望むクローバーは見つからない
僕にママしか居なかった。
母であるエキドナが最初に愛した男は、僕が生まれる前に死んでしまったそうだ。
だけど僕には父が必要ないほどに、ママは僕を愛してくれていた。
だからこそ僕は“外界”では人間どもに厄災の子や竜だと石を投げられ、
竜の集う組織リョウランでは賢老らに弱き人の混ざりものだと罵られても
それでも、ママだけはただいつものように抱きしめて、
優しく撫でてくれて、僕の名前を優しく呼んでくれる
そんなママが大好きだった。
「ティルフィ―…」
「うん」
「ねぇ、ママ。“ティルフィ”ってどういう意味なの?」
「そうね。私にとって、とても特別って意味」
「特別…?」
ママはまた抱きしめる。
「私にとって、本来きっと見つかる事のなかった幸せ。願いよ。ずっと、ずうっと叶うなんて思いもしなかった」
「…うん」
「でも、見つける事ができた。あなたを、あなたという“特別”を」
その言葉は事あるごとに生きる意味を考える僕の内側で何度も反芻して、生きる理由の糧としてきた。
僕の名前さえも知らない奴らの薄っぺらい感情から生まれる他者の矮小な異端なんかよりも、
ママの言葉は何よりの愛情だったんだ。
「日記帳?」
「そうよ。ティルフィの誕生日にってね。」
ママは僕の誕生日に日記帳を渡してくれた。
上等な皮の表紙に、いくつもの白い紙が挟まれている。
「それはあなたの日々を、毎日を記録するもの」
「どうしてそんな事を?」
「…ごめんなさい。」
「え?」
質問への回答そっちのけで、ママが急に謝り出す。どうして?
僕は何も怒っていないし、謝られる理由なんて何一つなかった。
「私にとってあなたは、掛け替えの無いただひとりの愛する子供。でも、きっと世界はそれを許してくれない。そして、そのことをあなたもいつかは許せずに…いずれは呪いたい気持ちになるでしょう」
「そんな事ないよ。やめてよ…僕が世界を嫌いに?ジジイ共や人間ならまだしも、そんな必要がどこにあるの?」」
ママの言葉にはどこか自分には知りえない寂しさを感じた。
「あなたはきっと頭がいいから。必要なもの、必要じゃないものの区別をすぐしてしまう。
だから…何気ない日々をそこに書き留めてごらんなさい。日々読み返して、思い返しながら必要じゃないと思ったものからも、もっと色んな特別を見つけて欲しいの。」
ママは少し寂しそうな目をした。
「私もね。人間が嫌いだったの。脆弱で、それ故に賢しくて、愚かで、なによりも傲慢な魂が…嫌いだったの。」
「僕も人間は嫌いだ。」
「でもね、本当は知らなかったの。」
「何を?」
「私はね、それしか知らなかったの。そして、そんな自分の事しか知らなかったの。」
ママは窓辺の花瓶へと視線を向ける。
それは陶芸品が盛んな隣の国で誂えたと言われる妖結晶の花瓶だった。
「綺麗でしょ?」
「うん」
嘘は言っていない。透き通った表面の曲線美になぞって精巧に細工された花模様。
それは不思議と僕の心の中にある何かに、誰かが語りかけてくるようだった。
「何百年も生きて、悪の象徴として蔑まれた私にとって、自分の常識というものが単なる飾りでしかないと思い知らされた。人は、どうしてこんな美しいものを作れるのか?日々想い続けた。でも、その時の私では何も解らないままだった。でも―…」
ママは暫く語っていた。
美に魅入られてしまった事、
そして、それを生み出せる人間に劣っている劣等感。
それ払拭する為、日々人間の観察をしてきた事。
「あなたのお父さんがね、色々と教えてくれたの。」
父さん…ママはその言葉を呟く度に、どこか遠くを眺める。
僕を特別だと言って愛する目と同じだ。
「ティルフィ、もっと目を開いてみなさい。全ての本質は、どんどんと時間が重なる度に隠れていくもの。それはね、まるで目を開きながらにして眠りの森へと誘われるようなものなの。山を見る景色でさえも、ただひとつの山。全ての山々にある中の山でしかなくなってしまうものなの。それは物というモノをモノとして終わる事しか出来ない。これはきっと新しい知識を求める限り拭う事のできないもの。でも、気づけば時は透明よ。小さなものでもいい。その目だけで拾って、捨てて、たぐり寄せるように拾ってみなさい。そしてその日記帳に書きとめなさい。“美しい”というものをより知れば、万物の大きさなんて関係ない。水平線の向こうより、すぐ傍らにある特別なものを知る事が出来るわ」
