不楽は子供の世話をする
不楽はゾンビである。
ゆえに食べる必要性はなく、眠る必要性もない。
ヒマをもてあそぶ。という感性も存在しないがゆえに、一人暮らしをさせてみれば、家具が一つも存在しない部屋ができあがる。
生活感のある空き家が完成する。
だから周りが寝静まっている時の不楽がしていることと言えば、なにもしていない。だった。
ずっと座って、ボーッとしているだけ。
ちょっと前までは夜に行動する吸血鬼がいたから、そういう行動をしていることはめっきりなくなっていた。
ただ、今はその吸血鬼がスヤスヤと眠っているから、不楽は久しぶりのスリープモードに移行していた。
なにもしない時間が刻々と過ぎていった。
空に浮かんでいた月がなりを潜め、反対側から太陽が起きあがる。
真っ黒だった空は青色に染められ、空気が暖められていく。
いつもならば、吸血鬼が眠りにつく頃。
その吸血鬼らしい少女が目を覚ました。
不楽は布団の方を向く。
かけぶとんをどかして、上半身を持ち上げている。目を何度もぱちくりさせて、体を揺らしている。
まだ寝ぼけているようだった。目覚めの悪さは、なるほど確かに、ルーミアそっくりではある。
ただし、彼女は朝に目覚めることなんてないのだけど。
――いや、よくあるか。
日傘を手に入れてからというもの、意外と日中も歩き回っていることを思いだした不楽は自分の中で前言を撤回した。
「おはよう、エミーラちゃん」
不楽はまだ寝ぼけている様子のエミーラに声をかけた。
エミーラは自分が置かれている状況をいまいち把握しきれていないのか、キャラバンの中をキョロキョロと見回している。
不楽の存在に気がつくと、舌足らずな口調で話しかけてきた。
元々舌足らずなのに、寝起きだから更に口の動きは悪い。
「ここ、どこ……?」
「ここはキャラバンの中だよ」
「むぎばたけは……?」
「麦畑?」
「パパとママは……?」
「パパとママ?」
「……ふ」
「ふ?」
寝ぼけてボーッとしていた目が、少しずつ焦点があってきた。
状況を理解して、目尻がさがって口がへの字に曲がる。
じわり、と黒色の目がにじむ。
ルーミアの目は赤々としていたはずだ。
やっぱり彼女がルーミアではない。不楽はエミーラの目が潤んでいるのを見ながら、そんなことを考えていた。
「ふぇ……」
そんなことを考えている間にも、どんどん目は潤み、そして堰が切れたように泣きだした。
いつものように――ちょっとだけ甲高い声で、泣きだした。
「ふえええええええええぇぇぇぇぇーーーーーーーーん!!」
「うわ、びっくりした」
不楽は特にびっくりした様子もみせることなく、ぎゃんぎゃん泣いているエミーラを眺めている。
両の目からとめどなく涙があふれて、小さな口は限界まで大きく開かれて大声がキャラバン内に響く。
「……なあ、ルーミアが泣いてるぞ」
「私、もう知らない……」
「ロッヅ、なだめてきなさい……」
そんな声に、弱々しく反応をしめす三つの影があった。
エマ・サヘルとロッヅ・セルスト。それに、一つ目の団長である。
全員が全員、真っ赤に充血している目の下を腫れぼったくさせている。その疲れが抜けきっていない表情は、三人とも眠っていないことを語っているようだった。
「あれ、みんな寝てなかったんだ」
「こんな状況ですやすや眠れるほど神経図太くみえる……?」
ぎゃんぎゃん泣いているエミーラから視線を外して、不楽は三人の方に目を向ける。
エマはいつも以上に気だるげな目で、不楽を睨む。
爬虫類のような目も、充血はするらしい。
「どうだろう。分かんないや」
「でしょうね……」
「弱っているようにはみえる」
「じゃあ図太くないのよ。あんたみたいに神経ないわけでもないし」
「なるほど」
バカにされたのに──皮肉られたのに、不楽はなにも返したりはしなかった。まあ、皮肉が通用するような相手ではないのは確かである。
