130:ジャバウォック。それは夢怨の貌チ
気づけば俺たちは見覚えの無い場所に立っていた。
足元にはせめてものと言わんばかりの多くの文字が刻まれた足場。
その周囲意を覆うのは真っ黒な闇だった。
その途方にもない闇は、何処までもいけそうでありながら、どこにも行けぬ壁にも思えた。
俺とアリシアを拘束していたヌギルの姿は無い。
その代わり目の前には一人の少女と、その足元にある食い散らかされた肉の残骸だった。
見覚えのある黒装束。露わになった肌に横切る縫い跡。アリシアもこの時だけは感情が前に出て叫ぶ
『ヘイゼル!!』
「無事だった…の、ね?」
安堵してそう呼ぶのも束の間であった。
彼女はこちらへと振り返ると、俺とアリシアはぎょっとした。
その表情は出会った中で今までないくらいの笑顔で、その挙動があまりに“人間”に寄せた表現であるからだ。
かつてのような感情の乏しさに(富んだ)面影は無い。
その差分は俺の中で妙な喪失感を抱かせながらも…彼女の名を呼ぶしかなかった。
『ヘ、イゼル…?』
かろうじて絞り出した声。それがある種、彼女を否定しているようにも思えた。
「ジロ、アリシア。ここはすごいね。こころが、“心”がいっぱいあるんだよ―」
両手を広げて話す彼女は幸せそうにそのまま己自身を抱き、満足そうな表情で涙を流す。
「―いっぱいもらえた。私が欲しかったものなんだ。とっても満たされる。此処に或る誰かの心が私の心で良いと受け入れてくれる。」
そんな彼女の姿を、俺は到底受け入れられないと同時に
自身のヘイゼルに対する愛着の本質があまりにも欠如に対する憐憫から来ているものだという裏付けを自分に杭を打たれたかのようにさせられたのだと気づかされ
胸が苦しくなる重いであった。
何も言わない俺に対し、ヘイゼルはハッとしながら視線を向ける。
「ジロ…どうしたの?嬉しくなさそうだね」
『それは―』
言い淀む。
そうじゃない…そうじゃないが…不思議と、そんなヘイゼルが他人に思えてくるのと同時に
妙な寂しさが背後に擦り寄ってくるんだ。
「私は、ようやく人間になれたんだ。それが願いだったから。ジロは私の願いを望んでなかった?」
『違う、違うんだ』
「それとも…誰かの幸せが…嫌い?」
悪戯に、試すように嘲笑しながら問う彼女。
『それこそ違う!そんな事―』
何かを言う前にヘイゼルが遮るように言葉を続ける。
「憎い?否定したい?殺したい?望まない私を、殺したい?一度私を殺してから…もう、一度生き返らせてやり直したい?」
笑顔でありながらも眉をハの字にさせて問うヘイゼル。
…周りの全てを覆う黒が生きているように、俺の心に連なるように嵐のように周囲を踊り狂う。
その有様に、背筋から悪寒が走ってくる。まるで常に落下させられてるような心地。
それには差し込む光を淘汰する意志が感じられた。
強さに勝る、摂理に勝る、途方にもない願い。
「ねぇ」
聞きたくない。…聞きたくない問なのだと既に感じる。
「ジロが好きだったのは私?それとも、不幸な私を愛する自分自身?」
『違う―』
「アリシアの事もきっと…一緒だったのかな?いつも一緒に傷を舐めて、舐められる事があなたの…あなた達の幸せだったのかな?」
「そんな言い方しないで!」
狼狽するアリシアが絞り出すように叫ぶ。
「パパは、そんなつもりで一緒にいない。弱いところを認め合うのはいいよ。でも、それは前に進む為なんだ!それを、そんな意思を穢さないでよ!やめてよヘイゼル!あなたはそんな事言わない!そうでしょ?」
それを聞いて先ほどまでの柔らかい表情とは打って変わってヘイゼルは鋭い目つきになる。
「―否定するんだね。」
その言葉は何よりも彼女にとって重いものだった。
差異のヤクシャ。彼女がそれに由来する根源は、誰かに愛される為に何者かに成ろうとして否定された事。
死んでいるのに…生かされ、誰のか解らない体で何度も何度も誰かを演じた。
そして、俺達と出会って俺たちはその彼女の“迷い”そのものにヘイゼル自身を見出していたのだ。
