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朝日の中の話

作者: 高野悠

 その休日は、とても早く目覚めた。

 普段なら太陽が昇りきってから目覚めるのに、カーテンの下から長く這い出た朝日は薄暗く、低い角度から差し込んでいる。なんだかとても得した気分になって、僕は休日の朝日が好きになった。


 モスグリーンの遮光カーテンと、白いレースのカーテンを開ける。ベランダに干された洗濯物越しの空は薄暗く、美しい朝焼けを描いていた。空の高いところには筋雲が浮いている。今日は晴れだ。

 寝ている妻を起こさないよう、スリッパのペタペタという音が鳴らないように歩いていた僕は、その歩き方が面倒になってスリッパを右手に持った。僕の家ではスリッパを履く習慣が無かったから、裸足の方が馴れている。この習慣は、妻が家から持ってきた。


 トイレの水を流す音が、妻を起こすほどうるさくなければいい。それは、スリッパなんかよりもずっと大きな音だから。僕は、もう終わってしまった、どうしようもなく大きな水音について考えた。あの音は、眠る人にとってはうるさすぎる。どうにかならないものか。

 カーテンを開けたことで、部屋の中はずいぶん明るくなった。朝は、電気をつけないで過ごすのが常だったから、しばらくはこの光だけだ。僕は、太陽の光をまぶたの裏に感じながら振り返る。


  □


 慣れ親しんだ家に、自分の知らない物があればすぐ気付く。それでも今の今まで気付かなかったから、まだ寝ぼけているのかもしれない。体は十分起きているのに、脳の奥だけが眠っているような。

 僕の知らないものは二つあった。ダイニングの、腰より少しだけ低い高さの机を挟むようにして、二つ。それをどう使うのか、僕には検討も付かない。一つ一つ別々に使えるものなのか、二つ同時に使うものなのか、それすらもわからない。それをある角度から見ると、角ばった「h」に見える。「H」の上のどちらかをへし折った形の方が、似ているかもしれない。それは低い正方形の机のようだったが、机なら物を乗せるところが大きく緩やかに凹んでいる。これでは物を置いても不安定だ。それに、正方形の一辺から壁のように長方形の板が貼り付けてある。板は正方形の板の方向に緩やかに、縦に曲がっていて、長方形を縦に二つ並べたようにくりぬかれていた。そうっと机よりも数センチ高いその天辺を、そうっと人差し指で撫でてみる。特に、何もない。ニスか何かでコーティングされた、ただの板だ。


 妻が置いたのだろうか。でも、どうやって? 昨日までは無かったはずだが、妻が運び込めば、すぐ気付くだろう。僕は昨日、妻が寝室に向かうのを見ている。その時これに気付かなかったから、これは無かったはずだ。では、サンタクロースみたいに僕が眠っている間に?

 僕はこれを左手で持ち上げる。驚くほど軽くも重くもない。これくらいの木なら、だいたいこれくらいの重さだろう。それくらい。これなら、非力な妻でも十分持ち上げられる。なんなら二つ同時に持ち上げることだって。持ちにくいだろうけど。僕は、それをそっと床に下ろした。妻はまだ寝ている。


 しかし、いくら妻が持ち上げられる軽さであっても、彼女が夜持ち運んだとは考えにくい。僕は少し神経質なのか、ドアの開閉する音、足音、夜中の強風。そういった音で起きてしまう。だから、これを妻が持ってきたとも夜にやってきたとも考えにくいのだが……。では、一体いつからここに?


 他に考えられるのは、持ってきたのは僕だということ。でもこれは考えにくい。だって、僕が持ち運んでいないことを、僕が一番知っている。次はやはり、第三者か。物を置いていく侵入者なんて聞いたことがないし、知らない人が家に入ってきたなんて考えたくないけど。僕はずっとスリッパを持っていたことを思い出して、ダイニングの机の脚に添えるように置いた。それから玄関へ向かう。足音を立てないように歩けば、自分が普段からすり足で歩いていることに気付く。寝室の前は特に気をつけて通り過ぎた。玄関の扉を開けようとすると、ドアノブは少し下がって、それ以上動かない。鍵はもちろんチェーンロックもかかっていた。少なくとも、ここから誰かが入ってきたわけではなさそうだ。窓から入った、などということも無いだろう。ここはマンションの四階だ。工夫すれば進入できるだろうが、h型のあれを持つとなると大変だろう。不気味さもあって、僕は第三者の線を消す。だって、僕らに気付かれずに入れるタイミングがない。どうしたって僕が起きてしまうから。