エマは表情筋がまったく動いていない不楽の顔をジロリ、と睨んだ。不楽の表情は変わらない。
ため息をついて、エマは不楽から目を離した。それが『やっぱりこいつと話すのは疲れる』という意味であったことは不楽に理解できるはずもなく、目を離されたから話が終わったのだと判断して、エミーラの方を向いた。
彼女はまだ泣いていた。
どうやら周りの団員たちはエミーラがルーミアであることを信じているようだったが、不楽はそれを信じていなかった。
髪の色が違うし、目の色が違うし、そばかすがあるし、背丈が違うし、話し方が違う。
まるで違う。別の人間である。と言った方が正しいのではないかってぐらい違う。
内面というものをいまいち理解しきれていない不楽にとって、人を判別する方法は外面であり『なんとなく似てる気がする』とか『雰囲気がそれっぽい』とかはないのである。
確かに、泣いている声は少し甲高いがいつも聞いている声に近くはあるが、同じではない。
とりあえず不楽はエミーラの元へと近づいた。
このままずっと泣かれていてもうるさいだけだからだ。
「どうしたの、エミーラちゃん」
ちゃん。づけなんて、いつものルーミアならば泣くのをやめてツバを飛ばしながら激昂しそうなものだったけれど、エミーラは特になにも言わない。ただひたすらに泣いている。
「パパとっ、ママはっ、どこぅっ?」
涙のこぼれる目をこすって嗚咽をもらしながら、エミーラは言う。
不楽はエミーラから視線を外して、あたりを見回す。
「パパとママはどんな見た目なの?」
不楽は尋ねたが、エミーラは返答することなくずっと泣いたままだ。
どうやら彼女は迷子であるらしかった。
――あれ。
――でも、クロクに『迷子か?』と尋ねた時、違うと言われたけどな。
クロクが勘違いしていたのだろうか。ロッヅならともかく、彼が勘違いするというのは少し珍しい。
どうしようか、と不楽は少し考え込んだが、答えはすぐにでてきた。
相手が迷子であるのなら、親を探せばいいだけだ。
不楽はエミーラの前に屈み込む。
片膝をたてる形でかがんだのに、まだ頭の位置は不楽の方が上だ。
エミーラはぎゃんぎゃん泣きながら不楽を見た。
いや、きちんと見れてるかどうかは少し怪しいけど。
不楽はエミーラの顔を見て、表情筋を動かすことなく言った。
「パパとママを探しに行こうか」
「……ほんとう?」
「うん、本当」
不楽が頷くと、エミーラはぱあっと花が開いたように笑った。
目は泣きすぎで腫れぼったくて、目は真っ赤になっていた。
充血している目は、さながらルーミアの目のようで、なるほど確かにこう見てみると似ている。というのも分からなくはない。
まあ、似ているは似ているであって、同じではないのだけれど。
「外にいけば、パパとママに会えるかもしれないし」
「いくっ! わたし、外にでるっ!」
さっきまで泣いていた女の子とは思えない行動のはやさだった。
ぴょーん、と跳ね起きたかと思うと布団の上でエミーラは両手を不楽の頭の方に突きだした。
手のひらは広げている。
その意味を不楽が理解するのに少し時間がかかった。
「ああ」
理解した不楽は彼女の両手――ではなく、伸ばされた腕のもと、両の脇を持ってエミーラの体を持ち上げた。軽い彼女の体は『たかいたかーい』でもするかのように、不楽の頭の上まで持ち上げられる。
彼女の体を自分の頭の後ろまで運ぶ。
肩車をするように体を固定した。
不楽の背はかなり高い方だ。小さな彼女の身長を足せば三メートルに迫らんばかりである。
エミーラが手を目一杯伸ばせば、天井にまで手が届くほどだ。
その高さに、エミーラは泣くのをやめてきゃっきゃと楽しそうに顔をほころばせた。天井に手をつけて喜んでいる。
ルーミアだったら、まず肩車の状態になる前に『子ども扱いするな』と激昂しそうなものだ。やはり、違う。
