99:宿屋にて
俺たちは、通り過ぎたひとつの出来事に対してまだ気持ちの整理をつけないでいる。
アリシアが握り締めるヘルヘイムを眺めながら、気づけば中間地点である宿屋へと到着していた。
「今日はここで一休みするわよ。馬車にも無理をさせてしまったからね」
リアナが一足先に降りて皆に説明する。
そして先の騒動に関して互いに情報共有する必要があるから暫くしたら宿屋の近くにある酒場に落ち合う約束をした。
「アンジェ~、腹減った腹減った腹減った」
「うるせぇ、てめえはそのぷらぷらと無駄に伸びたピンクの尻尾二本食べとけ。こっちはそんなクソとは比べ物にならんくらいうまいもん食うからよ」
「師匠、鬼かよアンタ」
ここの宿屋は確か、マリアの記憶にあった場所だ。
周囲をみると橋の下に小さな島が広がっている。
アリシア俺という魔剣を背負い、ヘルヘイムを握り締めたまま馬車を降りた。
彼女はすぐに鼻をスンスンと鳴らしながら周囲を見渡している。
「なんかしょっぱい匂いがする。あの時の、港町で感じた匂いと似てるわね」
『そりゃそうだ、なんつったっけ、そう、ヴェニスタ。東大陸の港町だっけかそこ以来か、海の景色を眺めるのは』
時刻はまだ夜中のようだ。俺たちは宿に向かう皆を端目にそのまま大きな一本みちの橋のほうへと歩いていく。
意外にも馬車を降りるととてつもなく広い道だった。
けれども今は誰も通る気配が無い。あまりにも静寂だった。
この大きな道の、前を見ても後ろを見てもその道の先のムコウはどちらも小さくなるばかりだ。
今でも物珍しそうに鼻を鳴らしてアリシアはそのまま橋の端へと歩いていく。
すると小さな漣の音…そしてチャプチャプと水の音が聞こえる。
以前立ち寄ったヴェニスタと違って
ここはやけに海という場所と近しい感覚を持ってしまう。
「海…でも、私は夜の海はあまり好きじゃないかも」
『ああ、そうだろうな』
理由はわかっている。
こんなにも暗く、飲み込まれそうな程の一面の闇
似た光景に忌むべき記憶を残りしている以上、それを好きになるなんて事は難しいだろう
そんな闇の奥。遥か水平線の先で、微かに海に潜り込もうとするように照らす月の存在が唯一、望むべき彼女の光であった。
「…ねぇ、パパは…自分の娘に今でも会いたいって思ってる?」
『どうしたんだよ、急に』
「ん」
目を閉じながら、顔を少しだけ背け誤魔化す
「なんでもない」
『…へんな奴だ』
「…」
『…会いたいさ。もし会えるならね。』
「―うん」
きっと…アリシアはナナという俺の娘の姿をした存在を目の当たりにして
俺の心の何処かを探っている…いや、きっと自分の居場所を探しているのかもしれない
そうであったなら、愛おしいと思えた。
…だからそうであれと俺は願った。
『けど、会えたとしても、俺はお前の側に居続ける。なんてったってお前のパパなんだから』
「う、うん」
さっきの言い合いの延長が心に残ってしまっているせいか
小っ恥ずかしそうに返事するな…なんだかこっちも余計に恥ずかしく感じる。
―でも
『アリシア』
「なに?」
『もし、これから…もしもだぞ、俺に何かあったとしても…決して一人にはさせないさ…何があっても』
「…そう」
そうさ、俺は心からそう誓う。
“あなたはこの世界に毒されてしまった”
俺はヨミテの、その言葉の意味を理解したくないのに…少しずつ理解しようとしている。
“単なる本の中の物語に入り浸る事に幸せを感じてしまってる”
うるさい…やめろ…
あいつの事を今は思い出したくない。
なのに、何故、あいつの最後に見た表情は…あんなにも…渇く衝動に駆られてしまうのだろうか?
