力の制御が不可能だという。
しかしその間の記憶が無いという訳ではないため、ホギは自ら狼化することをやめた。
非など無いのに、謝っては駄目じゃないか。
曲げたくなかったであろう決意まで折って、守ってくれたのに。
ガウンはホギをそっと地面に寝かせ、両手を合わせる。
後でちゃんと、お墓を建てるから。今だけ、ここで少し休んでて。
「ありがとう。無理させて、ごめん。」
それだけを告げ、ガウンは走り出した。
嫌な予感がする。胸焼けはするし、頭に靄までかかっている。
これがよく聞く〈第六感〉というものだろうか。ここまで気持ちの悪いものだとは思わなんだ。
森がどこまでも続いているように見えるが、既に村との境界は超えていた。
ここまで来る内に、大分時間を使ってしまった。何人もの民が道端にて眠っていたのだ。
全員それぞれと言葉を交わしていたら、更に時間の感覚を失っていた。
鼻を掠った焦げた匂いに、ガウンは足を止める。
村の中心が近い。彼女の目が鋭くなる。
先程から、背を流れる冷や汗が止まらない。
ホギが人型に戻っていたということは、彼と同等の力を与えた者がいるということだ。
それが敵であればまだいい。
もしもう片方によって起こっていたとしたら。
しかし、どうしても悪い予感というものは当たるらしく、一歩進もうとしたガウンの目の前を、舞うように〈何か〉が飛んでいった。
「ユ、タ」
狼を止めたのは、もう一匹の狼であった。