なのに…その意味を俺達自身が再び厄災へと返そうとしている。
この大きな闇の中心で…
俺とアリシアは一体になったかのように感情を強張らせる。
「嫌なんだよね。嘘なんだって、そう思いたいんだよね。ようやく心を得た…心を知れた私の事を。わかるよ。しってたよ。認めたくないものの全てが嘘でなくちゃ困るんだもんね。可哀想な人形が少しでも喋れれば…それはあまりにも珍奇で可愛らしい。愛玩動物と変わらない、そういう事なんでしょ?そうなんでしょ!?!?」
ヘイゼルは自嘲しながら、寂しそうな表情を向けて俺たちを叱責する。
そして、そのまま無表情になって俺たちをずっと見つめたまま、一縷の涙を落として言う。
「だからちゃんと…私を否定してね」
ヘイゼルの姿が次第にドロドロと黒い泥へと変わり溶けだしていく。
やがて泥溜まりとなったそれはボコボコと沸騰するように蠢き、その奥から何かが這い上がる。
「私も、否定するから」
その言葉は俺たちの渦巻く心にひとつの杭を重く打つ
「一つを失ったなら、その他の何もかもさえもを失いたいと思う
自身を否定されたなら、否定するものの悉くを否定したいと思う
願いが叶わぬなら、望まれぬ結果であるなら、その全てが嘘であったと思う
海のように心地よく、夜空のように飽くなき終わり。」
這い上がるものはそううたいながら、形を成していく。
―闇。
それが牙をもつのなら、今目の前に実在する“それ”がそうなのだろう。
生まれ出たものはとても悍ましいものであった。
長首の、爛爛とした赤色の瞳。
クカクカ…と喉を鳴らし裂けた口を静かに開く。
長い角の如き触覚をしならせ、長く鋭い爪をぶら下げている。
背後には連なってたらされた蛇の如き尾と、蓮の花のように広げた刃のような翼。
物語の中の更に物語によって閉じ込められた異物。
それは、厄災の一端その全てを複合させたような…“在ったのだ”と嘯くには丁度の良い化物。
竜…そう、竜だ。
だが、より一層異常性を放つのはヘイゼルの声色のまま呪文のように呟くその言語。
「馬の手に赤く見繕われた砂糖菓子。貪る脆弱な暖炉。高貴な影は浄罪の袴」
意味が解らない筈なのに、その中に答えを探してしまう。
いや、引き込まれてしまう。そうしなくてはならないんだ、と
考える度に、奴は大きな闇を孕んでいく。
何も無いものから、黒いものを
これを“わからないもの”と決めた瞬間に、俺たちはのまれる。
ああ、これが…ジャバウォック。厄災の根源。
『アリシア―…』
「違う…私は、ヘイゼル…ちがう…」
『アリシア!!』
いま、目の前にある事実に対して絶望という悪酒が自身を貶めていた。
その事に気づけたのも…一縷の光が差し込むように思い出されたあの時の“アイオーン”の言葉があったからだ。
―選べ…ヘイゼルを救うのか。救わないのか
奴から差し出された選択は、今ここに示されたのだ。
ここにある事実はやがて川の流れの様に進み、定められた運命へと誘われる。
だからこそ、あいつと交わした約束を果たすには今ここで俺たちの意志をもって抗い真実へと成さなければならない。
『戦う。戦うんだ。俺たちは…あの子を救う為に』
「パパ…」
『どうやるかなんて、今の俺たちにはまだ解っちゃいない。けど、解らないままだから、もう終わりなんて話は無い。どんなに足掻いて躓いても、道だけは続く。だから…戦い続けるぞ…アリシア。この絶望と―』
「…私は、暗い暗い場所が恐い。何を考えればいいか、何をすればいいのか、結局何もできないまま居る自分が恐いの。何をしても無意味に終わる事実が恐い。諦めないと叫んで、でも本当はまたやり直さなくちゃいけない事も恐い。」
アリシアが語る恐怖は、かつてのウロボロスの中で囚われ過ごした時間によるトラウマなのだろう。
「何もなければ、最後には自分が自分でなくなる事が恐いの…」
『俺がいる。いつまでも、俺が君の名前を呼ぶ。俺は、そう出来る君が居るからこそ進み続けるんだ。』
「…うん。だから、今は恐くないよ。パパが進み続けるから、私も一緒に進み続ける。だから―」
戦え。戦え!!
