98:常闇の姫君
「私はね、パンケーキの真理の探究者なんだよ」
『うん』
「パパ。私の魂はね、きっと心の中にある。でもそれが一体どこにあるかなんてきっと誰もわかりはしないの。
自分の魂の在り処…それを確かめるにはどうすればいいか、それはこの世で愛したものの温もりに触れる事だと思う。
その時に触れた時の心地良さ。その良さを好さに還元するその一瞬こそが自身の魂を確かめられるの。人は魂の有無にこだわる。
それは己の意識があって、生命の躍動をこの身で感じる限り、生きている限り求め続ける起源からの永劫なる課題だと思うの。つまりパンケーキが私の魂と触れ合うにはあんな小ささじゃ足りないの。この身に余るほどの量を全身に受け止める事でその瞬間迸る火花のような意識と魂との邂逅を成すべきなの。」
『うん、何言ってるのか全然わからねーや』
「ふぁっく!パパのふぁっく!よくも私のよくぼ…目標を邪魔したわね!!」
『うるせぇ!むざむざゲオルグ鱗貨なんて高価なもので屋敷サイズのパンケーキを作らせるわけねぇだろぉが!!この馬鹿!!』
「馬鹿?今馬鹿って言った?馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだよ!ふぁーっく!!」
中指を立てるアリシア、とてつもなく行儀が悪い。言葉遣いも悪い。
『馬鹿な娘を馬鹿と言ってなにがわるい!見てみろ!マリアはもはや匙を投げるように外の景色を眺めているぞ!!』
アルメンの杭をチャラチャラと鳴らしながら矢印代わりにしてマリアを指す。
「あ、ああ…好きに言い合って構わないぞ」
一瞥してそれだけ言うマリア。
『ほら見た事か!あんなにお前の事を想って俺の事ボコボコに殴ってた孫馬鹿だったマリアもまるで擁護しきれてないんだぞ!!お前のパンケーキへの執着はもはや病気だ!すごいぞ!いい加減にしときなさい!』
「ジロ、高ぶってるせいか後半名に言ってるのかわらないぞ」
ゲオルグ鱗貨を巡るアリシアとの言い合い。
飛び交う罵詈雑言。
外で見える景色は完全に真っ暗な夜。
脇であわあわと困っているネルケとため息をつきながら俺達を制するルドルフ。そしてマリア。
そんな俺達を運んでいるのはリアナが手際よく用意してくれた馬車だった。
運転手は大きな声を耳にする度に心配そうに荷台の中を覗き込んできた。
他の連中はもう二つの別の馬車に乗っており、計3台の馬車が連なるようにエインズを発ち
西大陸の入口。大橋を抜けた先のマルクト王国へと向かっていた。
僅かな燈を頼りにしながら、だだっ広い草原を駆け抜け、暫くしてからチラホラと民家、そして街並みが見えて来る。
「…」
『…』
「…」
「…」
初っ端からこんな空気だ。
俺とアリシアは言うだけいって互いに黙るとすぐに空気は沈黙した。
いや、もっと話す事色々あったんじゃねぇか…?