―…ぱ
…漣の音が大きくなる気がする。その分だけ、自分の何かが止まっている感覚。
「パパ!」
そんな大きな声が、俺の意識を叩いた。
『あ、ああ』
「どうしたのよ。返事もしないから、心配になったよ」
『…心配してくれるんだな』
それを言うと、少しばかり表情を強ばらせて誤魔化すアリシアは
そのまま俺を“わざと”引きずるように皆のいる場所へと戻っていく。
ああ、すんごく視界が揺れる、すまん、やめてくれ、やめてください、ごめんなさい
「―結局、あの子はなんであんたらの前に顕れたわけ?」
約束どおり酒場に来ると、一卓で数人が囲んで喉を潤しており
みんなの間に割って入るようにアリシアも座って軽い食事を頼んだ。
「おお、やっと来たか。ジロ、アリシア」
隣で飲み干したエールの杯でドンと卓を叩くガーネット。
「うぇ、ガーネット酒臭い」
「うーっせ。久々の酒なんだからいいじゃねえか」
「あんま飲みすぎて吐かないようにね」
「わーってるよリアナ。お前はここ最近口うるせぇなぁ…へぶっ」
「誰のせいだと思ってんだよ」
尖らせた口をその手で強く掴まれ、一層ひょっとこのような顔になってしまうガーネット
「しゅ、しゅいません」
「くだらん事はさておいて、説明しろ。ジロ。おまえはアリシアがもうひとり居るような事を話していた。
私はそれがどうしても気がかりでな。納得はせんが全てを話すつもりでいろ」
睨みつけるマリア。相変わらず言っている事が厳しすぎる。
『へいへい。今いるのは…お前らだけか?』
その場にいるのはルドルフ、マリア、ガーネット、リアナそして俺とアリシアだけだ。
「ネルケはあまり人が多いところが苦手でな。今はヘイゼルと部屋にいる。鍛冶屋三人組が彼女らの分も持ち帰りでご飯を頼んで丁度お前らと入れ替わるように出て行ったぞ。」
『そうかい、なら…まぁ、話はするが。何処から話すべきか―』
そして、事情をある程度、皆に解る程度の説明を俺はしていた。だが思ったよりも長い話にはなってしまう。
そりゃあそうだ。アリシアが元々ウロヴォロスに飲み込まれた所からが全ての始まりになるんだからな…
『そんな事おれに聞かれてもわからねぇケド。あいつは…ナナは、俺たちにお礼がしたいと言っていた。本音かどうかさておきな
そんで渡されたのが、このヘルヘイムだ』
「これって、アリシアがニーズヘッグとの戦闘で暴走したときのものじゃない?どうしてこれを?」
リアナが指差す神器。それをルドルフは「これが神器…ほう」と、物珍しそうに見る。
『返すってな。もう必要がないって、それともう一つ』
「もう一つ?」
『マルクト王に謁見するといいって言われた』
「…マルクト王」
姿勢よく座るルドルフが、眉間をつまみながら「ふむ」と呟く
「確かに、あの国にはかつて大いなる驚異、災いがあり。それを女神より賜りし神器によって収めた、という伝承がありましたね。その伝承には、再び寄越されるであろう世界の混沌に備えて代々の王が神器を継承され、国を守る為に封印されている、と」
神から賜ったもの、か。東大陸では古の渦から訪れる災い、イヴリースを持ってきたり、こっちの西大陸じゃあ国ひとつに訪れる災いを収める為に神器を与えたりと、女神ってのはとことん気まぐれなんだろうか?