その意思を以て淘汰しろ。定められた運命を!!!
『「ウオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」』
―俺たちは大きく叫ぶ。
この場所はとてつもない闇魔力が充満しているのだろう、【神域魔術】が誓約も無しに発動する。
そして、アリシアは魔剣を構え、厄災の竜“ジャバウォック”へと駆け出し大きく刃を振るう。
だが、奴の長い爪が軽く振られるだけで俺たちの突進は簡単に一蹴される。
ブツブツを呪文のように言葉を続けるジャバウォックはそのまま翼を大きく広げて羽ばたかせると
その身体を浮かして、巨躯にそぐわない疾さで押し迫る。
―嘘つき、嘘つき。本当は好きなんかじゃなかった癖に。大切なんて嘘なくせに。
悲痛な叫びのような言葉を口にしながら、奴の長い爪は空を切り、ヒュッと高い音を何度も鳴らしている。
その度に、アリシアは距離を取りながら躱していく。
『気を付けろアリシア。やつの爪のリーチは長い。距離感を間違えるとすぐに切られる』
「今更でしょ。こんな身体なんだから、本当は斬られたっていいんだけど。パパは許してくれないんだもんね」
そんな軽口を叩きながらも、何度か振るう爪の軌道を把握したのか
三度目の攻撃の刹那に地を這うように姿勢を低くし、そのままジャバウォックの懐へと入る。
そして、蛙飛びのように跳ね上がり奴の腕に一太刀入れる。
すると、あっけない程に奴の腕は切断され宙を舞い、そのまま血飛沫もないまま霧のように霧散する。
『手応えは?』
「ないっ」
知っていた。この手の奴は肉体が柔らかい分何か裏がある。
霧散している腕がそう物語っている。
―大好きって言葉も、大嫌いって言葉も、どんなに綺麗な宝石のように思えても…結局は食べ物と同じ。飲み込むか捨てるだけ。飲めば孕まされ、捨てれば腐る。
『アリシア!奴の声を聴こうとするな!』
「っ…!」
アリシアはそのまま勢いつけて、風精霊の魔術による空中ジャンプでジャバウォックの頭上まで飛び上がり
その長い首目掛けて魔剣を大きく振り下ろす。
「どあらぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
知ってはいたが、腕同様にその首は簡単に断ち切られる。やがて間もなくそれすらも霧散した。
アリシアはそのまま一度、空中を走りながら離れるように距離を取る。
その攻撃が一体何を意味するものなのか検証する必要があるからだ。
「これで、やったかしら?」
『それで済んだ話を俺は知らない』
「今が初めてになるかもよ?」
『そうであるならどれだけいいものか』
―傷つくのが怖い?痛いのが怖い?全てを嘘にすれば大丈夫だよね。心が嘘であるなら、飲み込んだ世界そのものも嘘でしかない。
―水面に映るそれも、結局は眼が見せてくるもの…本質は無。あるのは、入力と出力のみ。
耳元で囁く声が誰なのかわからない。
しかし、それは無性に自分の後ろ髪を引かれるような気持に苛まれるようであった。
―誰も、受け入れてくれない。誰も理解してくれない。誰も知らない。
「クォアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
切り落とされたジャバウォックの頭から不気味な咆哮が鳴り響く。
それは周囲へ音の無い衝撃へと走らせて、俺とアリシアを貫通する。
『―…!?』
背筋を悪寒が巡る。
自身の何かが大きく警告する。
何かを否定されたような感覚。何かが俺たちの中で抜け落ちる感覚。
アリシア自身も感じたのだろう。その大きな違和感。
アリシアと目が合う。
「―パパ?」
アリシアへ向けた視線を少し下にズラし、アリシアの首を「つう」と横切る赤い線