今は他に誰も言葉を交わさずにカラカラと回る馬車の車輪の音と
馬の地を蹴る音、そして少し揺れる度に荷台の灯がチカチカと小さく明滅して鳴る音だけだった。
「あ、えーっと…その。そろそろ大橋に入るみたいですね!」
「あ…ああ、そのようだね。そうなるとここは南大陸の端にある街。南大陸の西側の窓口、港町エルネスタになるかな。実は私も西大陸から出た事が無くてね、大陸と大陸を繋ぐ大橋なんてものを見るのは初めてなのだよ」
沈黙を破ったのはネルケだった。そしてそんな話題に乗っかって来るルドルフ。
『そっか、ルドルフは西大陸でだけ過ごしてたんだよな』
「そうだね。あのような化け物になってた時にこの道を通った記憶はあるが、やはり“人”として見るのはこれが初めてになる。それも外側から入るなんて…これまた数奇な話だよ全く」
本当に不思議な事だ。
こんな優しそうな大男が、数日前までは人を喰らう道化師の姿をして俺たちを殺そうとしていたのだからな。
『なぁ、ルドルフ。ひとつ聞いていいか?』
「何かね?」
『アルス・マグナってのは…一体なんなんだ?』
その質問にマリアがピクリと反応する。
『その魔術は人の命を生き返らせる事が出来るものなのか?』
ルドルフはその質問にふと言葉を詰まらせる。
きっと選んでいるのだ。これから説明する言葉を
「…そう、本来は有り得ないもの。アルス・マグナなんて言葉はあるものの、常軌を逸脱した代償がある故に、禁忌であり、
ある種の奇跡に近いものなのだよ。きっと誰も試す事は無いでしょう。本当であればそんな事をしてしまえば当人の命すら失われてしまう可能性がある。
もしそうであるならば、蘇生させた存在が居たとしても、望んだ者が居なければ可能かどうかなんて語り継がれる事も曖昧になるもの。それを証明する人が居ないのだから。しかし、術として伝承されているという事は、確かにその方法自体は存在するという事。」
『代償ってのはやっぱり』
「…膨大な魔力です。それも規格外な量です。竜殺し数百匹に匹敵するものですがそのような無謀な行為をする者など居るわけがないでしょうに。」
『確かにな』
いや、すぐ隣にいるか…
「しかし、人の魂を媒体にするなら話は別だ。魔物を殺して魔力を吸う数よりは確かに少ないが、現状、人の魂を媒体に魔力を生み出す行為自体、禁忌とされているので、それ以上の研究というものは本来は不可能。それによる情報の全ても全て抹消されています。もし、もしもそのような禁忌を冒すアルス・マグナを研究するのならば、すべて1から始めなければならない程にね。」
『まてよ、でもそれなら徒党を組んで規格外の魔力を魔物から奪ってアルス・マグナを発動させればいいんじゃないのか?』
「そもそも、その規格外の魔力を保持する為の器が存在しないのですよ。あなたのような魔剣のような器がね。しかし、魔剣という器があるからといって所有者がアルス・マグナの条件を満たすまでに無事で済むとは限りません。…他には自身の魂に取り込むという手もありますが、そもそも自身の魂以上の魔力を取り込む時点で人は精神から外部の魔力に侵されて自我を失ってしまうものなのです。故に禁忌として扱われている。」
『そうか、魔力を入れる器…だから天使の需要がそこで生まれるのか』
「…本来、魔力というものは、人間が生まれた時から現在に至るまでに獲得した情報が魂という器に纏わりついて、その摩擦によって生まれたエネルギーの事を指します。天使の血縁者というのは情報を獲得してもそれによる摩擦が生まれない程に十分に大きな器ががある。つまりは何もないまま大量の魔力を消費する事なく蓄積させたままで保つ事が出来る。つまり膨大な魔力を入れるには良い器となるのです」
「…かつてレメゲトンはその事実を知り、天使を人間に堕とす事で大きな魔力貯蔵庫を作ろうと目論んでいた。ま、失敗に終わったがな」
「あなたは…そうか。思う以上に若々しい姿をしているのに、あなたもその世代の一人なのか」
「そうさ。彼の大犯罪者と言われていた男、ヴェン・マッカートニーがそこな魔剣で禁忌を行使した。それによって生きながらえたのが私だよ。十年もの間、無駄な時間を過ごしていたがな」
「あなたも…そうか…それは、さぞ辛かったでしょうに」
「ふん、同情なんていらないさ。今は目的の為にするべき事をするだけだ。この魔剣の監視者としてな」
『うっ…ちくちくと言うなぁ』
馬車は既に大橋を渡り始めていた。
外から見る景色。不思議にも、橋の向こうの景色は暗い暗い夜空と黒い海だけだと思っていた。
けれども、意外にも月が海面を乗るような非現実的な景色に、眩く光る色鮮やかな星々。
その全てが俺にとっては美しく、幻想的な光景であると同時に、どこか切なくも感じた。
果てしなき先を見るのみが果て。そんなふうに思ってしまっていた。
「…」
「…」
「…」
『…』
まぁた、沈黙かよ…。
いよいよネルケも気が滅入っちゃってるぞ。
アリシアも未だにむくれている。つか俺と視線を合わせる度にメンチきって中指たててる。
さすがにアリシアがこの様子じゃあ他もこんな感じになっちまう。
いや、確かに?俺も言い過ぎたって部分はあるさ?あるさ?
