天獄の門が開くとき:後編
「―…ああ」
どうやら私は夢を見ていたようだ。
人間への憤りを募らせていく憎しみの記憶。
天に勝るほどの退屈で虚空なる闇の中で
剣も、力も、信仰…そして自由も失った。
冷たさなど感じないはずなのに、自身の思考が失う程に
魂が…身も凍る寒気を感じていた。
…だが、今は不思議と冷静だ。
なぜなら私には未だかつてない程の“温もり”を同時に感じ得ていた。
自身の手に握りしめられたモノ。微かな温度
その小さな温もりはやがて…私の中で大きな執念の灯となって
爛爛と焔を循環させて
私そのものを、死なせずにいる。
「あゝ、愛おしく感謝。ククク」
これは大きな予感めいた感覚。運命と言ってもいい。
“あの時”からずっと私は求めている。
我が偉大な“主”への愛を―…
そして、それはやがて私をこの世界へ再び導くだろう。
人間共のいる世界では無い。もっと崇高で偉大な新世界にっ!!!
「おおっ―…!!!!」
何もない闇の向こう側から光が徐々に刺しこんでくる。
「ああ、我が崇高なる主よ!これが愛の導き!」
さぁ、いざ往かんッッッッッッ!!!!!!
‥‥…―ガコン、ガコンと
幾度かの響く音と共に棺桶の蓋が外れていく。
そこから現れたのは、魔の極地。古の渦の徘徊者。
我の神、エゴの集合体、修羅の果ての意思。
魔神―…
女神の対存在。汚れた意志から成る、信仰とはよほど遠いもの。その力の象徴。権化。
人の愚かさの象徴。
かつて冒険者達が血を血で拭い、命を賭して記録したもの『悪魔の書』にはこう記されていた。
曰く、女神は一をはからず
故に心をはからず
人の御鏡をそこに置いた
それは笑う、それは怒る、それは嘆く、それは狂い、それはこちらを覗き込む―…
…書に綴られた数々の伝説が、今この場所にて顕現する。
黙過の大禍:ツクヨミ
大海の混沌:ラハヴ
善の歪曲者:メフィストフェレス
血の暴君:モレク
憎悪の連鎖:マステマ
暴食獣:ベルゼブブ
酔争連火:ヴファス
剛爪の飛翔:ジズゥ
悪辣なる喜劇:ロキ
極東の鬼衆統括:ナゥル=レヒン
怠惰の座:ベルフェゴール
嫉妬の髪尾:レヴィアタン
強欲の悪手:マモン
獄楽鴉:ヤタガラス
憤怒の双眸:サルトゥヌス
色欲の羽衣:アスモデウス
そして
灼熱の堕天使:イヴリース
何とも異様な光景。
それは百鬼夜行などと謳われても過言ではない程に圧倒的、地獄絵図。
ある魔神は数年前に
ある魔神は数十年前に
ある魔神は数百年前に
そしてある魔神は数千年前に
古の渦が現れるよりも前から封印されていた悪鬼羅刹も含め、神話より語られし悪そのもの。
聖女の祈りよって生み出されたシステム。
人の業より生み出されし悪魔
彼の魔神を封印せし隔リ虚区地、天獄の門。
それはかつての人間だけでは倒す事叶わなかった魔の権化を封印する為のみに特化した魔術。
天ツにて管理し隔離した地獄、それこそ即ち天獄。
…地獄がそこに解放されたのだ。
知ってか知らぬか、クラウスは…人ではあまりある地獄をその場に解放したという事なのだ。
「―クハ…こりゃあ、本当に壮観だぜ。」
クリカラでさえも笑いながら、その実…額から小さな雫をひとつ垂らしていた。
彼にとっても見た覚えのある魔神が居たのだろう。「随分みねぇと思ったら」とぼやいている。
「…」
「マリア、本当に勝てるの…?こいつら‥本当にヤバイ。」
リアナが黙するマリアに対し問いかける。
長年生きてきたリアナでさえ、身震いする程の経験だった。かつてない程の恐怖。今までにそう無かった。
過去の恐怖の記憶その全てを埋め尽くしたような光景がその場にあった。
「む…むむむむむ、無理ですよ…こんな、の…」
ネルケでさえもあまりに動揺して言葉以外に動くことすらできない。
リアナは周囲を見渡す。気付けばクラウスの出した風魔術は止んでいた。
(風の精霊が引いた…流石に飲まれると感じたようね。無理も無いわ…だって私も…恐い…誰か)
祈るように見る。
どうして魔神どもは動かないのだろう。
確かに周囲をゆっくりと見渡している。冷静に状況を理解するように。
それまでに何をされるのという想像すらもしていない。
否、必要がないのだろう。
この魔神共は封印される程に純粋な力を持っている。
その力への絶対的な自身。それを連中は各々で自負しているのだ。
リアナはいつ破裂するか解らない、張り詰めた空気だけを
どうにか
どうにか壊さぬように守る。
「頼るな、リアナ。」
「え」
「いいか、誰かに頼る勝利を望むな。悩むな。今は、ただ奴らの弱点を飲み込むように見ろ…」