それを見て咄嗟に自身の中で祈るように光魔術の、それも最大限の回復魔術を発動させる。
「―…っ!?」
アリシアも瞬時に何が起きたのかを理解し首の根本を俺同様に祈るように掴む。いや、支えると言った方がいい。
自身が急に一本の綱渡りをさせられた事を自覚させられる。
刹那だ。本当に刹那の判断だった。
こいつの能力がどうであるかなんて一先ずどうでもいい。
ただ、あいつは…確実にアリシアを殺そうとしていた。
彼女もその事実をしって大きく目を見開き、今までにない動揺を見せつける。
今だからこそ実感がわく。
いままで当たり前のように持っていた超再生が無くなっている。
こいつが、ジャバウォックが…俺たちの超再生の能力を“喪失”させた。
そしてそのうえで、自身と同じ首を、腕を斬られた状況を鏡写しのようにアリシアにさせたのだ。
その瞬間から自身の中で小さくなって気にしなかったはずの「思い上がり」がごっそりと俺たちに圧し掛かる。
それは死への恐怖と同等であった。
今、この瞬間から向けなければならない意識が決まる。
この子を傷つけさせない、この子を死なせない。今はそれだけだった。
幸い、回復魔術だけは相変わらず常軌を逸脱した性能だ。だからこそあの刹那で文字通り首の皮一枚で死なずに済んだ。
―誰かが傷つく痛みが自分のように痛いなんて、嘘だよ。なら、どうして世界の痛みを誰も感じないの?
―結局、椅子に座って読む物語と同じだから…心は“傷つくフリ”という銘酒を飲んでいるだけなんだ。
―閉じ込められた者の痛みなんて誰も知らない。本当に知れば、結局は獣同然に叫ぶしかないから
『うるせぇ!!黙ってろ!!』
呪文のように流れる言葉を大きく叫んで祓おうとするも
ジャバウォックの断たれた首や腕はアリシア同様に黒い霞が収束して元に戻る。
『どうしろっつぅんだ…こいつ』
「…どうやら本当に“なくなった”みたい」
アリシアはそっと指の腹で魔剣の刀身をなぞると、そこから小さく血が滴っていた。
『痛みは?』
「問題ない」
『嘘をつけ』
「……そうね、感じる。こんな痛み…久しぶり」
『回復魔術と防御に意識を向けるぞ』
超再生を失った状態であり、且つ
この化け物を攻撃すれば同じような傷を自身に反映されてしまう。
あまりにも難解な状態であった。
ジャバウォックは姿を戻したまま、それ以上動こうとはしない。そのままジッとこちらを見続けるだけ。
その姿が俺は心底怖ろしいと感じた。
『落ち着け…落ち着け…』
奴の動きを思い出せ。
初動ではそんな動きをしなかった。
そうさせてしまうトリガーがあったはずだ。
例えばあの咆哮。あれが起きてから俺達は超再生を失った。それに留まらず、
俺とアリシアが攻撃した場所が自身に帰ってきてしまっていた。
まるで鏡写しのように。
―私はお前
―お前は私
『ぐっ』
―全てがお前を生み…お前が全てを生んだ
―お前の心は誰かを傷つけ、誰かがお前を傷つける
頭の中でガンと殴りつけられるように言葉を押し付けられる。
その度に、頭痛のような痛みと“苦しい”という感情が俺の胸を…魂を蝕んでいく。
キエロ、キエロ
ウルサイ、キエロ
オマエガ、オマエノ、オマエダケガ、
ヨクモ
オマエ サエ イナケレバ
『駄目だ…思考がまわらねえっ…』
俺とリンクするようにアリシアも頭を抑え込んで膝をつく。
「パパ…この声は何なの??うるさいし…頭が、痛い」
『わからねぇ…けど』
言いかけて俺はハッとする。
見え上げると、すぐ目の前には黒い影の靄を湯気のように躰から溢れさせるジャバウォックがいつの間にか長い首を伸ばしてアリシアへ顔を近づけていた。
―アリシア、何であなたが生きて、リューネスが居ないの?