だが…すぐに謝るってのも難しいところだ。
いや、まてまてまて…なんで俺が謝る?俺が悪いのか?違うだろ
ああリンド、助けてくれ…
「―っ…!」
「おい」
「ええ」
ネルケ、マリア、ルドルフの3人が各々でピクリと反応する。
そしてそれに追いかけるように俺もアリシアも気づいた。
これは…魔力、否
魔物の気配だ。それも物凄い大きな…
…だが気づいた時には遅かった。
一瞬だ。一瞬で静寂を塗り替える程のバサバサと騒がしい羽音がする。
それは音だけでは無く視界さえも、黒く塗りつぶしていくようだ。
大量の魔物の鳥…こいつは
「“ウオガラシ”だ。夜になると橋の下に幾つもの群れが集まって魚を根こそぎ食べつくす、漁師の天敵だ、だが本来は人間に対しては攻撃するような事はしない。なのに…何故」
『おいおい、ならなんで橋の下からこんなにも俺たちの馬車を囲うように飛んでいやがる』
「いや、私たちを囲っているわけではないようだね。どうやら…“逃げている”みたいだ」
ようくみると、大量のウオガラシは皆、俺たちの馬車を囲うでもなく、追い抜くように飛んで行っている。
『逃げているって何から―…』
俺はハッとする。
この…ものすごい大きな魔力は、この鳥のものじゃない
もっと大きいものだ…
この感覚には覚えがある。いや、あるが…不安定だ。
俺とアリシアは目を合わせて互いに何を思っていたのか理解する。
アリシアは俺を握り締めて、窓の外へ俺にも見えるようにしながら頭を出す。
ウオガラシは既に俺たちの馬車を追い抜いて黒いもやのように群れを成して去っていく。
問題は振り返った先…いや、もう俺たちの真上で影を落として
飛んでいる。
その姿は正に巨大。
かつてアルヴガルズへと向かう途中で訪れた東大陸の港町。
そこで人外としての有り様を全身全霊で奮った猛威の存在。
すぐに目に入るのは大きく渦を巻いた双角、羽ばたく翼が風を追いやり重い空気をこちらに叩きつけてくる。
まさに『知恵持ちの竜』。魔王竜ニーズヘッグその姿に違いなかった。
『この野郎っ!今更になってなんの用だってんだ!!』
「ニーズヘッグ…!ジロたちはあれと関係者なのかね!?」
「ニーズヘッグのおじさま!?おじさまがどうしてここに!?」
だが、違和感を感じていた。
奴は確かにニーズヘッグの姿をしている、が
その魔力の感覚は…あの時咄嗟にヘルヘイムで封印した“もうひとつのアリシア”だった
『まさか、アリシアが…食われたのか?』
知らない人であれば不可解な発言に、アリシア以外の皆が困惑する中
マリアが身を乗り出して俺に問う
「食われた?食われただと!?アリシアは確かに、ここに居るぞ!どういう事か説明しろ!!」
『わかってる!だが、すまねえ!説明は後だ!おっちゃん!そのまま速度を落とさずに走り抜けてくれ!死にたくなかったらな!!』
「え、え?あ…はいっ!!」
何をするつもりかわからねぇが。
今は話している場合じゃねえ
俺はそのまま前の馬車二つに視線を向ける、するとリアナがこちらに頭を向けて叫ぶ。
「ジロ!!アリシア!馬車を風精霊で加速させるわ!でも、馬たちが耐えられる程度よ!あとはそっちで何とかして頂戴!!」
俺の代わりにアリシアが大きく手を振って返事をする。
すると、緑色の魔力が馬車を纏い、途端に周囲の景色を見送る速度が徐々に早まっていく
『おっちゃんも、振り落とされないように気をつけてくれ!!』
「はっはいいいいいいいいいっ!」
しかし、今の今に至るまで奴はなんにもしてこない。
ただ、俺たち馬車の真上を羽ばたいているだけだ、なにが目的なんだ?