「じゃあ、外に行こうか。これだったら見つけやすいだろうしね。落ちないように気をつけるんだよ」
「わかったー!」
不楽は上にいるエミーラに話しかけてから、肩から垂れ下がっている両足を掴んでしっかりと固定してからドアを開いて外に出た。
エミーラの体は後ろに少しのけぞって、きゃーーと楽しそうな声が上から聞こえた。
外は快晴だった。雲一つない快晴。
外に出た不楽は目を細める。頭の上にいるエミーラも、まぶしそうに顔の前に手をそえた。
「……あれ?」
キャラバンの方から一つ目の団長の呆けた声が聞こえた。
まるで吸血鬼が太陽の下にいるのに、灰になったり燃えたりしなくて困惑している。みたいな声だった。
不楽からしてみれば、ただの呆けた声だけど。
「それにしても、ルーミアさんはどこに行ったんだろう。もう一つのキャラバンで寝てるのかな」
「「だから、その子がルーミアなんだって!!」」
まさか、と不楽は返した。
吸血鬼が太陽の下にいて無事であるはずがないだろうに。
***
不楽がエミーラがルーミアであることを頑なに否定するのは、見た目の問題がまずある。
ただ、周りが『彼女がルーミア』だと言っているのにそれを否定するのは、それ以外が理由である。
不楽にとって、人間関係なんてものは存在しない。
好きもないし、嫌いもないし、信じるもないし、信じないもない。信頼関係なんて、ない。
存在するのはルーミアとの主従関係と、現実だけである。
だから、現実的に見て、ルーミアとエミーラは別人だから否定している。彼らがあんなに必死になってそう言っているのだから、もしかしたらそれは本当なのではないだろうか。とかも考えたりしないのが不楽なのである。
ともかく。
エミーラを肩車して、不楽は街に躍り出ていた。偶然にも昨日、ロッヅが水を騙されて買わされた場所の近くだ。
人通りは多く、スーツ姿の人は少ない。それを見て不楽は今日が休日である事実に気づく。フリークショーという仕事をやっていると、曜日感覚というのはくるってしまうものらしい。
不楽単体でも、人ごみの中で立っていれば頭一つでるぐらいの身長なのに、エミーラの身長も足しているものだから、頭五つは飛びだしていて、近くを歩く人たちの視線は不楽とエミーラの方へと向いていた。
人に見られることに多幸感を感じる変態デュラハンであるカラ・バークリーの同類ではない不楽とエミーラはそんなものをまるで気にもとめず、不楽は適当に歩いてエミーラは滅多に味わえない俯瞰の景色に興奮しているようだった。
「パパとママは見つかった?」
「ふりゃく、すごいね。たかいね!!」
「そうだね」
興奮した様子で、不楽の額を紅葉みたいな手でペチペチとたたきながら、エミーラは言う。その顔は上の上の方を向いていて、体は後ろの方に反り返っている。重心が後ろによっていて、不楽はうっかり落っことしてしまわないように両足をしっかり掴む。
「ふりゃく、あれは、なに?」
「不楽。だよ」
舌足らずなだけで、決して間違えているわけではない彼女に対してその意見は無意味な気もするが、ともかく不楽は言ってから、視線をあげた。額をぺちぺちと叩いていた紅葉みたいな小さな手は、片方は頭に乗せられたまま、もう片方の手は高い位置を指さしていた。
三メートルよりも高い位置だ。
そこらに物があるなんて、そうそうないとは思うのだが。
不楽はエミーラが指さしている方向を見て、『あれ』が一体何なのかを探す。しかし、そこにあるのは建物ばかりで分からないものが一体なんなのか、分かることはなかった。
「あれってなに?」
不楽は尋ねる。
「あれ、あの高いの!」
興奮している様子を隠すことなく、エミーラは何度も同じ場所を指さす。
高いの? と不楽は首を傾げる。
もしかして。
「ビルのことを言ってるの?」
「あの高いの、ビルっていうの?」
どうやら彼女はビルのことを知らないらしい。
見た目からして田舎出身だと思っていたが、予想以上に田舎だったようだ。
