十四歩,
「み、ミレーの階段を抜けてきたっていうのか?」
「そ、そうだけど…」
そこまで驚愕することだろうか。
商人を初め、自分以外にも階段を抜けている者はいるであろうに。
「すごい、本当にあの階段の向こうには別の世界があるんだ…」
「ぼくも行きたい!」
子供達は好奇心に勝てないらしい。
年齢差など関係なく、瞳が輝いているのが分かる。
「ここ十年、更に霧が濃くなったていう話を噂で聞いていた分、驚いたわ。」
エレルは感嘆の溜息をついた。
「階段の向こうってのは、どんな世界なんだ?」
ドレアラも、少なからず興味はあるらしい。
いや、彼に限った事ではなく、母も子もガウンとの距離を縮めていた。
「何も、無い。」
しかし彼女は、深くかぶったフードを脱ごうとはしない。
「あるのは真っ黒な雨と枯れ朽ちた森、そして大きな鉄の塊だけ。何の面白みも無ければ、希望も無いようなところ。」
彼らの期待にそぐう答えを、彼女はどうしても用意できなかったのだ。
あぁ、好奇が正気に変わっていくのが分かる。
それでも、ガウンは詭弁を吐くよりましだと考えた。
「じゃああなたは、何のために旅をしているの?」
空気が変わった。
一家との物理的な距離の変化はない。
変わったことといえば、そう。
「自分の新しい居場所を見つけるため?」
彼らの、赤く染まった瞳であった。
「君が失ったものは何?」
ドレアラ、先程までの微笑みは何処へやった。
「その瞳で、何を見てきたの?」
ユノア、その目でこちらを見ないでくれ。
「何故、あなたは独りなの?」
あなたじゃないか、仮にも手をとったのは。
「わすれちゃえばいいんだよ。」
モンドの瞳はかっぴらかれ、ぶれることなくまっすぐにガウンの瞳の更に奥を見つめてくる。
「最初からおかしな場所だとは思ったが。」
動揺をしかけたガウンの頭に、聞き覚えのある声が響いた。
アネスの声が聞こえる。
「声を出すな、この者達に私の声は届いていない。今はおまえが翼を持っている状態だからな。私も普段から力を蓄えている分、心同士での会話が可能になった。」
では、どうすればいいのだ。
このままこの者達の流れに乗ればいいのか。
「いいや、その必要などない。」
どうやらガウンの心に浮かべた言葉がそのままアネスに届くらしい。
「この者達自身に、何かが宿っているわけではなさそうだ。大丈夫だ、深く深呼吸をしろ。〈自分には何も無い〉と言ってやるだけでいい。」
確かに、モンドの言葉に従う理由は、ガウンの中には無かった。
忘却の彼方へ葬って良いものなど、何一つ。
「忘れてもいいことなんて、私には一つも無い。」
何かが弾けたような気がした。
「そっか。」
気づけば、モンドは目の前で笑っていた。
ガウンが拍子抜けしていると、いつの間にか皆の瞳には光が帰ってきていた。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったかしら。」
エレルは、いたずらをして謝罪するように笑う。
「おまえさんが本当に〈何も忘れていないか〉確かめたかったんだよ。まぁ、自分の持ち物まで完璧に覚えていた時点で分かってはいたんだかな。」
ドレアラもドレアラで、豪快に笑った。
「どういうこと?」
「ここが、忘却口って呼ばれてる由来があるんだ。」
ユノアは隠れた右目を軽く掻きながら、ガウンの目を一瞬だけ覗き、すぐに逸らした。
「地下に、変な丸いドアみたいなのが、あったでしょ。あれが、忘却口。大昔の戦争での産物だって、聞いたことがある。あれの影響で、リスィアの上空に来ただけで何かを忘れたり、最悪の場合自分を失くすんだ。」
「反対に、意図して忘れさせることもできるの。でもそれは、忘却を望んだ者にしかできないわ。たまに罪人がここに流されて来るんだけれど、勝手にあの口の中に入れようものなら、存在そのものを無くして塵と化す。」
そうか、その塵が。
軽く動向を開いたガウンに、エレルは静かに頷く。
「そう。さっき教えた通り、ここは人工の砂でできている。テクノルという言葉の意味が、〈人工〉なの。人間によって作り出された砂丘。だから誰も、この地に骨を埋めたいとは思わない。」
死した者は土に還ると言うが、まさか還ることすら出来ない者の中に、自分が今埋まっているとは思わなんだ。
ガウンは、空気を飲み込むことで精一杯であった。
そんな彼女のコップに、ドレアラはジューずを注ぎ足す。
「おまえさんが自分の荷物を探した時は驚いたよ。久しぶりに会った、ここまで左右されないやつに。」
「でも、そんなことを言っていたらあなた達はどうなるの。ずっとここにいれば、それこそいつか何も無くなってしまうんじゃないの。」
それは大丈夫だと笑っているのは、モンドであった。
「僕らには、兄ちゃんがいるからね!」
モンドの、兄。それはユノアを指しているのだろうか。
「ひ、引かないでね。」
恐る恐る彼が自身の右手で避けたのは、彼の前髪であった。
その陰から現れたのは、鉄。
本来瞳があるはずの位置に、幾重にも重なった時計の針のような動きをしている、鉄の塊があった。