「より特別なもの?」
「ええ、あなたにとってこの世界が幸せな場所でいられる大切な事――…ごめんなさい。あなたには少し難しかったかもしれない。私はこういうのを伝えるのがあまり上手じゃないの。これも“あの人”の受け売り…」
あの人、父さんと言われる男の事か。
―結局、ママが何を言いたいのかは解らなかった。
けど数年経ったある日、ママはある人を連れてきた。
―それが“あの男”だった。
僕たちを、ママを裏切った男。そして…妹であるネルの父親。
「お姉ちゃん!」
氷結された幾つもの骸の軍勢。
その頭上で氷魔力が拮抗し、何度も砕けたガラスのように宙を舞う。
雪景色というにはあまりにも羅刹がすぎるにも関わらず神々しい美しさを見せていた。
ネルケとティルフィ、彼女らの生み出した氷と氷が何度も何度も交じり合う。
それは互いに蛇のように螺旋状にうねり、天井を穿つ。
「お姉ちゃん!!」
ネルケは何度もそう叫び、語りかけてくる。
そして、彼女目掛けて何度も氷魔術の攻撃を放った。
否、そうするしかなかった。
―先でネルケは迫り来る髑髏の軍勢を抑止する為に、先制で一度に一気にフリージアで氷結させた。
しかし、同じ氷魔術の使い手であるティルフィにとってそれは相手からの魔力の“上書き”でしかなかった。
ネルケに氷結されたものも、所詮はティルフィにとって同じ氷の魔術、氷の魔力。
自身の同じ氷の魔力をあてがう事で上書きすれば氷結の支配を解除する事も容易なのである。
だからこそ、ネルケは髑髏の軍勢の解除をされる前に、隙を見せず
ティルフィのヘイトを自身に向けさせる必要があった。
氷の槍。
氷の剣。
氷の斧。
氷の礫。
様々な形、様々な間隔、様々な方向、角度で何度も何度も放ち、その中でティルフィの隙を伺う。
しかし、それをティルフィは冷静に氷の魔術を打ち消していく。
氷の魔術は本来、空気中の水分を自身の魔力によって熱を攫う事で氷結させて形を作るイメージ重視の魔術である。
っしてティルフィは放たれたそれらの氷魔術の形を把握し、再度その氷に自身の魔力を上書きする事で、全てを微量な氷の塵へと変換するイメージをし、霧散させている。
一般的な氷魔術使いは、大雑把なイメージのみで氷柱を作るのが基本だが、
この姉妹の互の技術の拮抗はそれを遥かに凌ぐ才を見せつけていた。
なによりも氷の魔術の魔力を魔力で上書きし、霧散させる事は至難の技である。
それをティルフィはいとも容易く、冷静に処理していく。
それでも最もネルケにとって懸念するべきは母の忘れ形見でもあるナガ・シャリーラ。
それは髑髏の軍勢と違い、一向に動く気配がない。
(動きがない…ちがう、動こうとしてないだけ…)
このままでは互いにジリ貧になるのは違いない。
だが、姉が使い勝手の良い凶骨竜を隅に置くだけのはずがない。
なによりその竜の視線はずっとネルケを追っている。
「…ママ…」
竜の骸。…その魂は確かに聖邪の外典による術者の記憶から呼び覚ましたものに違いない。
かつて生きていた頃の母の竜の姿が骨のままの姿だったとしても
そこには対峙するネルケでさえも名残惜しさを感じてしまう。
「ネル、わかりやすいんだよ。お前は―…」
ティルフィは気づいているのだ。
妹の考えている事を。思考を。
ネルケにとってこの戦いは完全に不利である事に違いない。
それでも立ち向かう意図には、たぐり寄せるような勝ち筋を見出している。
それを姉であるティルフィは理解していた。
(いずれは僕の隙を見つけて魔道書である聖邪の外典を狙い撃ちにするつもりなのだろう、だが)
ネルケの氷の魔術によって放たれていく連続攻撃の粗…ティルフィはそれを見逃さなかった。
「お前の魔力量と僕の魔力量では差が大きすぎるんだよ。」
