小さな少女の永い寄り道 中編
ウロボロス またの名を「永劫の厄災」
ニド・イスラーンにおいて、ヤクシャに並ぶ厄災として認定された魔物でありドラゴン。
通常のドラゴンとは違い、前脚後脚は無く 大蛇のような見た目。
山を巻くような大きさで、常に自身の尾を噛む癖を持つため 頭部周辺への攻撃はこの尾で大抵防がれる。
性格は獰猛でありとあらゆるものを全て喰らい、その胎内で永遠を知らしめる事。
胎内では通常の数1000倍以上の時間の経過がする異次元空間が存在する。
闇の中で意識だけが残され 外の人間よりも永い時間を与えられるという。
その意図は未だ掴めず、同じ素質を持つヤクシャの8番との関係性も不明瞭。
ギルド調査報告書より
見慣れた天井が一番落ち着いてしまう。
パパの言葉が理解出来た気がする。
何も無い真っ白な光景。
僕はこれを見続けることで心の平穏を保つことができる。
それでも聞こえる音に私は生まれた赤ん坊ように怯えて泣いた。
小鳥こ囀りでさえ恐い
自分に意識があることが認められなくて
何もかもが怖く
それを察した使用人たちは僕の周辺で音を立てないように見守っている。
でも、心臓の音が聞こえるのだって恐い
恐いと感じる事で鼓動が早くなるのが恐い
体が熱くなってくるのも恐い
ねえアリシア、僕は初めて知ったよ
生きてるってこんなに恐いことだったんだ。
不安に駆られると僕は何もわからなくなってまた自分の首に手を伸ばしたくなる
その度に手枷がある事を思い出す。
これが私が僕自身を傷つけない為の思いやりだと思うとなんとも皮肉な事。
それでもその衝動が収まることが出来ず、暴れるしかない。
そして僕は都度使用人に抑えられ
目と耳をふさがれた
その時に覆われる闇は不思議と落ち着いた。
何も考えなくて良い。
私の旅は終わったのだ。
そうでなくてはならない。
もう、何も知りたくないんだ。
毎日パパやママが来てくれることは知っていた。
「アリシア」
「アリシア…」
優しく、けれどもとても弱々しい声で囁く僕の名前。
その言葉には願いを感じた。
でもそれを受け入れるには私の心は壊れすぎていた。
優しさも
愛も
希望も
未来も
私には必要無いものだった。
今日は目が覚めると不思議な事が起きた。
使用人が取り押さえることが無くても私の意識が急に闇に包まれる事があった。
けれどもそれはすぐに収まった。
けれどもそれを繰り返しているとその時間は伸び始める。
何日過ぎただろうか。
いつの間にか、見慣れた天井、目の前には覆うように真っ黒な僕がいた。
私の上に馬乗りになっている。
できる。
できると思った。
これで、死ねる。
私を殺せる。
真っ黒な僕は私の首にゆらゆらと手を伸ばし、締める。
少しずつ、強く・・・強く
「か…ハッ…はぁっ…ハッ―!」
心臓の鼓動が早くなる。
そうだ
これだ
私はこれで
「アリシア!!!!」
ママの声がした。
それと同時に私を覆っていた黒い僕が消えた。
「うあ、ああああああああ!あぁああぁああぁぁぁっぁぁぁああぁああぁああああああああああああ!!!!!!!」
私は狂ったように叫んだ、暴れた。
失敗だ 失敗だ 失敗だ
それを抑えるように強くママが強く抱きしめた。
嫌だ…それは僕が一番きらいな『モノ』だ。
「アリシア、ごめんね…ごめんね」
ママはどんなに暴れても離れようとしない。
嫌だ やめて
「うぁあああああ、うああああううううああうあぅうあああああああああ!!!!」
頭がぐるぐる回る。
顔にいっぱい水が落ちてくる。
嫌い
ジャラジャラと枷の鎖の音が響く。
嫌い
首を大きく左右に振る ちらちらと視界に入る月の光りが眩しい。
嫌い
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだああああああああああああああ」
私の声が聞こえる
嫌い
嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!!