「ジロ!どうするつもりなのだ!?」
『ちょっと待ってくれ!奴の出方を伺いたい!』
「そんな悠長なこと言ってられるものか!」
「ここは私が」
『ルドルフ!何をするつもりだ』
「なに、少しばかり灸をすえる程度さ」
冷静なルドルフは椅子に座ったまま、右手の平を上に向ける。
すると、そこに渦を巻くように魔力が集中していくのを感じる。
「“天抗いしは翼”“汝”“裁きし者は塔の頂き”“下すはいし”」
ルドルフは詠唱と共に手のひらに集めた魔力を強く握り締める。
「“重力抑制”」
紫紺の魔力が破裂すると同時に、真上でゴウンと大きな音がする。
するとニーズヘッグの飛行する体制が大きく崩れると共に飛行速度の勢いを弱めていく。
加速している馬の疾さも相まって、どんどんと距離を取ることが出来ている。
「重力操作の魔術さ。これで暫くあの竜の背中には通常の倍の重さが乗っかっている。これなら後方にいる奴の様子が見やすいだろ」
『ハッ、そりゃあいい!』
「あっ!おい!!」
俺とアリシアはすぐさま馬車の上に乗っかり、後ろから強い風を当てられながら正面の巨大な竜に目を凝らす
『…やっぱ、違う』
「ええそうね」
竜と目線が合う。その瞳からも伺える。
以前戦った際のニーズヘッグの、あの好戦的な眼光、それがこの目前の竜には感じられないのだ。
だが、これだけは解った。
重力魔術を食らっても尚、崩れない表情。
そう、この竜は笑っている。
ただでさえ裂けて開いた口を一広角を上げ、目の下を皺を寄せて盛り上げながら笑っているのだ。
あの時の“攻撃的なアリシア”と同じだ。
「ソウダヨ」
『っ!?』
「いけない!パパ下がっ―」
刹那、視界が暗くなった。
微かな光を灯す夜の大橋を、覆う夜空が疾走するように大きな闇が覆い尽くした。
その瞬間はまるで時が止まっているように思えた。
「安心してよ、これで今だけはこの空間は僕とアリシア、そしてパパだけの居場所になっているから。他の人たちはダーレもこのやり取りを認識出来ない」
「なっ!?あんた」
『えっ―』
コトと、小さな足音と共に
覆われた闇が瞬くように消えた。
「ようやく“僕”と“目を合わせてくれた”ね。ぱーぱっ」
ニコリとした表情も懐かしい。
俺の理解力は限界へと到達した。
どういう事なのかさっぱりだ。
目前の巨大な竜は瞬く闇から姿を消し、その代わりに俺とアリシアと同じ場所、すぐ目前で
その娘は敢然と立っていた。
かつて聴き馴染んだその声で
お、俺をパパと呼んで…
『そんな…どうして…』
ツインテールに結われた長い黒髪。根元には煌びやかな金の装飾が竜の角を模したようにかざられている。
釣り上がる口角から、ギザギザの歯を覗かせ
貫くように凝視する瞳は真紅だった。
全身をまっくろなワンピースで纏い、首には赤いリボンを巻きつけている。
身長は小さく、まさにアリシアと同じ程度だ
だが、そんな事以上に気に障るのは…
目前にいるのは確かに、俺の娘である「奈々美」の顔をしていた「何か」だった。
その子はその手に自身の身長をゆうに上回る金色の錫杖…神器ヘルヘイムを握っている。
どういう事だ
ニーズヘッグの竜が、あの時のアリシアで…目の前にいるのは、奈々美だ…
どういう事なんだどういう事なんだどういう事なんだ
俺はっ―
「パパ、落ち着いて…騙されないで」
奈々美、どうして
「パパッ!!!!!!!!!」
俺のブレる思考を上書きするようにアリシアがそう言った。
魔剣を強く握り締めるアリシア。
俺は視界が少し揺れているのを感じる
―アリシア…怖いのか?