「それはいいさ、問題なのはさ、なんでジロがそこまでの仰々しいやつを、あの場で咄嗟に生み出せたんだって話だよ」
『わかんねえ。ただ俺は、アリシアを…今はナナと名乗るそいつをどうにか抑え込む力が必要だと願った、それをイメージした途端に
内側から吐き出されるように神器が出てきたんだよ』
「必要になったから生み出した…か、まるで神のようだな」
マリアが少しばかり納得のできなさそうな表情で俺を睨みつける。
ルドルフに関しては俯いて考え込む
「しかし、聞いていると、ジロという魔剣の中には幾つもの属性の魔力を備えていると話の中で聞くかぎりはそう解釈できた。それならば神に近しい事も不可能では無いとは思う」
『本当はそうなんだが、どうやらそれを女神が許してはくれなかったようだ。ニドから多くの魔術情報を吸い込んだ瞬間、時が止まってあいつが顕れた。
そんで闇魔術系統だけを使えないように封じ込められた』
「女神と会ってるなんて平然と言いのける時点であんたの言ってる事もあんた自身も、とんでもないって自覚あるの?」
よくよく考えれば、こんな話を真正面からするのは今回が初めてな気がする。
何人かに言った気がするが、結構な確率で聞き流されているようでもあったからな
いや、そもそもが身の回りの連中が普通じゃなかったって事には違いないんだろう
「本当にそうであるならば、君は、この世界において最も重要な役割を担っているのかもしれない。…ふふ」
『なんで笑ってんだよ、ルドルフ』
「いやなにさ…もしかすると私は、私の信じていた神よりももっと身近な真実に、必要とされていたのではないか。そう思うと、君に唆された事にも、こうして今生きながらえている事にも何かを見出せそうな気がしてならないのさ。ああ、忘れていたのだよ。神になんかじゃない。自身が信じるべきものをさ」
『そりゃあ、何よりさ。すまないね、そのきっかけがこんなにもただの人間がつっこまれたただの喋る剣でさ』
「あまり謙遜しないでいいんだよ。何も君が神に等しい力を持っているのが重要なんじゃない。持っている者があまりにも人間だった事の方が、私には新しく、色濃く、何よりも趣があると思えるのだよ。特に、君のようなお人好しの人間ならなおさらだ」
『ふーん…そんなもんかねぇ』
俺は少々照れくさそうにアルメンの杭をカチャカチャと動かしながら誤魔化す。
自分が良かれと思ってやった。ただそれだけなんだと、ルドルフにはあんだけの厳しい言葉を掛けていながら
本人からそんな風に言われると、嬉しい気持ちと同時に
あんな風に言ってしまった事への罪悪感も感じてしまう。
そうだ、生きていく中で死ぬまで世界も人の心も動き続ける。
全てをしれば、その場で感じる真実はいつか覆される。考え直す機会が必ず生まれる。
きっとそうやってより良い方向に人は進んでいくのだと思った…そう思いながら、カチャカチャと今の気持ちを誤魔化すようにアルメンの鎖でヘルヘイムに絡みつく。
「なんだお前、何してんだ?」
『い、いや?なんでも???』
「なんもないわけないだろ。そんなに絡みついて、ナメクジの交尾みたいだぞ」
マリア、お前からそんな例え話が出てくる方が意外だよ
「あなたからそんな例え話が出るなんて意外ねマリア」
「えっ」
リアナも同じ事考えていたと思うと安心する。完全に代弁者だ。
「安心して、パパは少しルドルフに褒められて照れてんだよ」
『違うよ』
「嘘つき」
『違うもん』
「うそふぁっくやめなよ」
『なんだようそふぁっくって。いみわかんねーよ。』
「いやいや…ジロ、アリシ、もういいって」
―ドクン
『んぐっ!?』
魂を揺さぶられる感覚。これは…?
