七歩,
ゆらりと揺れる彼の周囲は、目には見えぬ水に覆われているようにも見える。
「あなたが、ミレー?」
地に脚をつけることなく、微笑みながら近づいてきたのは、肯定を意味するのだろう。
ガウンと目が合うと、ミレーは少々目を丸くした。
「これは驚いたな。まさかリンネラの子に会えるとは。いや、救って貰ったと言った方が正しいね。」
ありがとうと頭を下げるミレーに、ガウンは首を横に振る。
彼女はそれを目的としていなかったため、礼を言われたことにどう対応して良いか分からなかった。
「でも、本来リンネラの民は大人しい民族な筈だ。それなのに君の瞳は美しくも澱んでいる。君は、この世界を壊したいのかい?」
「違う。私は奪う意味を教えたいだけ。」
「奪う、意味ときたか。参った、これは参ったな。」
ミレーは、薄く鱗のような模様が見える手で顔を覆い、困ったように笑う。
「清い声に濁った心か。君なら、濁った歯車を壊せるのかもしれないね。」
「ヘバルを知っているの?」
「意識は薄くとも記憶はされているよ。ここを通る承認が、よく鋼鉄の都市があると話していたからね。」
「階段を下る者がいたのか。」
ガウンに持ち上げられたアネスは、ようやくミレーと視線を交える。
見た目だけでは判断ができなかったのか、ミレーは数秒の間を置いて目を丸くした。
「もしかして、アネスか?いやはや、随分と小さくなったもんだ。」
「嫌味なら後で存分に聞いてやる。今は質問に答えろ。」
何だ、随分と急かすね。ミレーは、笑いを堪えるような咳払いを一つした。
「僕も珍しいとは思ったよ。こんな人攫いの階段をいつも使うんだから。少なくとも一年に一度は見ていたかな。」
「待って、〈いつも〉ってどういうこと?一度向こう岸に渡ったら、二度と階段を渡ることはできないはずでしょう。」
「それは単なる〈通例〉でしかない。通例があるならば、無論〈異例〉も存在する。」
そう言ってミレーはふと上を見上げ、何かを指折り数え始める。
「二人…いや、三人だな。少なくともこの階段を往復したのは。」
異例は単数ではなかった。
「だけれど、ここ五十年では二人だ。もう一人は最低でも百五十年は見ていない。その中でも、頻度が高い男がいるよ。そうでない方は、数年に一度通るか通らないかという程度かな。」
その男に出会えれば、ヘバルへ向かう際にもう一度この階段を渡る術を手にすることができるかもしれない。可能な限り翼を使わせたくないアネスにとってその事実は、非常に好都合であった。
しかし。ミレーは続ける。
「その男も数週間前に階段を降りていったばかりだ。彼に会える確率は中々に低いと思うよ。」
情報として得られただけでも十分だ。アネスは小さく頷く。
「それで、ミレーは何故今のような状態になったの?アネスから聞いたけれど、産まれた時からこの橋にいた訳ではないのでしょう。」
「変なこと教えてないだろうね。」
「何を伝えろと言うのだ。水を操るコアなのにも関わらず、人型になれば泳げないということか?」
ガウンは思わず意外だと思った心が表情に出てしまい、ミレーの咳払いは止むなく出された。
「確かに、僕は元々ネイラの森にあった、アネスの祠の更に奥で静かに生きていたよ。きっと君たちは、祠の奥にまでは来たことが無いだろう?」
「勿論。祠にも、滅多なことが無い限り近づいていなかったから。」
「更に言えば、僕は本当に小さなコアなんだ。アネスのように〈第三のコア〉っていう別名が付けられる訳もない。僕が生を維持し続けられるなんて、それこそ小動物が限界だよ。」
笑いながら話すミレーは、まるでこの大きな橋の支えになっている者とはとても思えない。
「五百年くらいかな、この橋の守護を任されてから。アネスには別れの一つも言えなかったが、実はネイラの森を離れることすら、僕は〈知らなかった〉んだ。」
「知らなかっただと?誰かに命ぜられたものだとばかり思っていたが。」
「そうだね…きっとそうなんだろうけれど、すっかり記憶が消されてるんだよ。」
〈記憶がない〉即ち、考えていた可能性は全くの見当違いだったということになる。
もしミレーが自らの力を使って民を増やしていたとしたら、たった今大きな矛盾が生じた。
ガウンとアネスは、厳しい視線を交える。
「そこから僕が自己を失くすまでは、とても早かった。詩なんてすぐに忘れてしまったし、意識は朦朧とすることが通常だったね。せめて感情も忘れさせて欲しかったよ。」
先程までの笑みとはまるで違う。
それもそのはずである、自分の意志とは関係なく、自分の〈なか〉で多くの者たちの命を吸っていたのだから。
「民たちのことは僕が解決するよ、自分の過失だからね。すまない、無力なばかりに何の力にもなれなさそうだ。」
「気にしないで。これでこの橋が、人攫いの橋だと恐れられずに済むのはとても大きなことだから。」
ふわりと微笑むミレーは、吸い込まれそうなほどの麗しさを纏っていた。
「そうだ、君のそのマント、僕に貸してもらえないかい?こう見えて裁縫は得意なんだ、せめてもの侘びと礼として直させて欲しい。」
コアの得意分野が裁縫というのも、また滑稽とも思われるが。
遠慮に遠慮を重ねるわけにもいかず、ガウンは父のマントをミレーに手渡した。