――そんなこと、ありえるのかな。
不楽は思考する。ビルを知らない人が住まう土地が今現在、この地球に存在しているのか。もし仮に存在していたとして、そんな奥地に住んでいる人間が日本にまで来ることは可能なのだろうか。
ビルを知らないけど、飛行機は知っている。船は知っている。日本も知っている。ビルは知らないけど。だなんて都合のいい展開を、不楽は考えることができなかった。
微々たる可能性としては、その奥地から海を流されてやってきた。という可能性だが、残念ながらこの街は内地にあるし、そもそもキャラバンにやってくるまでにビルを一棟か二棟は最低でも見るはずである。周りの風景が見えないぐらいの極限状態だったらまだしも、昨日の彼女はそういうものには見えなかった。
おかしい。
妙だ。
『ビルを知らない』というたった一つの情報から、彼女がおかしいことに不楽は気がついた。それはあんまりにも遅い気もしなくはないが。
「ねえねえ、ふりゃく」
「不楽。ね、どうしたのかな」
「お腹空いた……」
思考の海に浸っていた不楽に、エミーラは彼の額をペチペチ叩いてから、そんなことを口にした。
同時に、後頭部の方からぐぐ〜と腹の虫が聞こえてきた。振動が後頭部を揺らす。
エミーラは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
不楽は時計を見ようとして、そもそも自分が腕時計をつけていないことを思いだして、空を仰いだ。
太陽はてっぺんに浮かんでいた。
おおよそ、お昼ぐらいだろうか。
食事を必要としない、したとしても死体しか食べられない不楽だと、思考の隅の方においやられてしまうものの一つではあるけれど、少女――しかも成長をはじめる年頃の子供にとって、ご飯の時間というのはどんな時間よりも正確に分かるものらしい。
「ふりゃく、お腹すいた」
エミーラは唇を尖らせながらもう一度言った。
言葉の後ろからついてくるように腹の虫が抗議をあげる。不楽はポケットの中から財布を取りだして中身を確認する。一応、クンストカメラで働いてはいる不楽にも給料は支払われていている。物欲もない彼が金を使う機会なんてそうそうないからか、財布の中身がないとかそういうことはない。
確認してから、不楽は財布をポケットの中に入れてから、頭の上で「お腹すいたー」と騒いでいるエミーラに尋ねる。
「なにか食べたいものある?」
「クッキー!」
「お腹すいてるんじゃないの?」
両手を天高くつきあげながら言うエミーラに、不楽は少し的外れなことを言う。
とはいえ、それを否定する気もないようで不楽は近くにあった店に入ると、お菓子エリアに入る。エミーラにどのクッキーがいいのか選ばせて、それを買った。
税込み2592円。
普通に高いやつだった。
子供が好きなものばかりが集まっているはずのお菓子コーナーにあるまじき値段だった。
「ありがと、ふりゃく!」
「どういたしまして。おいしい?」
「うん、おいしいよ!」
不楽の頭の上にクッキーのカスをポロポロこぼしながら、エミーラはクッキーをほおばる。その顔は幸せそうで、カスをこぼしていることとかパパとママのこととかすっかり忘れているようだった。
「ふりゃくも食べる?」
「いいよ、僕は。エミーラちゃんが全部食べていいよ」
「ホント!?」
「うん」
「わあい!」
エミーラはぱあっ、と花開いたみたいに笑顔を浮かべると不楽の頭に抱きついた。
「ふりゃく大好きー!」
「ありがとう」
不楽は表情筋を動かすことなく答えた。
そんな時だった。
「おや」
と。
そんな声が聞こえてきたのは。
透き通った声だった。作りたての高級笛を通したような声。
たくさんの人が行き来していて――たくさんの声と音が行き来していて、かき消されてしまいそうな小さな声だったがしかし、二人はその声をはっきりと聞き取った。