「え、あ」
―私は、彼さえいればよかったのに…あなたが…壊れたあなただけが残された。
『聞くな、アリシア!』
アリシアはジャバウォックと視線が合い、眼を大きく見開いていく。
その顔は、普段見ないような怯えきって歪んだ表情をしている。
―あなたの好奇心さえ無ければ、冒険ごっこなんて言って外に出なければ…“パパ”は今もあなたの側にいたのに
「あぐっ…」
長い爪がアリシアを引っ掻きながら掴む。
「いたっ…いたいっ!!」
『アリシア!!』
―その意志が全てを狂わせたの
ミシミシとアリシアを締め付ける。
「…や、やめてよ!!」
―あなたが殺した。殺した。殺した。殺した。
「やだ!嫌だ!違うの!!」
―違わない。
そのままジャバウォックは地面に強くアリシアを叩きつける。
「がっ…ううっ」
俺は咄嗟に回復魔術で彼女を癒す。
なのに、彼女はどこか痛みをそのまま残したように悶え苦しむ。
―そして、“ボク”を殺そうとした。
「なんで!今になって出てくるの!!」
―君の存在そのものが罪だからだ。君は運命という梯子を上り続けるだけの人形だからだ。
―お前が居るかぎり、いろんな場所で不幸が起きる。アルヴガルズも、長い伝承が終わった。お前の存在は彼女の足を奪った。ヘイゼルも…心を得て苦しみを覚えた。そしてそのままこの城で生贄にされた。
―お前さえいなければ。お前さえいなければ。
「なら…なら!!私…は、死ねばいい、の??」
『うるせぇ!!黙ってろ!!!アリシア!気づくんだ!これは、お前自身が持っている悪夢なんだ!』
アリシアは、魔剣を握りしめて、その刃をゆっくりと自分の首に寄せていく。
『やめろ!やめるんだ!!頼む!俺に…』
この子を殺させないでくれ!!
―いいじゃないか。一度、殺してるんだ。自分の娘を…一度や二度なんて大差ない。
―死ぬはもう、覚えたででしょ?理解したでしょ?
―傷つくのが怖いのは自分なんだ。決して彼女の為じゃない。
―彼女が死んだあの日も、娘を抱きしめたのは…結局、死が恐かっただけ。温かい娘の温度で誤魔化したかっただけ。
―でも、慣れたでしょ?あの日、あの子が死んでから…自分も死ぬくらいには世界を理解したんだから。
―この世界は常に、失い続けるままの場所に投げ出され…日々の思い出も、嘘だらけに偏っていく。
俺が人の身体をしているなら、すぐにでも嘔吐するであろう程の耳を塞ぎたくなるような言葉たち。
耳を疑うような言葉たち。
自分でアリシアに言っておいて、とても苦しくなるような悪夢。
『違う、“違う”、違う、違う、違う!!!!』
俺は…―。
―その言葉の海が心地良いんだろ?