マリアはその目を大きく見開いて数多の魔神の並ぶ場所を観察していた。
「魔神を狩るときに必要な条件がある。それは強者として成ったが故の抱いてしまった弱点だ。」
「弱点?」
「奴らは強い、強いが、それ故の脆さを持ち合わせている。あのジロでさえも一人で魔神と対峙し斃した。その決定打は“十字”だ。」
「十字?」
「魔神は罪の自覚を恐れる。人の負の感情から生み出されたものなだけあって。理屈を通り越して十字に撃たれ弱い。」
「言いたい事は解る。でも、十字っていわれても一体何をすれば?」
「剣ならば十字傷、魔術ならば十字をイメージして放て。それで十分だ。あと当たらねば吉。あとは今のうちに差し込みやすい場所をよく観察しろ」
マリアは今、この瞬間に浴びているであろう絶望の中でさえも勝ち筋を見出そうとしている。
彼女は敗北という停止を望もうとはしない。
否、あったとしても諦める事はないのだ。
勝算があるのだ。力差だけの単純な結果による判断ではない。
彼女の自身へと課した絶対的な言葉“神は細部に宿る”
彼女は自身の中にある絶対的な行動への自信をもとに時を経て学んだ多くもの研鑽をこの場で勝利へのシナリオを、空気をものにしようとしている。
リアナにとって、彼女のその気概こそがもはや人の領域を超えていた。
「…マリア、あなたってすごいわね。」
「…何がだ?」
「どんなに長く生きていても。貴方のような錬磨された者に至るのは至難の業よ。それを普通の人の身でよくここまで」
「フン、どうせ私も元々“いわくつき”だ。もう人の領域から外れた」
「そう。それでも私に与えた知識は確実に私を前に踏み込ませた。そうね。…勝ちましょう」
「あーあ、つれねぇ事いうなよ。お二人さん、せっかくの最悪の目覚めなんだ。私にもウサ晴らしさせてくれ」
「メイ!気が付いたのね。」
「つか悪かったよ。あんなにまで伸びちまってよ。失態だよ。けど、まぁ。ここいらで大きく挽回させてもらおうか?魔神狩り、大いに結構。マリアさん…ここはひとつ」
マリアにメイが耳打ちする。
「ふむ、面白い事になりそうだな」とマリアは今までにないニヒルな表情を見せた。
「ネルケ、あいつらはどうやら腹を決めたぞ」
「で、でも…おじさま」
「…まぁ、無理だというのなら下がっても構わねえよ。俺にはお前を守りながら戦える自身がねえし、折角の自由の身でファヴに殺されるのだけは勘弁だ。」
「‥‥‥」
「いいか、ネルケ。命ってものは“自分だけが使うもの”だ。恐れて逃げるのも良いだろう。それはいずれ経験となり、次に命を使う時にとっておく。それが恐怖の必然だ。だが、そのいつかが来たとしてもいずれ決めるのは自分だ。死ぬときが来ようとも、決める。決めるからこそ戦う土俵に入れる。それを覚悟と言うんだ。勝てるかじゃねえ。この世はいつだって戦えるかどうかなんだよ。」
ネルケは瞑目する。皆が前を向く中で自分自身が示すべき心。
かつて優しかった姉、ティルフィの笑顔を思い出す。
(彼らの行く末でお姉ちゃんのあの笑顔を今一度見れるのならば…。戦う事こそが…その意思こそが私にとって必要な生きる事の意味。)
「逃げるつもりはありませんっ、お供します!おじさま」
「へっ、さっさとここ終わらせて魔剣に会いにいくぞ」
「…そうか」
この状況の中、ルドルフはシン…と自己の中にある疑念に答えを見出そうとしている。
(神の絶対は我々の信仰故に…か。だからこそ彼はその領域の力を手に持ちながら人たりえるのか。知っていたのだな。)
「神に囚われる事の虚しさを…」
「あんたは、どうする?神がこんなだって知って…絶望したか?」
ガーネットはルドルフの横に立ってダガーを構える。
「いいや、もっと知るべき事があるのだと理解したよ。我々が居まするべき事は神の頭を見上げる事ではない。もっとその深い真意。神の足元にある根…起源だ。それが“教え”となって在るからこそ、神が神たりえる。私は彼らのようにもっとこの万物に宿す神意を悟らねばならぬ。」
「へっ、短い付き合いだけどよぉ。アンタらしい答えだと思うよ。アリシアの家のベッドで目覚めた時よりはよほどいい顔してるさ」
「あなたも随分と達観しているように見えるがね?」
「お生憎様。もう死んでようが生きてようが解らねえ身分だ。あんたと一緒でやれる事はぁやるつもりさ」
各々がこの場所を死地だと悟る。悟りながらも生きる術を見出そうと奮い立つ。
絶望を前にした事が、終わりでは無い。本当に足掻き貫く事こそが、命の使い道だと知っている。
…―だからこそ戦える。
だが、そんな覚悟を裏切るような出来事がこの場にいる全員に降り注ぐ。