彼女は向かいにいる少女から目を離そうとしない。
だが、彼女奥歯を噛み締めながら小刻みに震えていた。
「怖い?そう、そうだよね…アリシアは久しぶりに見るもんね。この空間を」
そう、アリシアは恐れていたんだ。
この瞬間がどれほどまでに彼女にとって忌々しい記憶だったのか。
この闇を彼女は直視出来ないでいる。
「確かにアリシアには残っているんだもんね。あんなに歩き続けた闇の場所での記憶」
「…興味ない」
だが、彼女は眉間を歪ませて視線を動かそうとしない
…そうだ。こういう時こそ…俺は冷静にならないと。
俺は思い出す。
アルヴガルズから変えるときに触れたヘルヘイムの水晶の欠片。
そこには奈々美の姿をした奴がいた。
だが、あの子は自分の事を僕とは言わない。
落ち着け
落ち着け…
「ねぇ、騙すなんて言い方はひどいもんだよ?アリシア」
やめろ…その顔で、その声で話しかけてくるな
『あのドラゴンは、お前、なのか??』
「んふ。そうだよ。“要らないモノ”っていうから僕が貰っちゃった」
『それはっ、おまえがニーズヘッグを食らったっていう事なのか!?』
「いやいや、食べはしないよ。ま…飲み込みはしたけどねっ」
広角を上げて歯を見せるそいつはゆっくりと近づいてくる。
「アリシアが僕を要らないモノだと思ったように、パパが“この子の記憶”を手放したように、吸い込んだイヴリースの魔力を使うアテも無く放置したように、フレスヴェルグがニーズヘッグは不要と断定したから、僕が飲み込んで貰っちゃった。だって僕はそれらが全部欲しいんだもん。要らない僕と違って、何者かになれる君たちが、誰かに必要とされる君たちが羨ましくて羨ましくて堪らなかった。欲しかった。望んでいた、求めていた。“誰かに”なる事を―」
彼女は恍惚として自身の腕で己を抱く。
言っている事に既視感があった。それは“何者”かになりたいと願った死体人形。そうヘイゼルの望みと同じなのだ。
『―違う、お前を俺は見捨てるつもりは無かった。探したけど、見つける事が出来なかった』
そんな言い訳を言う自分が苦しく感じる。
「それこそ違う、違うよパパ。必要なものは側にあってこそ必要とされるんだよ。結局はパパが言っているそれは必要だったものでしかない。必要だが見つからなくてやむなく手放したもの…それが要らないモノとなにが違うの?」
『…』
返す言葉を見つける事ができない。
何よりも、彼女の姿のせいで思考がまともではいられない。
「でもね、だからこそ感謝しているんだ。不要であるからこそ、僕は僕としての自由を得た。僕が何者であるかを知れる権利を得た」
「あんたは…一体なにがしたいの?今まで隠れてたくせに、今になってノコノコと現れてっ」
「そこれこそたまたまだよ。大橋でウオガラシの群れを『飲み込もう』としたらパパたちが居た。偶然と言ってもいい。もっと高尚に言うなら…そう、運命だよ」
『運命だと…おまえが、その姿で…口にするんじゃねぇ!』
「…それ、嫌だな」
奈々美の顔をした“それ”は水晶を失ったヘルヘイムの錫杖をこちらに向けて、不機嫌そうに言う。
「おまえ、とかアリシア、とか、奈々美、とか…僕はもうそんな名前じゃない」
カーン、と錫杖で足元を叩き鳴らして奴は声を高らかにして言う。
「覚えて、僕の名はナナ。『ナナ・ナユタル』。知恵持ちの竜であり、差異のヤクシャであり、漆黒の闇を連ねる存在。常闇の姫君それが僕だよ」
彼女は確かに言ったのだ。
知恵持ちの竜
差異のヤクシャ
常闇の姫君
『脳の処理が追いつかん』
「事実だよ?これではっきりしたでしょ?だから僕はパパの娘じゃないんだよ」
『ならなんで俺をそう呼ぶ!!』
「勿論、パパはそれ相応の敬意に値するきっかけある存在だからだよ」
『どうしておまえなんかが差異のヤクシャだっていうんだ。だってそれは―』
「そう、あの出来損ないの死体人形の席さ。でもね、“ママ”が言ってたんだよ。その席が空欄のままでは世界の均衡は保たれないって。
何者にでもなれて、何者でもない僕こそが、相応しいって言ってくれたんだよ」
『ヘイゼルは出来損ないじゃない』
「違うよ。ヤクシャとしては出来損ないさ。あの子は結局繋がりを求めた。自身の担う役割を否定したんだ。」
「ふん、いろいろと御託を並べてるようだけど、私としては清々したわ。こんなのが私であってたまるか。パパには悪いけど、こんなものをいつまでの内側に
飼い続けるのも背負い込むのも、一緒に肩を並べるのもお断りよ」
「ひどい、ひどぉい言いぐさだよ。でも、それでいいんだよ。僕はアリシア、君じゃないんだから」
『―もういい』
話にならない。そもそもこのナナという存在が俺らの前に現れる理由も解らない。
本当にこれが、運命だと語るのか?