 僕は冷蔵庫から水を取り出して、コップに半分ほど注いだ。それをリビングの低い机の上に置き、床に座る。朝からこんなに頭を使ったことはない。ふわぁとあくびを一つ。冷たい水が胃に落っこちていって、感覚はこんなところにまであるのか、と思う。急に冷たい水を飲む

は体によく無いだろうけど。

 なんとなく、ここでもう一眠りしてもいい気がしたが、胃の中の水と手に持ったコップの冷たさがそれを邪魔した。私の後ろには今、わけのわからないものが置いてある。ある程度大きい物だからきっと家具なのだろう。その家具であろうものの正体を、私は一向に掴めないまま水を飲みきった。


 早朝のブルーライトは嫌いだが、ネットで調べてみようか。でも、どうやって? 一応家具だと思っているが、そうでないかもしれない。名前がわからないものを調べるのは難しい。僕の知らない調べ方があるかも知らないが、知らない方法で調べることはできない。そもそも、ネットに書いていないかもしれない。


 妻はまだ起きてこないだろう。調べることは諦めて、朝ごはんを食べてしまおうか。平日はともかく休日の朝食の時間はばらばらだった。洗面所で手を洗った僕は、5枚切りの食パン一枚を袋から取り出して、左手で冷蔵庫を開ける。その中からイチゴとブルーベリーのジャムを取り出して、コンロの横に置く。右手は食パンを持ったままだから、ジャムも冷蔵庫をそっと閉じるのも、みんな左手だった。食器棚から、これまたそっと、ふちがくすんだ緑色の平たい皿を取り出して、その上にパンを置いた。バターナイフ一本を取り出し、イチゴジャムを左半分に塗る。ブルーベリージャムを塗るため、バターナイフを洗おうとしたが、シンクにぶつかる水の音を思い出した。さすがにブルーベリージャムは諦めよう。ジャムをたっぷり掬って右半分もイチゴジャムで埋めていく。好きなほうのジャムから塗り初めるので、ブルーベリーを諦めることに何の不満も無い。


 キッチンで立ったまま、もそもそと食べ進める。コップにはもう一度冷たい水を入れた。調子に乗って少しジャムを塗りすぎたかもしれない。垂れたジャムが指についてべたつくのを、皿と一緒に洗い流す。皿を静かに片付けて、少しだるくなった両足を紛らわすために片方ずつぶらぶらさせていると、寝室からぺたぺたという足音が聞こえ、トイレに消えていった。ここからその様子は見えないが、妻が起きてきたようだ。

「おはよう」

 トイレから出て、洗面所に来た妻に声をかける。キッチンと洗面所は隣りあわせで、スライド式の扉一枚によってわけられている。僕たちは普段、その扉を開きっぱなしにしているから、キッチンから動かなくても妻の姿が見える。

 手を洗い終えた妻は、同じ言葉を僕に返す。うがいが終わるのを待って、僕はあれについて聞こうと思う。

「なんで、そんなところに立ってるの」

 妻の方が早かった。

「食パン食べた後だから」

「今日も、静かだったわね」

 妻は黒い櫛で髪をといで軽く整えている。

「うん。起こすの申し訳なくて」

「いつもそういう。わたし、物音で起きるの嫌いじゃないからいいのに」

 妻がそういうたびに、次からは気にしないでいようと思う。なのに、毎回物音を立てないように気をつけている。音を立てずに行動するのがなんとなく楽しいからだ。普段、気を使わないところにまでぴりっと神経が通うようで、なんとなくすてきな気がするのだ。

