祝福の鐘と鳴るその時まで
あの日から俺の人生は終わった。
真っ黒な周囲。見上げた先に微かに見えるいくつもの燈火
それを覆う水面にどんどんと見下ろされながらも俺は手を伸ばす。
「…」
誰か、と呼ぶ声もままならず水を耳から、口からどんどんと飲まされていく。
ああ…どんどんと燈火は遠くなっていく。
もう俺は間に合わないと悟った。
そして…不思議とそれでいいのだと納得した。
自身の意識が白くぼやけるまで
何も解らなくなるまで
その燈火は何かを願うように点点と灯っていた―
「…」
全てが楽になった頃…俺は目を開く。
夢…を見ていたのか?
何も無い真っ白な空間に俺はただ一つの椅子に座っている。
違う。
瞬きをしたその瞬間に突如として「そいつ」は現れた。
正面、俺と同じように椅子に座りお構いなしに本を呼んでいる白髪の少女。
「ねぇ、この物語は面白いわね。でも少し悲しいわ」
少女は誰もが見惚れるような銀鈴の声で問いかける。
「…なんの本を読んでいるんだい?」
「あなた」
「俺?」
「“マナペルカ”という物語を読んでいるの」
「俺の名前…俺の…物語…?」
その少女が何を言っているのか全く解らなかった。
理解出来ないものを前に、俺は冷静に状況を判断出来るようになる。ならざるおえない
そうだ、俺はたしかにイーズニルを助けて代わりに死んでしまった。
ならばここは一体何処なのだろうか?
死後の世界とでもいうのか?
少女は本をゆっくりと閉じて、そのルビーのような真っ紅な瞳をこちらにゆっくりと向けてくる。
「わたし。悲しい物語を見ていつも思うの。この人はどうしてこんな狭い本の中でしか生きられないのかしらって」
「君が何を言っているのかわからない」
「どうして、貴方のように命を賭して死んだ者たちが、残された世界を識る権利が無いのだろうって」
「君が、何を言っているのかわからない…」
「どうして、貴方に作者を憎む権利が無いのだろうって」
「君は…」
「貴方に見せてあげる。私が、貴方の居ない世界を―…」
少女はそっと瞑目して
手元で閉じていた本を開く。
「―!?」
眩い光が押しかけてくる。
俺は手でそれを覆いながらゆっくりと光に映し出された情景に目を凝らす。
「あ、アグ…?」
そこは俺がイーズニルを助け死んだ河の前だった。
真っ暗な夜、そこでヱヤミソウの花束を抱きしめながら泣き続ける親友の姿が映し出されていた。
誰もいない場所
ただひとりでずっと泣き続けていた。
俺は胸の奥でチクリと刺されるような痛みを感じた。
…あいつは…俺が死んだ事を悲しんでいる…
そして、映像が切り替わる。
そこで見せられたのは、自分の家
リビングに座る父の姿だった
「…やめろ」
父は俺の好きなドーナツテーブルに置き、神に祈るように指を組み
みっともない表情で泣いていた。
「やめてくれ…」
俺はそんな父の姿を見た事が無かった。
そして景色は再び変わる
助けたイーズニル…
彼はいつものような自身に満ち溢れた覇気はおろか
怯えたような表情で常に周囲を歩いていた。
そしてよそよそしい周囲の友達
冷たく突き放すような目
孤独…
絶望…
不安…
流れるように僕の関係者の悲しむ映像を見せられていく
「…もういいから…!!もうやめるんだ!」
堪えきれず、思わず溢れでた怒声にその映像はかき消されるように消えていく。
そして再び、俺は閉じた本を手元に置く少女と対峙する。
「貴方の、“その瞬間に選んだ死”はとてもとても尊いわ」
「…」
「でも、その死は貴方の或るはずの未来。その価値に及ばない、あなたの生に遠く…及ばない」
俺は愕然とする。俺一人の死が…これほどまでに
これほどまでの結果に導かれている事実
「お前は…なんなんだ?」
少女は何も答えず、その紅い瞳で再び真っ直ぐ見つめる。
「後悔した?」
後悔?後悔だって?そんな事…
だって…俺は、仕方ないじゃないか
「ああしなければきっと…イーズニルが死んでいた!そうじゃないか!!」
「大きい声を出してそう叫んでいる。それは貴方が自分の死を罪だと感じているから」
「仕方ないじゃないか!!なら!どうすればよかったんだ!!!」
「大きい声を出してそう叫んでいる。それは貴方が自分の罪を善に切り替えようとしているから」
「…!!」
俺は何も言えなかった。必死で弁解した所で
俺は結局の所…少なくとも親友を悲しませてしまった。
ヱヤミソウを抱きかかえ泣き続けるアグの姿が再び脳裏で映し出され
俺は胸が苦しくなる。
「安心して。貴方には罪がないわ」
少女は口角を緩やかに持ち上げて微笑んだ。
「罪があるのは…作者が彩った運命」
「運命?」
「運命は…無機質で、かたく、冷たくて、そして動き出すたびに火傷をするような熱を帯びてくの。歯車のように
そして世界の裏側で生き物のやうに走り回って、その轍が悲しみを生み出すの」
そして、俺は少女に指をさされ諭すように言った
「あなたの死は誰も幸せにしない。いつまでも、誰もが過去を振り返り…後悔する」
…なら、俺はどうすればよかったんだ…
俺は、あの時…見捨てればよかったのか?
