リンドヴルム②
―…一時の、嵐のような存在はその場を後にし
ただここでシアクローネとリンドヴルムは二人で静寂を守っていた。
しかし シアは今、目の前で無力だと感じている竜を目の当たりにして
何か胸に燻るものがあった。
彼女の中のリンドヴルムには崇高な感情を抱いていた。
けれども、目の前にいる彼女は様々なしがらみの中で藻掻き苦しんだ末に
世界に裏切られたと感じ心に終わりを迎えようとしている。
(ああ、彼女もまた…迷える者だったのですね)
大いなる神は迷わない。その全てを知りうる者であるから。
そして女神アズィーは故に知りうる事に対し試練を与え導く。
その芯を賜るからこそこの厄災たりえる竜は人を愛し知見を人々に愛として与える。
故に、知恵持ちの竜という名を頂いた。
しかし、今の彼女はどうだろう。
もはやその面影は無く、ただただ床に伏せているだけだ。
その様を見る程にどこか余計にもどかしく感じてしまう。
「リンドヴルム様―」
…返事は無い。だが、シアは聞いてくれていると信じて続ける。
「あなたがどんな思いで、今の苦しみに至ったのか…私如きには計り知れないでしょう。ですが…あなたは、あなたにとっては…その苦しみが、あなたが歩んできた全てよりも、その絶望の方が心を捧げるに値するのですか?」
「…」
「私にとってあなたはネヴラカナンの家系を救った恩人です。おじい様…私の祖父は今でもあなたに感謝しています。その事実はたとえ世界があなたを裏切ったとしても覆す事はありません」
「シルヴェスター…ですか。懐かしい名前です」
「今でも、あの人は言います。あなたとの対話、あなたの世界への見解、あなたと過ごした日々は今でも嘘偽りなく鮮明に覚えている…と」
「…」
「私は、まだ若輩者ではあります…けれども、これだけは心に留めておきました。神官でありながら神の言葉よりも重く抱く事はきっと…もっての外でしょうが」
「それは―」
「あなたの歩み続けた足跡だけは嘘をつかない。おじい様から頂いた言葉です」
シアはリンドヴルムの力ない手をその手で握りしめる。
「そして、おじい様は言ってました。その言葉はあなたから貰ったのだと」
リンドヴルムはその言葉を聞いて、シアの方へ顔を向け小さくハッと細い目を開く。
(ああ、リンド様。なんとも綺麗な色をした目でしょう。)
「急ぐことはありません…今のあなたがこの言葉を忘れる程になにかを胸中に抱えているのでしょう。だから、少しでもいいです…私を信じて…話して欲しい。あなたの苦しみを」
リンドヴルムは大きく口を歪ませて…とても悔しそうに…そして、寂しそうにしていた。
「―…私は、今でも彼女の事を信じていたいと思いました。」
「ええ」
「でも、裏切られたと知った時…私は怒りよりも、私を信じてもらえなかった事と彼女を理解しきれていなかった事の寂しさが勝ってしまったのです」
「ええ」
「彼女は…―アリアはもう、この世界を愛していない。」
「アリア…それはもしかして」
「アリシアの母。彼女は、この世界を騙し続けて生きている。その素性もその感情も」
「―よほど…彼女を想っていたのですね。あなたは。そうでなければ、こんなにも裏切られた感情に押しつぶされそうにならないはずです」
「そう…ですね」と、力なく答えるリンド。
「…リンド様。人は裏切られたと感じるとき、自身の運命を周りに投げ出す事があります。それは、時に自分が“何をするべきか”を見失う事でもあるのです。」
「…」
「たとえ、裏切られた事に対する復讐も…見境なく放たれた炎と変わりありません。なら、一番に何をするべきか…あなたも知っているのでしょう?」
「…」
「あなたの心と向き合ってください。今の私は、そのために居るのですから。」
(ああ、そうだった―…)
彼女の手の温もり…それはいつかの誰かと同じものだった。
その時の心地よさに理由は必要だったのだろうか?