―<ネフィリムアカウント>の取得
―<ダークプリズム>の取得
―<レイジングアルカナ>の取得
―<イクス:ドミネーター>の取得
己の内側で何かがカチカチと組み立てられる感覚。それに…この取得した能力“ネフィリムアカウント”には聞き覚えがある
それ意外に関しては全く知るものではない。
「どうした?ジロ」
心配そうに覗き込むルドルフ。
『いや…大丈夫だ…―』
本当にどういうつもりだ。ナナ――
…くそっ、その名前を呼ぶだけで押さえ込んでいたはずの苦しみが、罪悪感が内側でどんどんと叩くようだった。
「まぁ、一通りの事情はわかったわ。けれど、マルクト王の謁見ねぇ。少しばかり時間が掛かるかもしれないわね。ナナって子からの言葉を信じても行くべきかどうか…」
「かまわない。そんな事、後回しにして行くべきだろ」
「まぁ、確かに。今は速やかな依頼と魔業商の殲滅を優先するべきだとおもうがね。ジロはどう思う?」
『俺は―…』
確かにそうだ。今ある依頼を先に終わらせる方が重要である。
しかし、この迷える選択の中で
どうしてか、あの髑髏騎士の顔がちらほらと脳裏に映り込む。
かつての英雄だった彼の後悔…それが何処から来ているのかを考えると…どうしても
『俺は行くべきだとは思う。今までに俺はこうやっ色んなものに触れて、色々な所から一つ一つ手繰り寄せるようにヒントを貰ってきた気がする。今ここで重要なものを見落とせば後悔する事だってある。…それに、多分あいつらからは何かする事はまだ無い…と思う』
「ほう、そこまで言うのなら、根拠があるのだろう?」
『…この話を聞くのも初めての奴がいるとは思うが、俺はギルド本部に行く前に髑髏の騎士、アイオーンと会った。奴はやたらとヘイゼルに執着していた。そして、ヘイゼル自身にもそれについて質問をした。どうやら、あのヤクシャは厄災でありながら俺たちにヘイゼルを救う未来を託していると聞く。ヘイゼルを救えなかった未来は、彼女が世界の敵となって世界を終わらせる事らしい』
その言葉を聞いて、皆が一斉に沈黙する。
「おいおい、依頼には無い内容なんだが?」
「そうね、“世界の終わり”なんて…それは…急に言われても私たちにどうこう出来るものなの?」
流石に予想を遥かに超えた事実に、リアナもガーネットも戸惑いを隠せない。
だが、今ここで言わなければ、きっと心に掛かる重荷がいざという時に判断を鈍らせてしまうかもしれない。
だが、正直この後出しには俺も罪悪感を感じてしまう。
「ふん、何を今更。貴様らが死ねば世界も何も無かろうに。人は、死んだ後に詫びる事なんて出来ん。出来たとして、それは所詮…今際の際でしかない。ならば、己は死なず、相手を死なす。至極単純な話だろ」
マリアの言う事は極論だし、なんか怖いし
「それもそうだろうね。命を掛けて行う以上どんな依頼でも変わりない。何よりも、今の私には彼が託された意味を知りたいと思っている。」
ルドルフもやんわりとそう答える。
「…まぁ、私もどうせ軍に追われる身だ。それでお前んトコに乗っかった以上、これ以上なにも言うつもりはねーよ」
そう言いながらもため息をつくガーネット。
「…そうね。どのみち、前に進まなきゃいけないのなら仕方のない事。いいわ。私だってあなた達の事が気になってしょうがないんだもの」
『みんな、ありがとう』
「話を戻すが、あの少女…ヘイゼルと言ったか?あの子がどうこうされなければ奴は未だ何かをする事は無い。そう言いたいのだろう?」
『そうだ。だからこそ、時間が多少掛かったとしても、マルクト王に謁見して、この神器に関して何かのヒントを貰えればと思っている』
「わかったわ。それなら、私から王の謁見を取り次いでみる。一応マルクト王国には顔が通ってるの。先代の王から色々とね」
『リアナ。お前、意外と顔が広いんだな。そんなナリして』
「失礼ね。忘れたの?こう見えてもう年齢は三桁なのよ?」
そうだった。こいつ、エルフだった。そりゃあそんな途方も無い年月がありゃあ守人として色んな場所に出向く事もあるだろうよ。
「話は決まったようだね。それなら、一先ずは…ん?」
『うわっ』
話し込んでいる間、いつのまにかアリシアの脇に置かれている空の皿がルドルフの肩までの高さに達していた。
「ん、話おわったの?」
なんて事ない顔して口をモグモグとさせるアリシア。正直その量には引くわ。
しかも、店員さん呼んで追加注文しようとしているし
