死という安らぎからの目醒め
「あうっ!」
目の前で前のめりになって転んだ子供を後ろから抱き上げる。
膝小僧の痛みに顔を強ばらせながらも、「せんせいありがとう」と拙い言葉で頭を私の胸に押し当てる
どうやら泣き顔をごまかしているのだろう。
「ふふ」
私は優しくその子の頭を撫でると、ゆっくりと降ろして「つぎは気をつけるんだぞ」と優しく背中を押す。
その少年は振り返らずに走っていく。
―私の見てきた“現実”には確かに違和感があった。
教会で子供たちとの送ってきた日々。
いつものように井戸に水汲みをしにいく子供を見送って、その間に朝食をカシムとつくる。
料理をするときに台所の窓から入る日差しに煩わしさを感じながら、聖堂の方から聞こえる子供らの楽しげな声や鼻歌を嗜む。
曲げた背中を伸ばして他愛もないこれからの話をする。
台所に貯めた水面にうっすらと映る自分の顔を見る。
かつて国同士の戦争で多くの虐殺と大罪を犯した男の顔だ。
例え澄んだ水に載せられたとしてもこの顔を、自分自身を受け入れる事は出来ないだろう。
だが、その分だけ、私は多くのものを赦せる事が出来る気がする。受け入れることができる。
自分の命を世界のものにする事で私は生かされていく実感を自分で与える。
だからこそ、ジョイ・ダスマンと言われる男は今でもこの子たちの側に居続けられる。
…いつからだろうか
そんないつもの日常に黒い亀裂を、瞬くときに見てしまうようになったのは。
神による罪への罰なのか…違和感を感じながらも、気に掛ける事がなかった。
いや、必要がないのだと、何かが魂に訴えかけていたのだ。
だが、やはり胸がざわついていた。
…いつからだろうか
眺める子供たちが瞬くときに、風に押されたような感覚と合わさって
ただの肉に見えてしまう。まずいのに美味しかったな、と訴えかけてしまう。
私眉間を揉みながら、目を覚まそうとするが、目はちゃんと開いている。
…目を瞑っていることなんてない、無いのに…どこかゆめうつつとなっている。
…そういえば、あの問題児の双子は何処に行ったのだろうか?
そう、名前は確か…アシュレイと、アシュリー
ある日身寄りが無いと言って風変わりな格好で教会に訪れた子だ。
なんでも魔物に妹が襲われたのだと兄が妹を抱き抱えて隻眼で泣きながら入ってきていた。
兄は眼に特殊な疾患を持っていた。それ故か、この世界において少し風変わりな体質になってしまっていた。
妹のほうは、臆病な性格で、常に兄の側を離れなかった。
子供でありながらもこの世界にはあまりに疎すぎる様子で、生まれ故郷の話を何度か聞いても答えてはくれなかった。
そのせいか、他の子達に馴染めず
心を開いてくれる事も無かった。
だが、朝になると二人はいつも教会の女神の像を眺めて何かを話していた。
いずれは二人とも抜け出していなくなるのだと思っていたが、それを追うつもりもない。
私に果たせる責務は、この場所を懸命に生きる子供たちの聖域とし、私が守護者として在り続ける事だ。
…ふと一瞬だが、足元がふらついた。
何故かは解らない。意識が一瞬無くなったのだろうか?
私は隣にいるカシムに袖を引っ張られるまでずっとほうけていたようだ。
あの感覚はなんだ?
自分の足場が、地が無くなったような感覚だった。
「せんせえ?どうしたんだよ」
「いや、なんでもない…」
―もういい
―もうやめてくれ
誰かの声が耳に張り付くように聞こえる。
「カシム、お前なにか言ったのか?」
「はあ?せんせえ、どうしちまったんだよ。…ああ、そうだよな。せんせえもそろそろいい年だ。少しボケる事もあるか」
「年って…おまえなぁ」
「嘘だよ」
カシムは歯を見せて笑いかけてくる。
「きっと疲れてるんだろ?少し横になったほうがいいんじゃないのか?」
「いいや、もう十分寝たさ。たくさんいい夢をみた―」
私は言葉を詰まらせる。
夢?
いい夢?
私は何を言っているんだ?
毎日送る日々でたくさんいい夢を見た?