(この温もり…)
彼女は思い出す。シアが語るその言葉は、かつての、あのみすぼらしい“少年”に与えた言葉だ。
ただただきまぐれに。けれども…そこからどのような運命を齎すのであろうかという興味。
か弱き存在でありながら、なお潰れぬ彼の瞳の色が
天に向けて咲き捧ぐ彼ノ花と似ていた。
「炎を放てばそれは怒りであり、復讐…よく言ったものです。熱は定め…抱くもの。それはやがてまごうこと無き光示す灯とあらん」
(養父はどのような気持ちで虐げてられていた幼い私を拾い育てたかは計り知れない。傲慢な理由でありかもしれない。けれども、理解してこの私にも何か与えられるならば…その本質を見る事が出来たのかもしれない…そう願って“少年”を一つの賢者へと導いた。)
女神アズィーは故にそれを運命の導き手としてリンドヴルムへ知恵持ちの竜としての祝福を賜ったのだ。
「―そんな事も忘れていたなんて。」
リンドはゆっくりと起き上がると、シアの手を握り返す。
「ふふ…あったかいですね。人間は」
「リンドブルム様っ」
「あなたから伝わる熱は、きっとシルヴェスターから伝わってここまで届いたのですね。それは、私にとっての愛しき運命に違いありません…。」
(―きっと、この優しい灯が…昏きを司るであろう彼女にも届くなら)
「シア、もう少しだけ…甘えさせていただきます。この手に伝わる温度を今度こそ忘れない様に…」
一層握りしめる手。シアは今にも泣きそうな声で「はい…はいっ…!」と答えた。
(待っていてください。ジロ…アリシア…私は、今度こそ間違えない。そしてこの場所に至るまでの罪を受け入れ…進み続けます)
私の祖父はいつも語っていました。
ネヴラカナンの家系は、知恵ある竜によって救われたのだ。と
…古くからイグドラシル教会は女神アズィーの信仰の袂で、その恩恵の椅子取りゲームが常にされていた。
掟にはじまる様式は常に周囲からの信頼を得る為。表面でなされた信仰は裏を覗けばそれそれは醜く、形骸化された歪な人間の集まりにすぎなかった。老人を始めとする古の家系、歴史が深いもの程その椅子に座る権利は強く
当時の祖父が受け持つネブラカナン家は、パッと出であり名家に比べれば歴史が浅いものにすぎなかった。
信仰への理解、才能などは結局…鼻に掛けられた長い血統の前ではあまりにも弱く、見向きもされないものであった。
当然だ。その並べられた椅子の中でも一層装飾に凝ったものこそが、その言葉こそが神の代弁者として誰もが疑わなかったのですから。
けれども、そんな事実を覆したものこそが、災厄に生まれながらも人の営みに愛を語る運命の竜。
リンドブルムその者であった。
晴れてより、彼女は祖父の中にある才と叡智、そしてその信心深さを見出し
ネヴラカナン家を教会の台頭せしめたのだ。
―だから、私は信じていた。その知見も、あまりあるその叡智も、多くを見通すその慧眼も…神のような“なにか”を持っているからだと。それが祝福であるのだと。
でも違う。目の前にいる“彼女”はただひとりで…何かに藻掻き苦しむ誰かに違いなかった。
だからこそ、その歩みを止めて空を仰ぐ。
リンドブルム様…あなたは、本当にすごい方なのです
でも、それは…きっと宿命だからじゃないのかもしれません―
誰もがそう言うかもしれない。何故なら、叶えた願いが大きければ大きい程
人はその事実に頭を垂れる癖をもっているから。
そこに、壮大な背景がなければきっと…自分自身の小ささに心が耐えられないんだ。
…私は、神に仕える神官です。だからこそ、こんな事をいうのはおかしいのかもしれない。
けど、私にとってこの務めの本質は…信仰に頭を垂らす事ではないのです。
信仰が誰かの救いになり…誰かを導く事。そして、気づいた時にこそ、その行いそのものに感謝をする
それだけなのです。
―故に、やはり認めるしかないのです。結果という形で縋る運命も奇跡も…結局は弱い“誰か”がつけた大きな名前でしかないのだと。
思い出した事があります。
拙く小さかった私が祖父にあの時なんの気もなく聞いた質問にたいする答え。
「じいじは、リンドブルム様の事、大好きだったんだね」
「ああ、好きだよ。偉くなったのも彼女のおかげなのだからね。」
「でも、じいじが偉くなってなかったら?好きじゃなかった?」
「わからない。それでも…忘れる事はなかっただろうね。今でも…いつまでも。“彼女”が見せる面白い事、一緒にする食事。くだらない問答も…愛おしかった。それだけでよかったんだ」
ああ、なんだか涙が出てきた。どうしてでしょう。
「私の祖父は、今でもあなたの事を思っていました。」
「ええ」
「今ならわかります。あなたと祖父の出逢いは決して神話なんかではない。大きな恩はあれど、本当は、きっと些細なつながりから生まれた並みのものなんだと。だからこそ、あなたの葛藤も苦しみも…受け入れたいと思っています。」
心をもつもの全てに、病める思いを余らせるものなどない。
よりそい、共に生きて…認める事がきっと彼女への救いなのだと…今は信じたい。