まるで、自分たちにだけ話しかけているような、そんな声だった。
不楽は歩いていた足を止めて、声がした方を向いた。
建物と建物の間、細くて薄暗くてじめじめとした場所に、一人の女性が座っていた。
地べたにそのまま座るのではなく、ボロの布を一枚敷いている。
若い女性だ。
一枚の布で全身を包むような服を着ていて、そこから伸びる手足は細く健康的な艶がある。
布と額の隙間からは黒色の髪が、まぶたの開いている目を隠すように伸びている。
シミひとつない肌で、整った顔つきをしている。
「この様子を見るに、狼の少年はしっかり役目を果たしてくれたみたいだね」
不楽は女の顔を見据える。
「ロッヅに水を売った人かな?」
「ああ、そうさ。あの狼の少年に水を売ったのは私さ」
「あれのせいで、ロッヅはかなり怒られたって聞いたよ」
「そうかい、そうかい」
女はおかしそうに笑った。怒られたとか怒られていないとか、どうでもいい。と言わんばかりに。
その笑い声を聞き流しながら不楽はある疑問に気がついた。
「どうしてロッヅが狼だと知っているのかな」
「見たら分かるさ」
「へえ」
投げやりな、あからさまな嘘を不楽に当たり前のように受け入れた。
もしかしたら嘘と本当の見分けがついていないのかもしれない。
それか、嘘でも本当でもどうでもいいのか。
「じゃあ、もう一つ。吸血鬼が飲んだっていうのはどういうことかな」
「そのままの意味さ。吸血鬼があの水を飲んだ。だから、その頭の上にいるような姿になったのさ」
不楽は女が指さした頭の上を見上げる。
言わずもがな、そこにはエミーラがいる。クッキーのカスが口元についた状態で不楽を見下ろしてくる。目は黒くて、その中には無表情な自分の顔が映っていた。
「これはエミーラちゃんだよ。ルーミアさんじゃあない」
「まだ言ってたのか、フラク……」
「ん?」
後ろから聞き覚えのある声がした。振り返ってみれば、そこにはざんぎり頭の少年、ロッヅ・セルストがいた。
どうやら自分たちを探していたらしい。
ロッヅは狼人間であり、嗅覚も優れている。匂いだけを頼りにして自分たちを探していたのだろう。
こんな人通りの多い中で──匂いがたくさんある中で、よく見つけれたものだ。
ロッヅは肩を上下させながら、不楽の背中に手を添えて荒い息を整える。
鼻をひくひく動かす。そして顔をしかめた。
「ん?」
「どうかした?」
「いや、なんだか嗅ぎ覚えのある匂いがして」
「ああ。きみに水を売った人がいたんだよ。そこに」
「なぬっ!?」
ロッヅは怒りが含まれた声をあげて、不楽が指さした方を見た。
女はロッヅを視界に捉えると、にいっと笑ってひらひらと手を振った。ロッヅはそのまま怒りを口にするかと思ったが、しかし様子が少しおかしかった。
混乱している様子だった。困惑している様子だった。
「……フラク」
「なんだい?」
「俺に水を売ってきたのはお婆ちゃんだったぞ。こんな若い人じゃなかった」
「そうだったんだ」
「でも」
「でも?」
「匂いが一緒だ。同じ人の匂いがする」
「おやおや。それはつまりなに? 私はババ臭いっていう意味かい?」
女は艶やかな唇を歪ませるようにして笑った。艶めかしさもあるその笑みは、着込んでいる服ともあいなってまるで魔女のようだった。
「ロッヅ、鼻がつまっていたりしない?」
「さっき鼻をほじったからそれはない」
「どっちの手で」
「右手」
右手は不楽の背中に添えられていた。不楽はなにも言わずにロッヅの手を払いのけた。
不楽は女を見据える。
老婆と同じ匂いがする女を見据える。
「家族だと匂いが同じとか、そういうことはある?」
「似てることはある。生活環境が似ていて、体の調子も似ているから。けど、同じは絶対にない」
「じゃあ、その老婆とこの人は同一人物ってことだね」
不楽はロッヅの意見を聞き入れて、そう決めつけた。ロッヅはバカではあるけれど嘘はつかないし、その鼻の性能を疑ったりはしない。