「次、早起きしたときは音、気にしないようにするよ」

 とは言ったものの、次も静かにするだろう。

「いつもそういうねえ」

「うーん、だよね」


 妻はキッチンを通ってダイニングに向かおうとしたので、僕もそのままダイニングに向かう。

「ああ、ほら。やっぱり裸足だし」

 机の脚に添えるように置かれたスリッパを見て妻は言った。

「スリッパ馴れないんだよなあ」

 僕は、そういいながらもスリッパを左足から履いていく。スリッパで歩くと、どうしてもペタペタという足音が出る。 

「あ、ねえ、一ついい?」

 ダイニングにあるそれを気にせず通り過ぎた妻を呼び止める。

「何?」

 スリッパを片方脱いで、リビングに敷いてあるカーペットに乗ろうとしていた妻は、その体制のまま動きを止め顔だけこちらに向けた。

「こっちこっち。ダイニングにあるあれ。何?」

「あれ? どれのこと?」

 妻はスリッパを履きなおした。

「あれ――ごめん、何かわからなくてさ」

 手をくるくる動かしても、知らない言葉は出てこない。

「どれ」

「これ」

 僕は言葉で説明するのを諦め、それを指差した。

「これ?」

 妻はとても不思議そうな顔をした。

「そう」

 さらに不思議そうな顔をする。僕の疑問が理解できていないような顔だ。

「椅子じゃない」

「嘘だ」

 だって、椅子ならわかる。

「椅子よ。嘘付いてどうするの」

 妻は、よくわからないという風に首を傾げていた。僕の首も同じくらい傾いていた。

 椅子なら僕の部屋にもある。でも、これが何かわからない。

「これが? ええっと、昨日はなかったよね」

 僕はなんといえばいいのかわからず、少しだけ質問を変えた。

「何言ってるの。初めからずっとあるじゃない」

「ええ……どういうことだろ」


 背の高い机の横にはたいてい椅子があるものだ。しかし、妻が椅子と言うものが、どうしても椅子に思えない。彼女の言うとおり以前からあったのであれば、おそらく昨日まで椅子と認識していたはずなのに。

「こっちの台詞よ。大丈夫?」

「大丈夫じゃないかも」

「嘘……でもないわよね。こんなくだらないこと、あなたはしないし。誰だってしないはずよ」

 一人で納得した妻は、彼女の部屋を空け、その中にある椅子を指差す。

「あれは?」

「あれは椅子」

 座る部分がくるくる回るタイプのものだ。

「こっちは?」

「……一応、形が似てるのはわかる」

 回る椅子は「I」の上、左右どちらかに板をつけた形に見えるから、ダイニングにあるものとは少し違う。でも、ダイニングにあるほうでも座れそうなことはなんとなくわかった。

「わっかんないなあ」

 妻も同じように、何か一つを認識できなくなったら同じような反応になるだろう。

「わっかんないよなあ」

 それに、自分でもよくわからない。


「でも、椅子なんだよなあ、あれ」

 ダイニングのそれを睨みつけて呟く。

「どういう感じなの。感覚とか、どう思ってるとか、そういうの」

「なんか……うーん」

 説明が頭でまとまりきる前に、話し出す。

「小学生か中学生のときに転校していった同級生に再会したって感じ。大人になって顔変わってて、親しくなかったし名前も出てこない。でも、同級生だった」

「わかりにくいなあ」

 例えてみたはいいけど、僕もわかりにくいと思う。

「なんか、まったく知らないんだけど、知らないはずはないって感じ。誰かに言われて始めて、ああそのときの子かってなる。でもやっぱり名前はわからない」

 何人かいる、引っ越していった、名前を忘れた同級生。彼らを卒業アルバムの中に探しても、どこにもいない。

「ふんふん」

 妻は大きく頷く。

 彼女のこういう頷き方は、理解していないときのものだった。

「なってみないとわからないかも。説明難しい」

「それはよくわかった。なんかもう、哲学だもん。哲学知らないけど」

「僕もよく知らない」

「一つ理由を考えるなら、ダイニングでいろいろありすぎたっていう話」

 思い出そうとするも、何一つ思い出せない。ダイニングというくらいだから、ここで食事をしているはずなのにそれすらも覚えていないから、きっと、これに関する全てのことを忘れている。

「いろいろか……ごめん、忘れちゃ駄目なことなんだろうけど」

 彼女は少し悲しそうな顔をした。

「だって、今日始めてこの椅子があったみたいに言ってたもんね」

「ごめん」

 空気を買えるように、彼女は笑った。好きになったときと同じ表情だ。

「今日は用事ないんだから、ここで生まれた思い出、日が暮れるまで語ってあげる。ご飯食べたり、コーヒー飲みながら」

「ありがとう。でも、思い出せなかったら……」

「そんなこと、後でいいの。とりあえず今は椅子に座ってよ。椅子はわからなくても、座る、はわかるでしょ?」

 頷いた。

「それは、大丈夫」

 僕は椅子に座った。


今回は異化(馴染みあるものを、そうでない風に書くこと)に挑戦してみました。

よければ他の短編長編もどうぞ。長編は八月から連載していきます。

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