イーズニルを…見殺しにすれば
「その選択を迫ったのは紛れもなく運命」
運命…
俺は少しずつ何かが耳元で聞こえ始めるのを感じた。
ガラガラと回り続けるうねり声は、まさに今憎む感情が芽生え始めている“運命”にほかならなかった
「今、貴方はその運命を“認識”した」
ヒュンと何かが回転してこちらに降ってこようとする音が聞こえる。
それは段々と近くなっていき
俺と少女の間に真っ白な地を穿って振り下ろされる刃
「これは…鎌?」
「“偽リ”の心器。賢鎌プリテンダー。そして、貴方のお友達よ。お喋りが出来ないのは残念ね」
「心器―」
「神を生かすのも殺すのも、結局は人の心。そうやって出来ている。これは神に纒わる全てを否定する事が出来る
勿論、運命すらも」
「どういうつもりだ?」
「貴方の後悔は貴方自身に意思を見出させる」
「意味がわからない」
真っ当な意見をしたつもりなのだが、それが少女にとっては不服だったのだろうか
初めて眉を吊り上げて立ち上がる。
そして、椅子に座る俺の手元にその本を押し付けるように渡した。
その表紙には確かに“マナペルカ”と書かれていた。
「それはもう、貴方のモノ。後は貴方が望むようにすればいい」
「望むように…?」
「取引」
少女の無機質な視線、瞳の下が徐々に弧を描き歪む笑顔
「貴方の死を…運命を否定させる方法を教えてあげる」
「それは…俺が生き返るという事なのか?」
「死を持つ人間が生き返る事は不可能。貴方は既に死を“識って”しまった。
けれども、それ以上に、あなたがもっと大きな世界。神の側を識る事が出来たなら
それはもう、あなたの世界を否定して、あなたの死をも否定する事ができる。
貴方がそこに彼を…親友を連れて行けば良い」
それが、死を超えた再開に繋がる。
彼女の言葉を俺は殆ど理解していない…
だけれでも俺は認めなくてはならない
何よりも、親友を悲しませた事実
そして…本当はいつまでも、どこまでも共に居たかったというそれだけしか無かった。
ああそうか。
後悔。そしてこれが俺の本当の望みなんだ。
親友と共に語った夢を…俺は一緒に見続けるだけで、それが俺の世界そのものだったんだ。
この世界は…あまりにも狭すぎたのだ…。
俺はそっとその大きな鎌の柄に手を添える。
それに呼応するように大きな音を鳴らして、後ろから扉が現れる。
「貴方は既に運命を認識した。そして、それは逆手に取るならば貴方が運命を仕組む事が出来るという事」
扉がゆっくりと開かれる
「君は取引と言っていたな。…こんな事を教えて、俺に何を望むんだ?」
「簡単。貴方が世界を否定すれば、“私もここから出られる”。ただそれだけよ」
「君は…ここから出たいのか?」
少女はコクンと小さな頭で頷く。
「本を開いて」
俺は少女に言われるがまま、その手元の本を開く。
そこには文字はひとつも無くただ一つ、ヱヤミソウの押し花が挟まれていた。
「それは、貴方が再びその物語に降り立つ為の誓約。
あなたを望む者があなたをそこに在るべくして成立させるものであり、あなたの“弱点”でもある。
その世界にあるそれには決して“触れてはいけない”」
「なぜだ?」
「貴方が、それに揺らぎを感じて貴方自身である事を失ってしまうから」
「そうか…」
俺は、どうやら俺の“与えてきた優しさ”というものを否定して
あいつと共に望む先にいたらなければならないようだ。
大鎌からにじり寄る漆黒が、俺の身体を段々と覆っていく。
俺の姿を偽ッテいく
仮面を着け、自分を隠す。
「あとは、その“予言書”が全てを記す。そして、貴方はそこで出来るべき行動を取ればいい」
「そうカイ…。あんタ、名前は?」
「―“ヨミテ”よ」
「変わッタ名前ダナ」
「貴方のその本。予言書は、これからの未来を描くわ。そしてそこまでに至る為に回り続ける歯車
それを認識して勝手に仕組まれた未来を造り出す。簡単。あなたはその本の通りにすればいい」
「そうカ、…ありがとウ。ヨミテ、そしてさようナラ」
俺は鎌を肩に担ぎ、ぶら下がった鐘の舌を遊ぶように揺らしながら
鐘の音を鳴らす。
そして、扉のむこうへと歩みだした。