アリシアの呼びかけに気づいた店員がこちらを向く。
「っあーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
急に出た大声に、皆がみなその方向に視線を向ける。
「あんたは!あの時のっ!!」
褐色の肌で碧眼。アリシアと同じくらいの年頃の子供。
ラフな格好の上から酒場のウェイトレスが付けてる専用のエプロンを腰に巻いていた。
…こんな小さな子供がこんな時間に宿屋の、しかも酒場で働いているのか。
彼女の視線は真っ直ぐにマリアの方へと向けていた。
「むっ…どこかで?」
褐色の少女はそそくさと両手に持っていた注文された酒を客の卓にトントコと乗せて
ぼんを抱き抱えたまま近づいてくる。
「あ…あの、あのっ…!あの時は本当にありがとうございました!!!」
少女は勢いよく、そして深々と頭を下げる。
「なっ…どうしたというのだ!?私がなにをっ―?」
顔を上げた少女はその時を思い出したのか、瞳に涙を溜めてマリアを見る。
その様子にはいくら強面のマリアも頭を後ろに下げてぎょっとする。
「あんた様が、あの時くれた金貨…あのおかげでウチの母ちゃんの病を治す薬が買えました!!本当にありがとう…ありがとうございましたっ」
ああ…
俺はマリアの記憶から思い出して推測する。
どうやら、マリアが急いで渡した金貨。あれが彼女にとって、彼女の母にとっての大きな救いになったのだろう。
「ウチ、元々貧乏で。ここの宿の店主に都合してもらって働いてたんです。でも、一緒に働いていた母ちゃんが病で倒れるし、それでも日銭を稼がないと思ってやってきました。でも、母ちゃんの病気を治す薬だけはどうしても届かなくて…良くしてもらった店主にも迷惑かけられなくて…その…本当に…ありがとうございました!!このお金はいつか絶対に返しますっ…あんたがここに来てくれるなら精一杯もてなします!だからもう少しまってください」
「…」
マリアは考え込み、ようやく思い出したのか。
ふぅとため息をついて席を立ち少女に近づくと頭を撫で始める。
「言った筈だ。それはお前がこの場所で私を起こしてくれた礼だと。それに、私が長々と眠っている間に馬の世話も良くしてもらっていた。あれはお前が受け取って当然のものなんだ。」
「で、でも…」
「お前の母は今も元気か?」
「は、はいっ!おかげ様で」
「そうか。なら、これからも大切にしてやれよ」
「は、はいっ!ありがとうございます!あの…」
「マリアだマリア・ホプキンス。すまないな。本当は礼をしに伺うのは私の方からなのに」
「い、いえ!滅相もない!私はアウラ。アウラ・バスカヴィルと申します!いつか、必ず、マリアさんへのこの恩は何かの形にしてお返し致します!」
――暫くして、俺たちは宿で各々の部屋で一晩を過ごす。
『なぁ、ヘイゼル』
俺は一室のベッドの横で立てかけられていた。
たらふく食って眠るアリシアを横で座って見守るヘイゼルに俺は聞く。
「何?」
『おまえと、お前の中にいる“ヘイゼル”は本当に別ものなのか?』
こんな質問を何故急にしてしまったのだろう。
…いや、理由はわかっている。ナナと呼ばれるもうひとつのアリシアの存在を目の当たりにしてしまったからだろう。
「…ワタシはそう思いたい。ワタシにはワタシだけの自分があると、そう願う。願うことしか出来ない」
『そんなわけないさ』
「そう」
『そう思えるヘイゼルを俺は知った。そしてお前と過ごした日々の記憶がそれに繋がるからこそ、俺もヘイゼルはヘイゼルであって欲しいと思う』
「うん」
最近気づく。彼女には…ほんの少しだけどやんわりと表情の変化がある。
「でも、“ヘイゼル”を嫌いにならないで。彼女はワタシを救ってくれた。」
『そんなつもりはないよ』
「聖女の中で記憶の残滓として一番大きい彼女は…会いたがっている。あの人に」
『うん』
「彼女は…かのじょもずっと後悔していた。彼の全てを奪う事に」
それは、アイオーンが経験した世界の終わりの事を指すのだろう。
その点に関して不明瞭な部分が多いが、この世界はきっと彼にとって二度目の結末になりうるのだろう―
…どれくらい経ったのだろう。意識が飲み込まれた闇の中から這い上がるように
正面から光が差し込まれる。
「ご主人、おきてください。もう時間ですよ?」
レペロペロ…
わかったって。今起きるから待ってくれって…ん?