『なら…もういいだろ?これ以上俺たちに関わるな。』
「そうだね。僕なんて必要の無い存在。ますます要らなくなってきたでしょ?こんなにも型にハマる事のできない存在なんて、誰だって欲しがらない。
誰だって望まない。だからこそ、僕は何をしてもいいんだよ。それが許されるんだよ。だから、これはパパとアリシアとの最期の挨拶と、僕からのお礼さ」
『お礼だと?』
「フレスヴェルクから聞いてるよ?クラウスって人が世界にジャバウォックを齎そうとしているって」
『ジャバウォックっ!お前たちがなんでそれを知っているんだ!?それにクラウスって…あの―』
ナナはニタリと笑うだけでそれ以上の事は言わない。元々教えるつもりもないのだろう
「ジャバウォック…ねぇ、パパ。素敵じゃない?もし、そんなものが出てきたとして…世界が終わろうとするのなら、そんな“世界”もまた、棄てられるって事だよね?」
その言葉に俺は悪寒が走る。
こいつの言っている事はどこからどこまでが本気なのだろうか?
だが…本当に世界を飲み込むつもりなのか?
「クラウスの目的はね、この世界にジャバウォックという存在が顕れた時、世界がどのように動くのか、ただそれが見たいだけなんだって」
『世界を試すってことなのか?』
「そうとも言えるのかな?そうじゃないかも?」
面白可笑しそうな顔をして、彼女は言った。
そして、手に持つ錫杖をこちらに向けて
「そうそう…卵殻…僕にはもう、使えないものだから返すね」
「これって…ヘルヘイムじゃ…」
向けた錫杖の先は以前と違い、水晶を失っていて輪の中央に何もない。
アリシアがそれを言われるがままに握り締める。
すると、俺の視界がグンと揺れ、アリシアとナナの距離が一気に縮まる。
「あんたっ、なんのつも―」
強引に引き寄せたナナは
不覚にも前のめりになってしまうアリシアをその身で受け、耳元で彼女に囁く。
「マルクト王国の国王に謁見すると良いよ。そこに、この神器の根源がある。それがあれば…あの時と同じ事が出来るかもしれない」
『お前…なんのつもりだ』
「クス、だから言ったじゃん。“お礼”だって。…ねえ、パパはどう思う?ジャバウォックが生まれるとして、それは世界の均衡どころか…全てを一気に覆って無に返す。そんな事…きっと女神様は当然ながら知っているはずなんだよ。でも、パパが全ての属性魔術の行使を可能とした瞬間から以来…一度も出てこない。きっと女神様は知っているのかもね。この先の運命ってものをさ。クスクス――――じゃあね」
彼女の最後の言葉に合わせるように、覆っていた闇が一瞬で走り去り夜空が開かれる。
その後に残っていたのは、数分前までの馬車が走り続ける状況と困惑する仲間たち
そして、アリシアの手元に握り締められていた神器ヘルヘイムだけだった。