『ウ゛、ウ゛アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!』
「―全く、世話の焼ける人たちですね」
黒い靄を払うような声が俺に、俺たちに届く。
その瞬間、伸びた鎖がアリシアの身体を縛って、俺と言う魔剣を拘束する。
『ア、ルメン…?』
「自縄自縛。今のあなた達にはお似合いの言葉ですよ。」
アルメンはそんな皮肉をこぼし、その杭で目の前のジャバウォックを簡単に払拭させる。
『なっ、アルメン…どうやって?』
「他人の悩みなんて僕には共感できませんから。でも、あなた達が死を選択する事には大きな意味がある。それが理由です」
ジャバウォックはいつの間にか、遠くで距離を置いてジッとこちらを見つめている。
それを見て、アルメンはアリシアと魔剣を拘束していた鎖を解く。
『アリシア、大丈夫か??』
「…まだ、気分が悪い。」
すわった目のまま、心底辛そうに頭を抑えている。
『…なぁ、そろそろ教えてくれねーかな?』
俺は鎖に繋がれた杭へと縋るように聞く。
こいつは、この場所に来てからずっと黙りこくっている。メメント・モリとの戦でティルフィやパイロンを生き返らせた判断が余程気に入らなかったのだろうか?そんな事で拗ねる程度の知見をもっているわけでもないだろうに。
「別に拗ねていませんよ」
俺の心の声に返すようにアルメンが犬の姿で出てくる。
『じゃあ、今までなんで黙りこくってんだよ。いざ出てきたと思えば棘のある言葉言いやがるし』
「…僕にも、色々準備があるんですよ」
『…………ならいい。』
「聞かないのですか??」
『お前の事は、信頼している。そのうえでお前が俺に言わないって事は言う必要もないって事だ。』
「…そうですか。」
『嘘だ…本当は気になっている。でも、それが…信じるって事だろ。』
アルメンは犬の姿のまま、フーンとため息を漏らして、のそのそとアリシアの足元へと寄ってくる。
「何度も忠告をしましたよね。」
『ああ?』
「あなたを失いたくない…それが誰かの為であっても…それは私の為なんかではないのです。」
『…』
「―私との対話を拒んだのはアナタの方です。ご主人。…今、あなたたちを苛む状況の全てがそれと同様なのです。自分で言いましたよね?これは悪夢だと。きっといつか、誰かに言われるかもしれない言葉…もしくは、すでに自ら否定した言葉。」
『悪かった。お前の事を何度も蔑ろにしていた事は謝る…ごめんな』
それを聞いたアルメンは「フーン」とため息をついて、口を開く。
「嘘ですよ。あなたはそう言って謝る事が、術だと思っている。本当に向き合ってないんですよ。」
『向き合ってない?』
「だからこそ、アレはあなたに与えたのですよ。死という概念を払拭する力…」
『死者の國…それを言いたいのか?』
アルメンは俺の質問に返さず続ける。
「アレは…元々は、何でもない“なにか”だったんです。誰にも認知されない、誰にも知られない。あるいは誰かに忘れ去られたもの。それらの集積体。現実であったものも、知る者が居なければ虚無と相違ない。アレは、そんな知らなかったもののマイナスエネルギーを一気に集めて凝縮したものが魔力に還元された…まさに、怪物と呼ばれるものです。」
『怪物…』
「病も天災も真実に至らなければ竜の仕業と相違ない。あれが竜の姿をしているのは、あらゆる全ての厄災の原点がここに至るからです。」
たしかに、真実が無ければその秘め事は閉じた箱も同然だ。
そしてその箱が…例えば、死体の横にそれだけが置いてあれば…それにどんな名を与えるのかだって自由だ。
きっと大半はそれが原因だって思うだろう。
その箱に化け物の絵が描いてあったりしたならば尚更だ。
『いい加減、気づくべきだった。なら、結局は…何でもない“なにか”って秘匿性がプラスに働いてるのが…つまるところ神の信仰って所か』
