わんこは詐欺にあう
「もし」
「ん?」
ある日のことだった。
フリークショー、『クンストカメラ』は旅の最中、休憩がてらとある街に止まっていた。
人はかなりいる、大きめの街である。
休憩の間、暇を持て余していたロッヅ・セルストは、そんな街の中を目的もなく適当に歩き回っていた。
ロッヅは不意に誰かに話しかけられた。
掠れた声だった。
枯れ枝に穴をあけて吹いてみたら、もしかしたらこんな音がしたかもしれない。
「もし、もし……」
ロッヅは声のした方を向いてみた。
そこは、建物と建物の間だった。
日も高い場所にある時間だというのに、そこには日の光が差しておらずじめじめとしている印象があった。
そこに、声の主は布を敷いて座っていた。
老婆である。
白い髪も細く、ほとんど抜け落ちている。
一枚の布で全身を包んでいるような服を着ていて、そこから伸びる手足は枯れ枝のように細く乾いていて、動くたびに皮膚が粉になって地面に敷いている布に落ちていた。
顔はしわくちゃだった。
目は降りる瞼をおさえる力もないのか閉じている。
「もし、もし、もし……」
声を発する度に、老婆の体は小刻みに震える。
歯が生えていない口も震えているせいか、声も震えていた。
ロッヅはそんな老婆を見て、足を止めた。
まるで二人を避けるように周りの人は歩いていて、ロッヅにぶつかることはなかった。
ロッヅは不思議そうに首を傾げながら、老婆を見る。
自分の顔を指さした。
「もしかして、俺に話しかけてるのか?」
老婆はひたすら動かしていた口を止めた。
代わりに、にい、と口元を持ちあげた。
「ええ、そうですよ。あなたに話しかけているのです」
「俺になんの用だ? もしもしって、まるで電話をかけているみたいだったけど」
「こちらのある商品を買ってほしいのです」
ロッヅの少しずれた言葉に意に介さず、老婆は細い両腕を前に出しながら言う。
老婆が座っている布の上には、老婆以外にはガラクタが置いてあった。
腕が通りそうなリングに、ヒモが結ばれていてその先に羽根がついているもの。
ナットとネジだけでつくられた人形。
木でできた杖を半分に折って、それをチェーンでつなげたもの。
穴が空いていて、そこに花が詰められたでんでん太鼓。
鉛筆の先に刃先がついたもの。
一体どこで使えばいいのかさっぱり分からないガラクタばかりだった。
「……これをかあ?」
それを一瞥したロッヅは眉をひそめながら老婆に尋ねた。
バカな彼でも、さすがにこれが無価値であることは理解できたようだった。
「はい、あなたに買ってもらいたいのです」
老婆は人に好かれそうな笑みを浮かべながら頷いた。
そんな反応をされてしまえばどうも、「いらない」と言いのけてこの場から去りづらくなってしまう。
バカであると同時に優しい少年なのである。
ロッヅはポケットの中をまさぐった。
財布というものを所持していない彼のポケットの中には現金がそのまま入れられている。
硬貨だろうが、紙幣だろうが関係なく。
ポケットの中にはちょうど、一つ目の団長から貰ったばかりのお小遣いが入っていた。
少しぐらいなら、無駄遣いをしても問題はない。
「買ってもいいけど、これ、いくらするんだ?」
ロッヅが買う意思を見せると、老婆は彼に見えないような角度で、口角を少しだけ持ち上げた。
ロッヅに向かっては人当たりのいい笑みを向ける。
「そうですねえ、値段は決めていないのです。あなたが決めてくれはしませんか?」
「俺がか?」
「ええ、あなたがです」
困ったことになった。
好きなように値段を決めていいのだという。
目の前にあるのはどれもこれもゴミというかガラクタばかりで、どうしてもゼロ──よくて十。という数字が頭によぎる。
しかし、その数字をそのまま口にしてしまえば、この老婆は悲しむだろう。
バカではあるものの、善悪の区別はつくし、人の心を容易に踏みにじることはできないロッヅは少し悩んだ。
助けを求めるように、少しでも価値がありそうなものを探してロッヅは布の上で視界をうろうろさせる。
そして、救いを発見した。
老婆の近くに、水の入ったペットボトルがあったのだ。
500ミリリットルのペットボトルだ。
フタを開けた様子はない。貼ってあるラベルにはなにも書かれていないが、無色透明なそれはどう見ても水だろう。
助けを発見したロッヅは、すぐにそれを指さした。
