エリヤの瓶
第8回「かきあげ!」小説イベント投稿作品。
テーマは「はらへった」です。
瓶と壷をのぞき、ヨセは絶望した。これで三日、瓶に粉はなく壷に油が満ちることはなかった。
奇跡は起きなかったのだ。
エリヤの瓶と壷。
今の世にも待たれる大預言者の名をだして、義人には同じ奇跡が起きると、あの脚の悪い少年は確かに言ったのに。
自分は義しくなかったのか。そんなはずはない。学校で一生懸命勉強し、家の手伝いに励み、弟妹友達に優しく接して、律法の教えをがんばって守ってきた。近所の評判を聞いた叔父が、ご褒美と小遣いまで送ってくれたほどだ。これを買ったのも好きなように使いなさいと言ってくれた母のためだった。
ふと、売りつけた少年の悪意が思いの端をかすり、ヨセはあわてて首を振る。
疑いはよくない。きっと何か理由があるはずだ。もしかしたら、時がまだ来ていないのかもしれない。だとしたらそれはいつなのか、あの少年に会って問う必要があった。
そう決心して学校や手伝いの後、瓶を買った街の市を訪れる。昼過ぎでまばらになった露店で聞き回るも、不自由な脚からすぐ見つかるとの予想は外れ、先々で誰もが首を傾げる。どうやら市の常連ではないようで、ヨセの話を聞くたび、よそ者を信用した少年へ哀れみの眼差しが向けられた。
いたたまれない思いと当てもなくなって、道端の石に腰が落ちたところ。
「ヨセじゃないか。どうした、こんなところで」
声をかけてきたのは、小遣いを送ってくれた叔父のピリポだ。以前は亡き父とともに湖で網を打っていたが、今は偉い先生について、ユダの地のあちこちを回っているという。久しぶりの対面に、一瞬浮かんだヨセの喜びはたちまち崩れて、あふれでた涙が両頬を濡らした。
「エリヤの瓶と壷か。義人に奇跡だって。へえ、その子が」
甥の話を聞いたピリポは唸った。
「叔父さん。僕は義しいんだし、きっとまだ主の時ではないんだよね。でも、いつまで待てばいいの。ヨナの三日の次は天地創造の七日? ノアの大雨の降った四十日?」
まさか荒野を旅した四十年じゃないよね――
やつぎばやの質問の末行きついた失意に、ピリポはあわてて少年の肩を抱き寄せた。
「そうがっかりするな。主の業はみこころのまま、人には思いもかけないと習ったろう?」
大きな腕の懐かしい感触の中で、ヨセは小さく頷いた。
列王記の昔、長い飢饉の末に死ぬばかりだったやもめは、最後の粉で作ったパンをエリヤに与えた。そしてもたらされた予想外の奇跡は、粉のつきない瓶と油のつきない壷。彼らはそうして長らえた。
「まあ、な。とりあえず、瓶に粉を入れないとな」
涙あとが残るヨセの顔に、ピリポは目配せした。
「ほら最初、やもめの瓶にも一握りは残っていただろう? 明日の魚のより分け作業に、いくらか手間賃をはずんでもらうといい」
漁師頭には話を付けておくから、と請け負った叔父は、別れ際にヨセを祝福してくれた。
朝焼けの中を舟が二艘、ヨセのいる岸に向かってくる。船縁の低さと重たげな櫂の様子で大漁だとわかり、より分けに出ていた漁師達の家族から歓声があがった。
網が浜に上げられるや皆は駆け寄り、さっそく作業に取りかかる。律法に書かれている鰭や鱗のあるもの、ないものの選別だ。罪をもたらす汚れは、取り除かねばならない。いつものようにヨセが手早く仕分けていると、漁師頭のカレブが日に焼けた髭面を向けてきた。
「やあ、ヨセ。もうすぐエルサレムに上る歳だってな。俺もうっかりしてたぜ。ずっと同じ手間賃ですまなかった」
これからは割り増しで払うからな、との皺の深い笑みへ、ヨセも嬉しく感謝を返した。
そこで、おっ、とばかりに相手の視線があがり、つられてそちらを見れば、岸沿いの道から大小の人影が近づいてくる。一人は叔父のピリポで、もう一方は子供――ぎくしゃくと体を傾がせて歩くその姿。