「飲み込みが早いですね。その通りです。この世界においての魔術のリソースである魔力の根源…それは魂によって生み出された想像力です。ヒトという存在の魂は、それをアクセスキーにして神へと邂逅し動物から進化した。そして伝承されたものが神。そして神へアクセスした行為そのものの根源は認知によって突き動かされる衝動…“意志”です。この世界は、その意志によって切り捨てられたもの。つまり、あれは神の表裏一体。無縁の影なのです。」
で、あれば、やはりクラウスが目的としていたのは
その神と並ぶ破滅の力を相殺する事が出来る存在…女神アズィーをこの場所に呼ぶ事だった。
水面下で動いていた計画が、俺を誘う形で急にはやまったのも…俺という膨大な魔力リソースとその受け皿になりうる天使の血をもつアリアの子がいたから。
そして女神の下位互換である存在。アルヴガルズの一件で聖女へと昇華させた死体人形のヘイゼル。クラウスからすりゃあ、予定がトントン拍子に進んでいたのだろう。
そして奴はそのまま女神になんらかの方法を施してゲレティゴと契約したヌギルの能力を以て神の心臓とやらを作り使役するつもりだった。
この世界を廃棄してまで―
『あいつがどんなもんかはわかった。けどそれだけじゃあ解決には至らない。今の所あいつには神性は効く…それは理解した…だが、それだけじゃあ俺たちのこの状況について説明しきれていないんだ。もっと知っている事を話してくれ。』
「…ご主人たちの持つ超再生。それは確かにジャバウォックがこの空間内においては忘却しました。あれは、ジャバウォック自身がそれを“嘘だったもの”だと認識したからです。」
『なんでもありじゃねーか。それなら…それがまかり通るんだっつぅなら俺らだって嘘にして消されてもおかしくねーぞ!』
そのとんでもない説明に突っ込みを入れながらも、そこで俺は自分で気づく。
…それが、出来ない理由があるとしたら?
『奇跡か?』
アルメンは頷く。
「先ほど説明した通り、意志は真実に成り代わって虚構を悉く切り捨てました。そして、それをヒトは奇跡と語った。その奇跡を冠するものをアナタたちは持っている。それが、“奇跡の子ドール=チャリオット”。」
それは7番目の奇跡とうたわれたもの。
『なるほどな。だからこうも都合良くこの場に俺たちが居るってわけだ。』
随分なお膳立てだったな。“アイオーン”
「あなたは答えを知っているはずです。あれが襲い掛かる理由も、傷つける言葉を並べる意味も…」
それは、ついさっきアルメンに諭された時と似ている事に気づく。
『対話…か』
「もう、これ以上は言いません。いいえ、言えないのです。真実は誰かに語ればかたるほどに騙むく。あなたたちの中のモノはあなた自身でケジメをつけなければならない。」
『ああ、そうか』
「パパ…」
アリシアの呼ぶ声に誘われて俺は視線を彼女に向ける。
その顔は、勇気に満ちた果敢な顔とは程遠い…今にも苦しく泣きそうな表情だった。
けれども、その手は変わらず魔剣を握りしめて構えて立ち上がる。じりじりと前を一歩踏んでいる。その度に目尻から涙を零して
溺れそうな息遣いで、呼吸をする。
そんな彼女を見て、今になってようやく“アリシアの心”を理解した気がした。
俺はメガロマニアとの対峙前に居たアリシアの心の領域の中で彼女の痛みを受け入れた、けれど…
それを隠すように覆う事で膿んでしまうだけだったのだ。そんな膿んだ傷の痒さに…変わらず爪で繰り返し引っ掻く事しかできない。
一人だけであったなら、虚構に俺は飲み込まれたであろう。
でも今は違う。
俺が見ている
アリシアが見てくれている
だから、互いに曝け出さないといけない。
彼女自身と…俺自身の傷を…この場所で
もっと、もっと前に進む為に。
『俺たちは…本当の意味で、傷を…外に出さなきゃならねえ。』