『レペロペロ?』
ファサァ…
『ふぁさぁ?』
どうやら今は朝なのだろう。聴き慣れた小鳥の囀りが聞こえる。
そして、開けた視界にはナゼがモフモフとしたものが大きく左右に揺れていた。
んだよ、犬の尻尾か?
…そういえば、確かこの宿の入口には放し飼いにされていた番犬がいたな。
それはとてもとても利口な犬だった。来客にはしっかりと愛想を振りまいて、それでいて小さな虫一匹でも入れば
騒ぎにならない程度にひとつ咆哮して追い返していたものだ。
そんな宿で飼われてた犬が入り込んできたのか?
それとも、犬が起こしに来るサービスでもやっているのか?
「わんわんっ!」
おー、窓の外からちゃんと吠えているなぁ。相変わらずしっかりもの―…
「ご主人。まだ寝ぼけてるんですか?」
いやまて。
窓の外でその犬が吠えているのは確かだ。
…じゃあ、この視界に覗き込んでくるエメラルドと白の毛並みのこいつは?なに?
『いやいやいやいやまてって。そもそも』
「どうしました?」
どうしましたじゃねえよ。犬がしゃべってるんだよ。
いや、確かにこんな毛並みの犬とかしらねーから犬かわからねぇけど、なんでこの場所に入り込んでいるんだよ。
喋る犬が。しゃべるいぬが、シャベル=イヌガー
『あ、あの…どちら様ですか?それに俺のことご主人って』
「え?認知されてなかった?え…あの、自分、随分とコキ使われてた気がするんですケド…え?」
『え?…え?』
喋る犬と、喋る剣が、互いに沈黙の間を作り出す。
「んー…。どうしたの?パパ。パパから起きるなんてめずらし…え?」
隣で寝ていたアリシアも俺たちのやりとりに目を覚ます。
確かに、俺はどっちかといえばアリシアより後に目が覚める事のが多かったな
って違うわ。アリシアも目が覚めて早々に目が「?」になっているだろうがっ
『アリシアも知らないのか?』
「え、う…うん。ルームサービス的な?」
『そう思うよね?』
「違いますよ…僕、ぼくですよ」
『いいや。駄目だ。もったいぶってないで言うんだ。そんな犬俺は見た事ないぞ』
「私も」
「犬?え、犬って?僕が?」
喋る犬はそういわれるやいなや、近くの鏡にトトっと近寄る。
そして自分の姿を見る。
「おわぁあああああああああああああああああああああああああああああっ!?犬!?犬になっている!?なに!?犬?!」
『オイイイイイイイイ!!!!お前自身もしらねえのかよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
あまりに驚いたのかジタバタと騒ぐ謎の喋る犬。
しかし、そのジタバタと動く体に合わせてそれは聞こえる。
チャラチャラ、と。それは鎖の音だ。聴き馴染んだアルメンの。
その犬に目を凝らしてみると、そいつはアルメンの鎖で繋がれていた。
もっといえば、杭となる部分が…その犬になっているのだ。
『まさか…お前、アルメン?』
「え…あ、ハイ!というか漸くですか!!?」
『いや、だって、お前…杭だったし…』
「それは僕が一番驚きですよ!!なんですか!!この姿は!また何か“取り込んだ”んですか!?」
取り込んだ…? い、いや、まあいい
『そもそも、お前、ずっと喋らなかったじゃねえか!!!』
「…え?」
『ずっとお前、ひとっことも喋らないし無言だったじゃん』
「……嘘、もしかして…僕、ずっと独りで喋ってたんですか?」
『え?』
「なんか時折おかしいと思ってたんですよ。僕が喋っている時に会話に割って入ってくる人がいるし。僕が話しかけても返事しない時もあったなって!!」
こいつ、ずっと…自分の声ミュートされてたんか!?