不機嫌な眼差しが、ヨセを認めて見開かれた。あわてて背を向けるが、叔父の手に首根っこを掴まれ、そのまま引きずられてくる。カレブと叔父との間に短い会話が交わされ、背を押された少年は渋々作業に参加した。
ヨセがそっと窺うと、結構慣れた手さばきだ。次第に没頭しだした少年へ、ヨセは尻を少しずつずらして近づいた。はっと気づいた視線をすかさず捉える。気まずい中、横目で相手を意識しながらの作業がしばらく続いた。
「俺は食ったぜ。ナマズもイカもエイも」
結構うまかった――いきなり少年がつぶやき、驚いたヨセはその暴言ぶりに一瞬背筋を震わせた。
「腹が減って死んじまうよりマシさ。そんだから義人なんて全然なれないし、奇跡なんて起きっこない」
奇跡は起きない。
なげやりに放たれた一言が、ヨセの心の奥を貫く。
悲しみが立ち上がる。生まれたばかりの弟が死んだ時も、父が嵐で帰らなかった時も、それは今回の瓶と壷に始まったことではなかった。ああ、そうだ。
きっと自分は義人ではないのだ。一番に思いながら振り払ってきたが、やはりそれしか考えられない。
目元が熱くなり、ヨセは鼻をすすった。
地に投げ捨てられる、鰭や鱗のない忌むべき魚。
――でも。それでも。
「ねえ」と、消え入るような声を胸から押し出す。
「やもめが奇跡に与ったのは、エリヤのことばに従ったからじゃないのかな」
最後の一握りの粉をパンにして、求めるエリヤへ与えた。それは。
「エリヤの、義人のことばを信じたからじゃないかな」
吐き出すばかりだった息を、ヨセはようやく吸った。
「僕はいつか奇跡をみれたら、いいな」
選別を終え、漁師達が網を片づけるのを手伝っていると、カレブがやってきて、粉の入った壷をヨセに手渡した。なんでも叔父から今日は粉と指定があったらしい。少年の方は腰に下げていた小袋へ、小魚が一杯に詰め込まれる。
報酬を手にした二人は、互いを窺いながら岸沿いの路上にあがった。ヨセが相手の歩調に合わせている内に、一人二人と追い抜く者が増え、やがて彼らは大勢の人波に巻き込まれた。最初は戸惑ったものの、がやがやと交わされる会話にヨセの合点がいく。
「叔父さんの先生の話を聞きに行く人達だよ」
叔父から聞かされた、先生の話をヨセは思い出す。目の悪い者、足の悪い者、病気の者が癒され、人に取りついた悪霊が追い出された。偉大な預言者の再来とも呼ばれて。
「そんなの、まがいものさ」
少年が鼻で笑うのに、ヨセは弱い笑みを返す。
「でも、もしホントなら……ホントだったら君も」
いかない? と、声を振り絞れば、相手の足が止まった。地へ顔を伏せる少年と当惑するヨセを、次から次へと人の列が分かれて通り過ぎていく。
と、いきなり少年が手にした小魚の袋を突き出した。
「やる」
目を瞬かせるヨセの胸元へ袋を押し込むや、少年は踵を返した。あっと思う間に人々の群に飲み込まれた背を、両腕に壷と袋を抱えては追うことも叶わず、代わりにヨセは懸命に叫んだ。
「学校が終わったらここに来るから! 昼にここで待っているから!」
待っているから、きっと。
春のうららかな日差しの下で、少年は立っていた。その姿を遠目で認めたヨセは、彼の名を知らないのに気づき、ただ、おーいと手を振った。
少年が顔を上げる。近寄ったヨセは思わず息をのんだ。
頬は赤黒く、右の瞼が腫れ上がって血がにじんでいる。
どうしたの、と訊きかけた口をつぐんで、ヨセは黙って彼とともに歩き始めた。この先の開けた草地で人々が集まり、叔父の先生の話を聞いているとのことだった。
「今日もらった粉をあの瓶にいれたよ。君の魚は壷にね。それでお母さんがお弁当を作ってくれた」
歩みの後先を舞う蝶を目で追いながら、肩から下げた袋を振ってみせる。
「五つのパンと二匹の焼いた魚だよ」
一緒に食べよう――
(了)
お読みいただきましてありがとうございます。
預言者エリヤのエピソードは旧約聖書の第一列王記17章10~16節
この話自体は新約聖書ヨハネの福音書6章1~14節を元にしています。
興味のある方はご覧になってください。