呼吸をする度に漏れる白い吐息の大きさ。
次第に雑になっていく氷の形。
攻撃の間隔の乱れ。
「あ…」
ネルケの動きが止まる。
その全てが重なり生まれる隙がこの瞬間だった。
それを見出した瞬間に、ティルフィは噛み締めた歯を見せながら蒼い視線をネルケに向ける。
(ああ、やっぱり―)
目を伏せるネルケ。
(一瞬の決定的な一撃を狙っている…。そうだね)
呼吸も止めたかのように静まり動きを止めるネルケの正面から
ズイと拘束で押し迫るように大きな凶骨竜の顎が大きく開き押し迫る。
「お互い様だね…お姉ちゃん」
隙を見せたネルケを仕留める為に瞬時に凄まじい速さで突撃してきた彼女の背後に居るナガ・シャリーラ。
しかし、ネルケを前にしてそれ以上襲いかかる動きを見せない。
「―なっ!?」
ナガ・シャリーラの口は開いたまま閉じられない
否、閉じる事が出来ない。
顎の内側で縦に氷柱が詰め込まれていた。
それはネルケが刹那に集中し放った氷の魔術であった。
彼女には姉が何をするのか理解していたのだ。
「ッッッ打ち消すっ!」
ティルフィは手を翳してその氷柱を打ち消し霧散させようとする。
しかし、先ほどのように直ぐに打ち消すことが出来ない。
周囲がシンと静まり返る。
「何故っ…」
「ママはさ。本当に、美しいものを尊く愛していたの―」
その氷は砕けない。打ち消せない。
「なぜっっ!」
「ママが氷の魔術を教えてくれた時に、言ってた。“心打たれるもの”は噛み砕く程に知らねば不変であると。属性魔術の真髄はその理解と難度の高い精巧性。とくに形、イメージに重きを置く氷結魔術にはそれが大きく反映される。」
トッ、とネルケは動きを止めたナガ・シャリーラの口に詰め込まれた氷柱に触れる。
「この氷柱を見て思い出さない?あの時ママが大切にしていた花瓶と一緒なの」
「ネル、何を…!?お前は何をしたんだ!?」
「…お姉ちゃんには砕けない。この世界を捨てようと願う限り、この氷柱に刻まれた花の意味も、語りかけてくるものの答えも理解できなければ」
そして咲き誇る。
排他の相、虚ろの城、飲み込み喰らう荊棘の蛇、その身は気高く、映しを隠し、華怨の妖晶、散る事の無い金剛
<雪色の薔薇:ローズ・サンクチュアリ>
ティルフィは気づく、今になって気づく。
この、氷結魔術だけは、形を把握するだけでは打ち消す事ができないのだと。
精巧に編みこまれた魔力が模様や形となって、より暗号のように固く同じ氷魔術の上書きを拒んでいる。
―その詠唱は、触れた氷柱を媒体に反応してナガ・シャリーラの周囲に氷の荊棘を這い寄せ
骸なる巨躯を縛り付けるように付き纏う。
次第にそれは凶骨竜の身体を大きな薔薇の花を象った氷で一気に包み込む。
「ネル、嘘だ。それは…ママの、」
(ママが使っていた氷魔術じゃないか)
気持ちが追いつく事が出来ず、呆然と見上げるティルフィ。
ネルケの魔術が、精巧に編み出された氷の荊棘が、ナガ・シャリーラを拘束し
その巨躯の上で大きく透き通った薔薇の花弁を天に向けて咲かせていた。
それは、長年母エキドナから教わった氷の魔術の中でティルフィが唯一使う事の出来なかった魔術。
それを妹であるネルケがやってのけた。
「お姉ちゃんも、ママから聞いているでしょ?」
「…ありえない」
「あの言葉を思い出して。」
「ありえない」
「私たちにきっと必要なのは…もっと大きなものじゃなくて、小さなもの、見えないものへの意味を知る事なんだよ。ママはそれをティルフィにも知ってほしかった…んだと思う」
「ありえない」
「お姉ちゃん…もう帰ろう?」
バキッ
奥歯が砕ける音。それは、彼女の中にある何かが壊れるような音にも感じる。
「うるさいんだよ!クソが!!ママを、ママを裏切った男の子供の癖に!!!ママを知った風にいうな!いうな!!いうなああ!!」
ティルフィの冷たかった蒼い目が、充血と共に赤く染まる。
彼女自身、その憤りを全く理解しきれていない。
誰に向けるべきかわからぬ愛情、
誰に向けるべきかわからぬ嫉妬、
誰に向けるべきかわからぬ憎悪、
誰に向けるべきかわからぬ愛憎