「これ。これを200円で買う!」
200円という、水にしては少し割高な値段は、ロッヅが単純に水の相場を知らなかっただけだ。
ロッヅはポケットの中から小銭をだそうとしたのだが、老婆の顔をみてその手を止めた。
老婆は、なにやら渋っている表情をしていた。
まるで梅干しのようだった。
もしかして、値段が低かったのだろうか。
てんで的はずれな、しかしあながち間違ってはいないことを考えながらロッヅは値段をあげようとしたのだが、その前に老婆が震える口を開いた。
「すみませんねえ、これは売り物ではないんですよ」
「売り物じゃない? じゃあ婆ちゃんの飲み物だったのか」
「私は飲みませんよ」
老婆はかぶりを振る。
「ただ、この水は他の商品に比べて、高いものでして、あなたのような子供に買えるものではないのです」
いや、他の商品と比べたらどんなものも高級商品なんだけど、とはさすがのロッヅも言ったりはしなかった。
ロッヅは顔をしかめる。
これがそんな高いものには感じられないからだ。
水なんて、蛇口をひねればでてくるものなんだし。
「これはそこらにある水道水とは違いますよ」
ロッヅが心中で考えたことを読み取ったように、老婆はそんなことを呟いた。
口角はつりあがっている。
「これは人里離れた山奥にある、誰も手をつけていないような湖から汲んできた水でしてね。さながら温泉の効能のように不思議な効果があるのです」
「不思議な効能?」
バカがひっかかった。
老婆は人当たりのいい笑みを崩さずに言う。
「ええ、不思議な効能があります。ただ、これは口にしてしまうと途端に効果がなくなってしまうのです。だから人に売ることはできません」
「へえ、へえ、へえ、へえ……!」
老婆はこれは売り物ではない。と言っているのにも関わらず、ロッヅの興味はその水に注がれていた。
周りがガラクタばかりだから、より一層それに注目してしまっているのかもしれない。
「婆ちゃん。これ、幾らなら売る?」
そんなことさえ口にしてしまうぐらい。
老婆は困ったような表情をみせた。
「効能は分からないのに?」
「飲めば分かる!」
「売るとすれば、高いですよ」
「どれぐらい?」
「そうですね。二万円ほどでしょうか」
「買った!」
ロッヅはポケットの中にあった二枚の紙幣を老婆の前に叩きつけるように置いた。
***
「買った! じゃねえよ。どう考えても騙されてるだろそれは」
夜になった。
正確に言えばまだ空は暁に染まっているのだが、カーテンが締め切られたキャラバンの中からはそれを見ることはできないし、赤色の光は中に入ってこずに、まるで夜のように薄暗い。
そんなキャラバンの中で布団に己の身を隠すように包まれながら眠っていたルーミア・セルヴィアソンは、布団の外から聞こえてきた怒号で目を覚ました。
最悪の目覚し時計である。
起きて早々、ルーミアは顔をしかめた。
自分の体を優しく包んでいた布団を脱いで、上半身を持ち上げる。
寝間着として愛用しているワンピース風のキャミソールの肩紐が片方落ちかけていて、ルーミアは体を傾けながら元に戻す。
寝癖でぼさぼさになっている銀色の髪を手櫛でガシガシと整える。
寝ぼけ眼をしぱしぱ瞬きながら、ルーミアは怒号のした方を向いた。
寝ぼけていてぼんやりとしている視界をどうにかするべく、目をこする。
次第にはっきりしてきた視界には、正座をしているロッヅと、その前で腕を組んで仁王立ちしているクロクがいた。
ロッヅはこってり叱られているのか、こうべをたらして、プルプル震えている。
変幻の方も少しうまくいってなくて、三角の耳はぺたんと頭にはりつくようにしおれていて、尻尾の方は、尻の下に隠されていた。
クロクのロッヅをみる目は、怒っていることをまったく隠そうとしていなかった。
脳天から少しズレた位置でくっついている、逆さの首と比較してみると、その違いに驚いてひっくり返ってしまいそうだ。
そんなこと、絶対しないけど。
逆さの首の方はといえば、いつものようにマネキンの営業スマイルを浮かべている。
「どうしたのよ、そんな大声をあげて」
二度寝を防ぐべく布団から離れたルーミアは、目をこすりながらクロクに話しかけた。
魅了にかからないように、クロクはルーミアの目を見ないようにしながら答えた。
「ロッヅが詐欺にあった」
「絶好のカモを見つけたのね。相手は」
「バカだからな」
「バカだものね」