それは魔神側…クラウス側にて
「魔神、イヴリースだな」
「………」
「まずは貴様に聞きたい」
「…誰だお前は」
イヴリースは呆然と周囲を見渡している。
見た私ながら“何か”を探している。
「女神をこの世界に引きずり出したいと思わないか?」
「女神を、だと?」
「ああ、そうだ。君は選ばれたのだ。私によって。貴様の愛する女神を今こそ私が極界からこの世界に引きずりだしてやる。その為に私はわざわざ天獄の門より貴様を含めた全ての魔神の封印を解いたのだ。」
「お前が、この場の私以外の、他の魔神も天獄から開放させたのか」
「そうだとも。偉大な信仰への叛逆者。特に貴様には――…」
ぶべぎょるる。
クラウスの言葉を遮り、首を捩じりもぎとる瞬間はそんな音だった。
「…ふむ、やはり従わせるのは無理か。魔神如きには言葉は通じないか。いやはや残念だ」
ぶちっ
イヴリースはもぎ取ったクラウスの頭を握りつぶす。
「小賢しいカスが。私と取引をしたつもりか?」
「ギャハハハハハハッ」
傍らで下品な笑い方をする化け物が居た。
「あんたおもしれーっ!!魔神ってのはやっぱそうでなきゃなあ!いいぜ!俺の名はマモぶぎょぷちぇッッッッ!?!?!?」
魔神の一人、マモンは刹那に十字に引き裂かれ、叩きつぶされる。
イヴリースの手によって。
「猿ッ!猿ッ!!糞猿ッ!!!気持ちの悪い声を私の耳に入れるなっ!汚い魔神風情がっ!」
その瞬間から魔神側の空気が一変する。
「マモン、愚かな…」
皆がみな、この中での一番の異端へを視線を集中させ、各々の思惑が動き出す。
「どういう事?あいつ、仲間割れ?」
困惑するリアナ。マリアでさえもこの展開には出せる言葉が見当つかなかった。
唯一解るのは、イヴリースという圧倒的存在が徐々に周囲を蹂躙しようとしている事だけ。
「ンーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!」
イヴリースは凍り付くような重い空気で大きく息をすう。
「ンアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
そして大きく叫び(?)漆黒の翼を大きく広げた。
「揃いも揃ってカス共が、何を見ている。」
イヴリースは自身を見る魔神全てに、侮蔑の視線を送り返していた。
「“我が愛しき主との再会”…それが、このようなドブ臭い場所で無かった事だけは運命に感謝せねばならない」
彼の語るその全てがまさに傲慢。
イヴリースにとっての魔神の認識は、己が同類では無い。今の彼にとっては、悪臭漂う忌物。
天使としての自覚だけが未だ彼の中にある。
「いいだろう。伏滅…鏖殺だ」
その言葉から間も無くの事である。
あれほどまでに並んでいた多くの魔神の殆どが、傍らに決意を固めたリアナたちをヨソに
ほんの僅かの時間で殺しきる。
瞬時にクラウスを殺し
他の魔神を屠る
この状況を目の当たりにしただけで、アリシアと魔剣の実力が自身らより頭一つ抜けていたという事と同時に、
イヴリースという存在の脅威を皆が理解した。
「いくらかの魔神がこの場を逃げおおせたか…」
あまりにも一変した状況にその身を動かす事が出来ない。
だが、その時は来た。
「ッ!?」
クリカラの目の前、瞬く間にイヴリースが迫って来た。
あまりの速さにクリカラは身動きひとつ出来なかった。
「…ヨぉ」
クリカラは怖気づかず見栄を張るように軽い言葉を交え、イヴリースへ目線を外さないようにする。
「ふむ…同じだ」
「…何がだ?」
「そこな、竜の魔力。“我が愛しの主”と同じではないか」
「女神の祝福の事か?欲しけりゃ、極界にでも行けよ…今のお前なら余裕で入り込めるんじゃないか?」
冗談を含めた挑発。クリカラはそれで自身にだけでもヘイトが向けられればそれで良いと考えていた。例え、ここで死んだとしても。
「女神…違う、違う違うちがうちがうちがうちがう」
イヴリースは急に眼を見開き顔を強張らせて叫ぶ。
「ちがぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああう!!!!」
イヴリースは胸元から取り出す。うっとりとした表情で。
小さな欠片を。
それは皆にとって見覚えのあるモノだった。
…―鎖の欠片。
それは魔剣のアルメンが放つ魔力の鎖の砕けた欠片だった。
「これこそが、“愛しき我が主”との誓いの証。さぁ、答えろ…我が主は今、いずこに居る!答えなければ殺す!」
「……え」
「え?」
「え」
「え」
「えっと」
「え」
「え」
「え」
「えぇ」