自分の中にある煮詰まったそれらを全て、ただ一人の妹に言葉で殴りつけるように放った。
「お前さえ、いなければよかった!お前さえ!!いなければ!!」
「お姉…ちゃん?」
「もう、うんざりだ!思い知らされるのは!!」
ティルフィは手首の動脈を噛みちぎる。
吹き散る赤い血飛沫に、ネルケが目を見開く。
「それは!ダメだよお姉ちゃん!!!」
ティルフィの手首から踊るように舞い散る血飛沫は拘束されたナガ・シャリーラにまでひたひたと掛かり、その血は蒼い炎を放ち、ゆらゆらと揺らしながら、その氷縛を溶かしていく。
「簡単だ。精巧な氷魔術だって?解析できないなら、こうやって焔で溶かせばいい!」
この世界で魂に刻まれる魔力の属性は基本ひとつ。
ティルフィとネルケの二人の姉妹は氷の魔力が、その魂に刻まれたものであった。
だが、それは人であったらの話である。
半竜であろうと、その身に流れる血には竜の本質である焔が刻まれている。
(竜の血は魔力の濃度が高い。それも大量に放たれた血は、空気に触れるだけでそれは意志の無い焔となる…でも)
「この焔はな!お前に対しての!お前ら“人間”に対しての復讐の焔だ!!」
ボタボタと流れるティルフィの腕を見る。
大量の出血のせいか、はたまた己の怒りに酔いしれているのか
フラフラとしながらネルケを見下ろす。
「殺してやる」
飛び散る血が蒼い炎となって放たれ、それにネルケが同様する刹那
動き始めたナガ・シャリーラの大きな手が迫り来る。
「しまっ―…あ…かはっ…!」
その巨躯にネルケは全身を掴まれ、壁に叩きつけられる。
壁は穿たれ、彼女もその衝撃に嗚咽を漏らした。
「お…ね…」
…そのまま拘束したネルケに近づき、血まみれの手でネルケの頬を撫でる。
「はぁっ…あ゛…ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
(熱い…熱い…!!氷の魔術で中和なんて考える程に生易しいものじゃない…っ)
熱された鉄板を強く押し当てられたかのような痛みが彼女の左の頬に走り、堪える事も出来ずに泣き叫ぶ。
「その眼だ!その眼が大嫌いなんだ!!あの男と同じ眼が!!」
自身の手さえも焼けてしまう事を厭わず、ネルケの左目に炎を纏った指をいれる。
「ぎ…い、いあ…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「はぁ…はぁ…お前にとってあの瞬間が賭けだったんだろ?魔力全てを賭けて…。でも残念だったなぁ。僕の心を諭す事なんてのはもう無理なんだよ。もう、対話なんて出来る意思なんてものは持ち合わせていない。もはや矜持のぶつけ合いなんかじゃないんだよ!お前が殺されるか!僕が殺されるかなんだよ!!もう!!!」
ナガ・シャリーラはもう一度ネルケを地に叩きつける。
「が…はっ…」
「仲間?さぞ嬉しかっただろう。甘い囁きで、対話が出来る人間に唆されて、さぞ気持ちがよかったろ?自分の存在が承認される程、息が出来た心地はないからなぁ。そうだ、中途半端なお前だから!こうも簡単に絆される。ママの命よりも、ママが居ていい世界よりも…知った風にママの言葉を免罪符に都合のいい人生を送る!知った風に!知った風に!!あたかも自分だけが知っているかのように!」
地にうっぷしたままのネルケの顔を彼女は何度も引っぱたく。叩く、右頬を、焼けただれた左頬を、何度も何度も。
「はぁ…綺麗事なんかじゃあ終われない。はぁ…はぁ…終わらせられないとこまで来てるんだよ僕たちはァ!!」
「ああああああ」と頭を掻きむしりながら
気づけばティルフィは傍らの母の亡骸を縋るように抱きしめながら涙を流している。
「僕にはママしかいない…もう、ママだけが…僕のただひとりの家族…ママだけなんだ…」
(ああ…)
ネルケは彼女の姿、言葉を受けてただ涙を流すしか出来なかった。
(しってたよ…私は、きっと…本当は姉ちゃんに愛されていない。認められていないって…でも)
「諦めたくなかった…。お姉ちゃんが大好きだったから…どんなに非道い事をされてしまっても。どんなに罵倒されたとしても」