そんなハズは無い。私はいつもあの悪夢ばかり見続けていた。
それを一体何故、いい夢なんていえるのだ。
…ビキビキとガラスの日々割れる音が聞こえて振り返る。
しかし、振り返った先の窓は変わらず日差しを受け止めるだけでヒビが入る程割れてはいない。
なら、何の音なんだ?
―ヤメロ
―フリムクナ
私は呪詛のような声を耳から拭うように歩き始める。
「って、おい!?先生!?せんせいってば!?どこ行くんだよ!!」
カシムが後ろから私を呼ぶ、しかし追いかける様子が無い。
どうしてだ?何を試されている??私が何をした??
台所を抜け出し、一直線の廊下を歩く足の早さが徐々に早まる。
焦燥感を覚えている筈なのに、連なる胸の高鳴りを感じない。感動に煽られている筈なのに躰がそれに答えようとしていない。
なんだ?なんなんだ!?
教会の中央へと出ると、私は女神像を見上げた。
「…神よ…これは一体どういう事ですか??」
ザ
ザザ
そんな砂嵐が一瞬横切るような音と映像を脳内に直接叩き込まれる。
―ウケイレルナ
―アワレナオマエニヒツヨウナノハ
―ワタシカラノタダヒトツノ慈悲
後ろ髪を引くように拒絶する聲。
だが、私の胸の奥は、どうしても、どうしてもなにかを思い出させようとする。
思い出せと空気が脈打つ。
…どうしてだろう私には心臓があるという感覚を忘れていたような錯覚。
だが、
「奥で聞こえる。」
私は眺める女神像から踵を返して振り返る。
「あ」
子供たちがいつも綺麗に掃除してくれていた筈の聖堂が瞬く間に散らかっている。
あんなに白い壁が獣の臓物を打ち付けたかのように肉を引っ付かせて赤く染まっている。
…手が震える。
そしてその微動から滴る生暖かい雫。
むせ返りそうな鉄の匂いに胃が締め付けられる。
「夢…か?」
絞り出す自分の声は次第に子供らの名前を祈るように大きく叫び出した。
「アニー、ジョセ、ロイ、クラーラ、イリス、アロンソ…」
思い返せばこの中には名前も持たない子に与えた名もあった。
誰ひとりとして守ろうと誓ってその胸に抱かなかった子はいない。
「イオニア、レイ、アーヤ…カシム…」
たとえ、血の繋がりがなくても私は愛していた。
私の捧げる愛情に答えてくれる人を何一つ他人とは思ったことが無い。
血縁など、多すぎる人の中で仕切りを作るだけのものでしかない。
こんなにも身を寄せ合って温もりを確かめる場所では誰もが人を愛せるものなのだ。
昔の私では考えられない事だ…だからこそ、今の私にはこんな光景を到底認める事が出来ない。
…そうだ、結局どこかしらで私は心の奥底では自分のする事は正しいものだと思っていた。だからこそ
「私は…間違ってしまったのか?」
ゆっくりと水々しい音を靴で踏み鳴らしながら前に進む。
いつもの聖堂の出口からは景色が全く見えない。
黒い…黒い世界だけだ。
「怖いよな、せんせぇ―」
隣に立つ誰かがそう言った。
「あの先に何があるのか、“こんなもの”を見せられた後じゃあ怖くてたまらないよな」
「カシム…」
「だからさ…もう一度振り返っていいんだよ。こんな現実なんかいつだって否定できる。あんな先、背を向けちまえば
もうこっちを見る事は無い。あとは全部任せちゃえばいいんだよ。世界ってのはそれぐらい大きいんだ。
あんた一人が夢を見る事ぐらい世界は何も思わないさ。だから、さ」
カシムはこちらに顔を向けない。
聖堂の凄惨な背景に見向きもせず、
静かに扉の奥の黒い場所をじっと見つめている。
明らかに様子がおかしい
不思議だ、この子は隣に居るはずなのに
その声はどうしてか内側から聞こえてくるのだ。
私の右手から、左手から、喉から、背中、胸…全身の至る所から聞こえてくる。
「はぁ…はぁ…」
「なぁ、せんせぇ。どうしてこうなったのかな…」
「なに、を…お前はなにを言っているんだ?カシム。それに、この景色は」