『い、いつからよ』
「ご主人様が僕と禊を交わしてくれた時からです…僕、あのクソゴミカス鍛冶師にこんな姿にされて、一生奴を恨みながら装備人生を過ごそうとしていたのが、ご主人様の魔力と出会って、僕は一生付いて行くと決めていたのに。僕の言葉…何一つ届いていなかったんですか!?」
メイ…なんかスマン。お前、知らないうちにアルメンにきっと今の今までボロカスに言われていたと思う。
そしてずっと独りで喋っていたこいつがなんかいたたまれなくなってきた。
『な…なんとなく状況はわかったよ。お前も色々と大変だったんだな…』
くぅーん、と項垂れるアルメン。…しかし、正体を知るとなれば
なんか不思議と愛着も湧いてくる。
『いつもありがとうな。お前も色々と俺たちに突き合わせて』
「なにを言いますか!僕にとってご主人様(魔力)は最高の餌…もとい最高のあるじですよ!!」
かっこまりょくとかいちいち言わなくていいからな?いいからな?
アルメンを労うと、彼(?)は張り切ってトトと回り込み隣のベッドで眠るマリアを起こしに行く。
というかやっぱこいつぐっすり寝てるな。これも蘇生の代償になるのか?
「まかしてください!僕がいまマリアさんを―」
と、眠るマリアの上に乗っかりペロペロと顔を舐める。
…まぁ、起こしてくれるのは確かに便利だな。
あ
「ぴぎゅ」
マリアの上に乗っていたアルメンが急にマリアの両腕にがっちりとホールドされる。
「ん~、モフモフ」
俺とアリシアは唐突に漏れたマリアの寝言にイナズマを走らせる。
あれ、彼女…そんなキャラだっけ?
「おばあちゃん…」
「ぎぎ…ぴぎっ」
しかし、マリアに抱きしめられているアルメンの様子がおかしい。
つか。藻掻いている…?
『やべえ!!アリシア!!引き剥がせっ!あいつ!このままだとサバ折りされるぞ!!』
この馬鹿力!!!!!
「おばあちゃん!起きて!!起きて手を離して!!!」
口から泡を吹き始めるアルメンの異変に気づきアリシアがマリアの頬をなんどかぺちぺちと叩いて起こそうとする。
だが、未だマリアは目が覚めず、抱き“絞める”手を緩めない。
『マリア!!目を覚ませ!!ばかやろおおおおお』
「おばあちゃん!?おばあちゃん起きて!!」
「ご…ご主人様…。」
『アルメン!』
「ぼ、僕…みんなと旅が出来て…良かったです…」
『アルメン!!』
「今まで、ちゃんと会話できてなかった事を知って寂しかった部分もありましたが」
『アルメン!!!』
「僕は、幸せでした…いままで…ありがとう‥」
『アルメーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!』
「いや、なんの騒ぎこれ」
途中から入ってきたリアナになんとかしてもらった。