―あの時貰ったお姉ちゃんの優しさを…今でも心に残してしまっているんだ。
思い出すのは、いつも二人で外へ遊びに行った時の記憶。
広い草原で温かい風が、大きな風車を回して
そこへ一緒に走って向かっていた。
―ほら、ネル!転ばないように気をつけて
あの時、外へ出るのを怖がっていた私の手を引いてくれたのはお姉ちゃんだった。
いつも強くて、笑っているお姉ちゃんが大好きだった。
おねえちゃんが私にとっては大切な…
…だから、ママが殺されたあの日から変わったお姉ちゃんを、どうにかして救いたかった。
復讐しようと誓ったのも、今にも壊れそうなおねえちゃんの心の側にいてあげないとダメなんだと思っていた
いつかは、時が傷を癒して…お姉ちゃんがまた笑ってくれたらって。
―この村の人間を全員殺す
そう思っていた
―ネル…ほら、“凶骨竜”だ。これでずっと三人一緒だ
そう思っていた
―竜も、人間も…世界の何もかもを根絶やしにする
そう思って…いた。
―お前は、僕を裏切らないよな?ネル
「私は、お姉ちゃんが今でも…すき」
ネルケのささやかな言葉が、涙と共に溢れる。
「だって…たった一人の本当の…私の…か、ぞく…」
ネルケの顔を蹴るティルフィ。
「もういいよ。お前、死んじゃえよ」
氷の剣をティルフィは顕現させ、ネルケの首筋へとその刃を向ける。
「……………………エ…エグ、ネルロ…」
「っ!?」
ネルケが喉を振り絞って出したそれは、古代オーり言語の魔術。
「何をするつもりだ…!」
「“ネルロ”“ミグニト”“ディノア”“アザ”“ガリエラ”“シャルキダイ”」
「くそっ!死ねっ!」
このまま詠唱が成立してしまえば、ネルケはきっと自身の魔道書を壊すに違いない。
そうさせまいと、ティルフィはネルケの首へと刃を振り下ろす。
「…ごめんなさい」
刹那、ティルフィは何故か思いとどまり
彼女の首筋に刃をあてたまま動きを止める。
違和感。
古代オーリー言語の詠唱魔術は通常よりも事象支配力の高いもの
それを以ってすれば、このような状況も瞬時に打破できるはず。
魔道書を壊せたはずだ。
(だが、こいつのやった事はなんだ?)
ティルフィはその噛みちぎった手首に目を向ける。
出血は止まり。傷の痕も見事に消えている―…。
“シャルキダイ”は光
“アザ”は施し
「馬鹿な…。癒しの魔術…だと?」
ティルフィは呆然と眺める。
ネルケは、自身の噛みちぎった手首を癒しの魔術で回復させていた。
…だが、彼女はネルケのその癒しの魔術を使った理由、想いに気づく前に支配してしまう感情があった。
劣等感。
この世界で彼女の魂には二つの属性が許されている。
…愛されている。
(こいつには帰る場所もあって、愛されているんだ。世界にも…)
彼女への憎悪がより一層膨らんでいく中、ティルフィはようやくネルケが自身を案じて傷を回復させた事に気づいたが、それがティルフィ自身をより惨めなものとさせてしまった。
いつまでも…いつまでも傲慢さが彼女の中で巣食っていく。
「認めない…こんなの…みとめない…。」
『ああ、俺も認めねーよ。ティルフィ』
それは一瞬の出来事だった。
いつからだろうか
いつからそこにいたのだろうか??
一人の少女と魔剣に背後を取られていた。
「マ…がふっ…!?」
ティルフィは少女の繰り出す魔剣の柄の殴打に対応が間に合わず大きく頬を殴られ吹き飛ぶ。
(馬鹿な…扉は固く閉ざしていた…それに、他の侵入者が来ないように人払いの魔術を掛けているはず、だ…!)
彼女は吹き飛ばされながらも首だけ扉の方へと視線を向ける
そこには、不敵に笑う女の姿があった。
(誰だ…あいつは!?あんな存在の情報は把握していない。連中の仲間にもいなかった筈だ…!)
『まだ、足りねえ。…本当はお前には交渉の材料があった。でも、お前は“やりすぎた”』
「交渉の材料??何をわけの解らない事を…!!」
『ああ、そうだな。思い知らせてやるよ。ネルケの気持ちを、痛みを――…』
魔剣から放たれる声は随分と低く、この冷たい空気よりも重たかった。