頭の中でチカチカとよくわからないものが虫みたいに走り回ってる。
「アリシア!!!」
パパの声が聞こえる。
パパは離さまいと私にしがみつくように抱きしめるママを引き剥がした。
「アリア!落ち着け!!」
「嫌よ!アリシア!どうしてこうなったの!!どうして!!どうして!!!!」
「リューネス、アリアは私が…アリシアを頼みます。」
聞き覚えのある声
誰だろう、どうでもいい…
そうして私は再び視界を、耳を黒い静寂に収められた。
どうして
その言葉が置いてかれたように離れない
けれど、考える気持ちにはならなかった。
それはずっと私の頭の中で取り残されたままだった。
そして結局あの『黒い僕』はもう出てくることが無かった。
「やぁ、アリシア」
ある日、珍しく声を掛けられた。
急な事に体を大きく揺らした。
「私の声が聞こえているようだね」
けれど、不思議と暴れる気持ちにならなかった。
恐怖を感じなかった。
『この声』は僕と似ている。
ずっと暗い、暗い闇を感じていた者だ。
声だけで一緒にずっと前から居たような気持ちになる。
「だ、れ」
私は絞るように言葉を使った。
「私はニド。君のパパのお友達だ。」
「と も、だ ち」
「そうだよ。よかった、ちゃんと話せるようだね。」
ニドの言葉は本当に不思議だった。
自分の言葉のように感じた。
あの暗い暗い場所を思い出させてくれた。
「そうか、やっぱり君は――こっち側に魅入られている」
ニドが言っている事が良く解らなかった。
「けれども、そうだね…闇を理解する為には光が必要だ。君はそれを戒めないといけない。」
ニドが言っている事が良く解らなかった。
「当たり前のような日常によって本来、君自身の魂に刻まれるはずたった情報、」
解らないからただ黙って聞いていた。
「それを真っ暗な闇だけが埋め尽くしてしまった。否、それが溢れ出てしまう程に君の魂は黒色に染め上げられた純粋な虚無。君は自身の中でもうひとりの人格を感じているね?」
そう僕は二人いる。この人はわかっているんだ。
「それは君の中にある魂が生み出した、受け入れるには大きすぎる君のウロボロスでの記憶であり存在だ。」
ウロボロス…ウロボロス…
鼓動が早くなる。
怖い?
なんだろう…忘れていた何かが急に引っ張り出される感覚。
生臭い匂い、ベトベトするような雨
「う、やぁあああああああああああああああああああああああああああああ」
ここで僕はようやく思い出す。
あの地獄の始まりを。
何もわからなくて、何も分かりたくない日々
体を大きく揺らす
助けて…助けて…
「リンド、落ち着きなさい。この娘は今、ここに戻るために全ての時間を巻き戻そうとしている。」
「ニド、本当に大丈夫なのですか?」
「虚無で魂を染めた人間に必要なのは『受け入れられない』という事実、そしてそれに対する嫌悪と怒りの感情だ。アリシアにこれが出来るという事は、微かにだが光を望む力がある。光りを感じて、闇の中で藻掻いているんだ。」
「けれど…こんな事、いつまで…私は黙って見ることが出来ない」
「君たちが信じなければ、何も始まらない。いつまでも苦しむ彼女を見るんだ。そして、否定するのだ。この娘が苦しみに溺れているのではなく、痛みに耐えて尚ここで生きたいと戦っていると願いなさい。それが、アリシアを取り戻す為の『光』になる。」
「光り…ですか。」
「リューネスは、我が盟友との契約に応じた。」
「あの魔剣…グリム・トーカーの入れ知恵ですか?」
「あいつは、少々優しい一面がある。伝承にある『無慈悲な語り手』なんて呼び名が名前負けする程にはね。」
「私は認められません。悪魔の魂が込められた剣。伝承で持ち主は皆が気を狂わせて死んでいった。
たとえ、貴方の友であろうとも悪魔の甘言である事には変わりない。」
「あいつも運が悪かった方なんだよ。魔剣なんて姿にされて、いつだって見てきたのは力にしか語りかけない者達。勝手に使って、勝手に死んでいく愚か者ばかりだった。だが、今回は運が良かった。」
「リューネス。彼なら魔剣の本来の力を扱えるとでも?」
「…そうだね」
ニドと誰かが、話してる。
わからない
リンド…なんだそれは
私にわからない事を話すな
私にわからない事を語るな
うるさい うるさい うるさい
うるさい うるさい うるさい
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい
「鎮まれ」
あ
ニドの言葉は不思議だ。
自分の中でぐちゃぐちゃになったものが急に静かになる。
先程まで暴れていた私は、動くことを止める。
―いつもの天井だ。
「アリシア、今日は話を聞いてくれてありがとう。また、明日来るよ。」
それ以上ニドの声は聞こえなくなった。
今日は疲れたのかもしれない。私はそのまま眠りについた。
ニドはそれからも、決まった時間に来ては話しかけてくれた。
何を言っているかは殆どわからない。
けれども時折彼から聞く言葉の中に心の奥から恐怖を感じる事があった。
ウロボロス
その言葉を聞くたびに、心がいつもかき乱されていた。
それは毎日のように続いた。
でも、その話だけではなかった。
パパ、ママとの今まで居た思い出の話。
リンドの話。
世界には色んな人がいる話
神様の話
魔術の話
私の話
僕の話
僕はニドが何を言っているのか全く理解できていなかった。