しかし、それだとおかしなことになる。昨日まで老婆だった人が、今日は妖艶で妙齢の女性になっている。
若返っている。歳が逆行している。
あれ。
そう言えば。
こんな話題を最近聞いたばかりのような。
不楽は頭をあげる。
クッキーを食べているエミーラがそんな不楽の顔を見下ろしている。顔に、クッキーのカスがぽろぽろと落ちてくる。
「そう言えば、エミーラちゃんも若返ったルーミアさんだって話があったね」
「だからそうだって言ってるだろう!?」
「でも別人だ」
「同じだって!」
「いや、そこの死体くんの言う通り、別人で間違っていないよ」
不楽のいつも通りな発言にロッヅが叫んで否定すると、それを肯定する声があった。女である。
「ああいや、別に若返ったっていうのも間違いじゃあないよ。それも正しい。だから、若返った結果、別人になった。というのが正しい答えさね」
「……どういう意味だ?」
「吸血鬼って、元は人間でしょう?」
ロッヅが本気で分かっていない声色でそう尋ねると、女はアゴに手を添えて悩むような素振りを見せながらそう言った。
吸血鬼は元人間である。考えてみれば普通のことで、伝承について深く知らない人間でも知っている知識ではある。
吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になる。
それはまるでゾンビに噛まれた人間がゾンビになるように。
じゃあ、そのスタートに当たる存在は一体どうやって吸血鬼、あるいはゾンビになったのかと言えば、それは設定によりまちまちだけれども、ルーミアたちの場合は、純粋な吸血鬼である『始祖』がいる。
吸血鬼の始まり。
一切の不純物のない、混じり気のない、世界で唯一の純粋な吸血鬼。
ジョン・ポリドリの『吸血鬼』を自らの伝記みたいなものだと評した吸血鬼。
それに血を吸われたから、彼女は吸血鬼になった。
だから、ルーミアには人間であった頃がある。
四百年ほど昔のことになるけど。
「ああ」
それを聞いて不楽は納得がいったという風にうなづく。
「つまり、ルーミアさんの人間時代がエミーラちゃんだってこと?」
「その通り。それだけ若返ったってことさ」
だから、別人。
人間であるエミーラと。
吸血鬼であるルーミア。
同じ存在ではあるけれど、同じ人物ではない。
「へえ、ルーミアさんって、昔こんな姿だったんだ」
「さすが死体だねえ。現実への対応が物凄くはやい」
女は妖艶に笑う。ここにいるのが感性のない不楽と子供のロッヅだけではなかったら、誰か魅力にとりつかれていたかもしれない。
「それで、ルーミアさんを元に戻す方法はあるのかな」
「あるよ」
「へ?」
へ? と声をあげたのはもちろん不楽ではない。ロッヅである。
しかしそれは当然の反応とも言える。なんせ、ルーミアをこの姿に変えたのは彼女の水だったのだから。
罠を仕掛けた本人が、仕掛けたことをなしにする。そんなおかしなことがあるはずがない。あるとすれば、それも罠か。
女はボロ布の上に並べられている商品の中から、一つのペットボトルを手に取った。昨日はなかったペットボトルだ。
「この中に入っている水は、歳をとる水さ。四百年だろうと、すぐに歳をとるさ」
「…………」
「罠じゃあないさ。私が試しに飲んでみようか?」
訝しむ目を向けるロッヅに、女はからかうように言った。ペットボトルのキャップに手を触れることもないし、恐らく言っただけだろう。
「じゃあ、それを飲ませばいいんだね」
「そう。飲ませればいい。ただ、それを選択するのは死体くん。きみに一任するよ」
「……?」
不楽は首を傾げる。
言っている意味が理解できていないという風だった。
女は笑う。
「だから、その子が吸血鬼として生きていくか、人間として生きていくか。死体のきみに選ばせてあげるって言ってるの」