三歩,
「そういえば、アネスはこの階段のことを知っていたの?」
「階段というより、ミレーの方を知っている。」
随分昔の話らしく、アネスは唸りながら記憶を引きずり出す。
「550年程前の話になるが、ネイラの森の滝の中からミレーは産まれた。しかし、私と時間を共に過ごしたのはたったの50年。この階段の守護を務めるよう命を受けて以来、ミレーには会っていなかったが…本当に話に聞いていた通りの現状だ。」
「誰に命令を?」
「私も分からぬ、ミレーが口を割らなかったからな。そこにも納得はいかなかったが、そもそもあやつはこのような外道を為す者ではなかった。短い期間ではあったが、友人の性格程度なら理解している。」
即ち、この霧はここ500年で発生したものということだろうか。ガウンは周囲を睨むように見回す。
記憶を読む力が元来のミレーの能力だと仮定すれば、それを無理に応用している〈誰か〉がいるということになる。
再び現れた虚像に思わず足を竦めながらも、ガウンは歩き考えた。
しかし、アネスがその歩みを止めた。
「どうやらミレーは、私の存在に気がついたようだ。…いやこれは、私とまでは分かっていないな。」
友人なのに、何故。それを問う前に、周囲の霧が蠢き始めた。
「何だろう、さっきまでとまるで違う。」
「微々たるものでも、不明確な力が〈なか〉に入り込んできたのだ、拒絶は免れまい。ガウン、ここから一歩たりとも動くでない。…全く、殺意までも隠せなくなったか。」
霧の動きに順じて、足元の石畳も大きく揺れ始めた。
捕まるものが周囲に無い今、ガウンは咄嗟の判断で背負っていたロンフォスの剣先を石の間に突き刺す。
強風と地響きに耐える中で、轟音を上げて霧を割ってきたのは、広く大きな階段だった。
その部分だけ晴れた霧の先には、更に大きな神殿のようなものが鎮座している。
「どうして、〈上り〉なの。」
向こう岸に渡るためには、階段を〈下ら〉なければならないはずである。
「我々を、民に堕とすつもりか。」
周囲を見渡せど既に霧ではなく、彼女を囲んでいるのは壁であった。
どうやら、進むしか道は用意されていないらしい。ガウンはロンフォスを手に持つ代わりに、地図は丁寧に畳んでコートの内ポケットにそっとしまった。
言葉を交わすことなく、ただただ階段を上っていく。
来いとでも言うような現れ方をしたのに、何故か招かれている気がしない。
異様な空気から感じるのは、殺気に混ざった矛盾である。
「見えてきた。」
扉のない入口。その周囲は森にあった階段の門と似た装飾は施されているが、非常に古びている。
ヒビが入っているのはまだマシな方で、所々は穴が空き、今にも崩れ落ちそうである。
元は噴水だったのだろうが、そのような建築物の中に水は入っていない。
それらが左右にそれぞれ三個程置かれた間を通り、入口の前へと辿り着く。
奥から、寒気を感じさせるような冷気を帯びた風が流れてくる。
未だ蠢く上空の霧を一旦見上げてから、ガウンは神殿内へと足を踏み入れた。
その刹那、彼女の目は見開かれた。
また、歌だ。詩の無い歌。
だが、あの時に聞いたものとはまったく違う旋律。
どちらも悲哀を帯びていることだけは共通しているが、歌声からしてまったく異なる。
何故ここまで引きずり込めるのだ。拒否を許さないのだ。
「大丈夫だ、ガウン。落ち着け。」
ガウンが我に返った時、アネスは元の姿に戻り、翼で彼女を護るように覆っていた。
「おまえが村で私を刺すのを躊躇してくれたことが、役に立つとは思わなんだ。平気か。」
「歌が、聴こえた。」
〈歌〉その単語に、アネスはひどく反応した。
「どんな詩だった。」
「詩は無い。ただ、とても悲しそうな声で歌っていた。森で聴いた歌と旋律も声も違ったけど、どちらも詩が無いのは同じ。」
詩が、無い。アネスは焦るように翼を両に広げ、目を閉じた。
数秒も経たぬ間に、彼の四本の足元から風が生まれる。
その風はアネスとガウンを包み込むように上へ舞い上がり、一瞬にして円を描くように遠方まで広がった。
その瞬間アネスは瞳を開け、ガウンの前にしゃがみ込む。
「乗れ、ガウン。」
「何、どうしたの。」
「時間がない、急げ。このままだとミレーは消滅する。」
〈消滅〉その言葉の重みを理解し得ぬままに、ガウンはアネスの背に跨った。