だけど、少しずつ、心の何処かで私がそんな話をもっと知りたいと望んだ。
ずっと昔に、パパがいつものように話してくれるいろんな魔物のお話のように
「パパ…ママ…」
ある日、私は二人のことが物凄く恋しくなった。
ずっと寂しかった気持ちをようやく見つけられた気がする。
その名をずっと呟きながら天井に向かって手を伸ばそうとした。
けれど枷がそれを邪魔した。
「アリシア!」
私の言葉を聞いた使用人がすぐさまママを呼んで来てくれたらしい。
飛びつくように私を強く抱きしめた。それから私の名前をいっぱい呼んでくれた。
ヤメロ モウヤメテ
ずっとこれを待ち望んでいた気がする。
ボクヲ ヒテイスルナ
けれどママは驚いたように私から離れていった。
違う、引き離されたのだ。
使用人に。
周囲を見渡す。
私の代わりに黒い影が、暴れていた。
手枷で動けない私の手の代わりに
黒い影が勝手に暴れ始めた。
どうして
ドウシテ ボクヲ ヒテイスルノ
イッショニイヨウヨ
「鎮まれ」
私は唐突に聞こえたニドの言葉を聞いて再び意識を闇に委ねた。
そして、目を覚ますと、そこはいつもと違う天井だった。
「こ、こ、は?」
「アリシア。目覚めたようだね。」
ニドの声が聞こえる。
私は周囲を見渡す。
ニド、リンド、パパ、ママ
全員が集まって私を見ていた。
広い空間。
僕はいつものように枷をされいない。
足元を見ると、色々な文字によって描かれていた場所の中に居ることに気づく。
「セエレ。今までお疲れ様。お前の役目もこれで最期になる。」
『ありがとうな。お前が相棒で本当に良かったよ。そして、済まなかった。こんな形でしかお前に応えることができない俺を赦してくれ。』
「なぁに、気にするな。お前は俺の望みを叶えてくれる。それだけで充分だ。」
「リューネス――あなた、本当に。」
「アリア…本当に済まない。でも、俺には無理なんだ。アリシアをあのままにして生きていくことが、それこそ地獄のようなものだ。」
「でも、あなたが居なければあの娘は…!!」
「アリア…何処に居たってお前のことを愛してる。そして、リンド」
「―はい。」
「二人を頼んだぞ。」
「…命に代えて」
「ニド、アリシアがひとりで立てるようになったなら是非ギルドで面倒見てやってくれな」
「君の約束は確かに守る。彼女の事は任せなさい。それに、君らからは有益なサンプルも頂いた」
「へっ、お前は最後の最後まで現金なやつだな」
「無償の義は性に合わない性格なのでね」
「あいあい、そうですかい」
パパは色んな人と話して、最後にママを強く抱きしめた。
暫く泣いているママの頭を撫でて、キスをした。
そして
「じゃあな…とは言わねえ。俺はいつだってみんなの側に居るからな。それでも、いつものように居られるのはこれで最期だ」
そして、僕の方にパパは近づく。
「ひっ―!!」
僕は驚いてパパが伸ばした手を払い除けてしまう。
「…アリシア…本当にごめんな」
それでもパパは強引に私を抱き寄せた。
とても痛いのにとても愛おしい感覚。
ずっとこうしていたいのに、体に寒気を感じる。
どうして
「アリシア、俺の命よりも大切な大事な娘。いつまでも愛している。だから、どうか…強く生きてくれ…この身が遠く離れようとも…お前に俺の愛が届きますよう…」
パパは私から離れると、奥にある魔剣に手を伸ばした。
「セエレ、頼む。」
「了解した。術式展開、我 契約者であるリューネスの契約の元 アリシアに対しアルス=マグナを起動する。契約者よ、答えよ…汝の願いを」
「アリシアを…元に戻してくれ」
「承った。この偉大な魔力の成せる可能な限りアリシアの魂を復元しよう。そして、其者の命に関わる事象が起きた場合は『本来の契約』に基づいてそれを成す事とする。」
光に包まれる。
私の中にあるナニかがそれを否定しようとする。
ヤメロ ボクヲ ヒテイスルナ
いつものように私の中から出てくる黒い影が暴れだそうとする。
しかし、それは簡単にかき消されてしまう。
強い光り。
私はそれに対し涙を流す。
自分の中にある今までの恐怖心が消えてゆく。
黒い感情が小さくなってゆくのが解る。
そして、いつも以上にパパやママが恋しくなる。
お腹が空いた。
色んな事を知りたい。
パパに手を伸ばす
「パパ!!!!!!」
その叫びにパパが振り返った。
パパはすごく嬉しい顔をしているのにその目からいっぱい涙を零していた。
「アリシア、元気でな」
パパは光に包まれながら足元から形を崩していった。
そして、ようやく眩しい光りが消えた時には
パパの姿は何処にもなく、目の前に白い砂だけが残っていた。
私は、いつもみたいに理解したくないのに理解した。
パパはもう何処にも居ない。
心から色んなものが溢れる
「う・・うわぁああああああああああああああ!!パパアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
私は今までにないくらい泣き叫んだ。
そして、ママがそっと近づいて強く抱きしめた。
私も今までにないくらい強くママを抱き返した。
それがとても懐かしくて、悲しいのに嬉しかった。
そんな私たちを包むようにリンドも抱きしめてくれた。
優しい、みんな優しい。
どうして今まで
そう、私は今まで何処にいたんだろう
解らなかったのに、ただただ暫く泣き続けた。