「あんたは…あんたは覚えている。この景色を、この惨状を、この現実を…ただ、それを受け入れられなかったんだ。
目を閉じて夢を見る方がずっと幸せだからな。『マーシー』はそれをあんたに埋めるように与えたんだ」
「どうかしている。夢…だとか…現実だとか…」
「なら、なんであんたはずっと“こっち側”を向いているんだ?」
「カシムっ…!!」
「俺は…あんたの苦しんでいる顔を見たくない…いつだって笑っていて欲しいと思ったよ。
初めて会ったあの時、大の大人がみっともなく泣きそうな顔で嘘を言ってたあの時から…俺は…」
「…」
「罪があろうがなかろうが…少なくとも俺はあんたに対してそう思えたんだ。あんたの難しい幸せを俺は願った。俺だけじゃない
きっと…ほかの子供たちだってそうだ」
私の中で欠けていたものが、その言葉一つ一つによって何かを紡ごうとしている。
「でも、違ってた。あんたの事…“こんな俺たち”なんかよりも知ってくれる人が居た。居てくれた
どうにかしたいって望んでる人がいた。あんたがどんな姿だとしても、どんな結末だったとしても、正しさなんてお構いなしに
あんたを思う存在があそこには居た…居てくれた…」
真っ黒な景色を今でもずっと、まっすぐ見続けている。
振り返れば幸せだという言葉とは真逆に、何かを訴えかけている。
「いつだって世界は現実の残酷な事を変えようとしない。常に変わってしまうのは俺たちだ
いつかの幸せだって、鼻で笑うようになる。でも、そうしなきゃ、俺たちは前に進む事ができない。それでも、
知れる地獄はきっと誰かの為になる。」
私は内側から聞こえるカシムの声を掴むように自身の胸に手を当てる。
「―――ああ、カシム…そうか…」
私は、悔しさなのか、悲しさなのか、それとも気づけた事の安心なのか
それを表現できない虚しさに感情の渦を巻きながら自分ではよくわからない歪んだ顔で目を伏せた。
思い出す。いや、正確には躰が覚えていたのを見せつけられたと言ってもいい。
私が、あの集団。魔業商なる者に操られ
カシムを含めた殺された子供たちの肉を食していた事。
「お前は…ずっと…“ここ”にいたんだな…?お前だけじゃない。ほかの子供たちも、皆全員…
わ…私の中にずっと…くっ…」
カシムは私の言葉に、寂しそうに笑いかけ、やうやくこちらを見た。
「本当はそんな顔して欲しくなかった。先生にあんな事をさせてしまった事には俺らも責任がある」
「ないっ…断じてっ…!そんな事はないっ…!!!!それこそ…認められないっ!!!」
この子たちは、死して私の身体になってしまっても尚、私の事を気に掛けてしまっている。
ジョイ・ダスマン…お前は一体なにをしていたんだ…!
こんな事になっても変わらず、子供らに余計な心配をかけさせてしまっているのだぞ
「…だったらさ。もう、終わらせてくれよ…あんたの手で…」
ドン!と、漆黒を覗かせていた半開きの扉が大きく開かれる。
「もう、ここはあんたの夢見る場所じゃない。もう…夢は十分に見ただろ?あとは…あっち側の連中がなんとかしてくれるさ」
私は至る先の無い闇を見据える。
夢の境界を跨ぎながら、足つく地すらもわからぬ前へと進み始め、手を伸ばす。
「ああ、もう十分良い夢をみたよ―」
「カシム」
「どうしたんだよ、せんせぇ」
「ありがとう、そして、私はお前を…お前たちの事をいつまでも愛している」
「……」
―少年のすすり泣く声が聞こえる。だが、振り返らない。
私はもう一度向き合わなければならない、覚めた先の現実で
せめて道化らしく振舞おう
―夢から醒めた私はあまりにも想像とかけ離れた景色を目の当たりにして、息を止めるように思慮する。
ああ、こんなにも小さな少女が、その身をボロボロにしてまで私を止めようとしているのか?
否、聞こえた声は彼女からでは無い。そう、彼女の握り締める刀剣から…?
不思議とそこから魂の嘶きを感じる。
そうか―オマエが…私を…
ありがとう