「バカじゃない!!」
ロッヅは泣いてガラガラになっているノドで、声を張りあげた。
ルーミアとクロクは呆れた目を、ロッヅに向ける。
「じゃあ、お前がなにを買ったのか言ってみろよ」
「水!」
「バカね」
「バカだろ」
「なんでだ!!」
「いやだってよ」
クロクは片手を腰に当てながら言う。
「こんなペットボトル一本に入ってるような水が、二万円もするはずがないだろ」
「二万円も貰ってるの?」
「そこに食いつくのかお前」
目をまんまるしているルーミアを、その赤い瞳を見ないようにしながらクロクは苦笑いを浮かべた。
「一応、ロッヅもサーカスで働いている団員だからな、給料だってもちろんでる」
「それだと、二万円は安すぎない? なに、ここブラックなの?」
「最初は全額渡してたんだがな、無駄遣いがヒドくて、今は団長がサイフを管理してる」
お小遣い制だよ、とクロクは言った。
なるほど、しかし今回の事態を鑑みるとその制度はうまく機能していなかったようだった。
「小遣い減給した方がいいんじゃあない?」
「団長に言っておくよ」
「うえええええええっ!?」
クロクはマジメな表情でそう言うと、ロッヅは悲痛な声をあげた。
ルーミアはロッヅから視線を外す。
近くにペットボトルがあったことに気がついた。
500ミリリットルのペットボトルだ。
ラベルにはなにも書かれていない。
その中には無色透明な水が入っていた。
ルーミアは、その卓越した視力で中身を確認する。
純度の高い水だ。
不純物が見えない。綺麗にろ過されたのか、はたまた人里離れた池から汲んできたのだろうか。
ただ、それだけだ。
決して聖水であったりするわけでもない。
ただの水。
そう見える。
これが、ロッヅが騙されたという水だろうか。
――こんなのに騙されるのなら、テレビショッピングとか見せない方がいいわね。
昔テレビショッピングで痛い目にあったことがあるルーミアは、それを思いだしながら少し苦い表情を浮かべた。
「しかし、こんなものに二万円払うだなんて、一体どれだけ言葉巧みに惑わされたのよ」
「この水はスゴくてヤバいって。温泉みたいになんか効果あるみたいだけど、言っちゃうと消えちゃうから言えないんだって」
「バカしか騙されないわね、その詐欺」
ロッヅは真剣な表情で言う。
ルーミアはもはや呆れさえ隠そうとせずに、おもむろにペットボトルのフタをひねった。
「いい? これはただの水よ。あなたはカモにされたの」
証明してあげる。
ルーミアはペットボトルの口に鼻を近づけてすんすんと匂う。
危険な匂いはしない。毒物の危険はない。
桜色の唇にペットボトルの口を近づけて、中身の水を飲んだ。
こくり、こくりと、うっかり折ってしまいそうなぐらい細い首が動く。
三度、四度動いてルーミアは唇からペットボトルの口を離した。
ペットボトルの中身の水は、ラベルの上まで減っていた。
ルーミアはロッヅの方を向いた。
目を見ないように注意しながら。
「ほら、すぐ健康になったりしないでしょ。嘘なのよ、うそ……?」
ペットボトルを片手に、両腕を大きく広げながらルーミアはロッヅに説教をしようとして、口を止めた。
なぜながロッヅがバカみたいな顔をしていたからだ。
いや、彼自身バカなのだから、そんな表情をしているのはいつものことではあるのだけれど。
しかし、そんな彼の隣にいるクロクも同じようにバカみたいな顔をしていて、ルーミアは怪訝な顔をみせる。
「どうしたの?」
ルーミアはバカみたいな二人に話しかけた。
話しかけて、彼女は顔をしかめた。
どうしてかといえば、自分の声がなんだかいつもに比べて高い気がしたからだ。
高いというか、子供っぽいというか。
中身は四百歳を越える奇っ怪なるものでも、外見は二桁にも達してないほどの童女である彼女が、子供っぽいというのはなんだか変な感じだけれども。
ルーミアは視線を下におろす。
着ているワンピース風のキャミソールの首元から胸が見えた。
起伏のない胸である。
それはいつも通りなのだが、視線を下ろしたら胸が見えたりしたっけか。
するり、と肩紐が片方ずり落ちた。
なにもしていないのに、だ。
おかしいぞ。
妙だぞ。
ルーミアはようやく、自分の体になにかが起きているらしい。ということに気がついた。
一体なにが起きているのかは分からないのだけれど。
「にぇ」
ねえ、と。
ルーミアはクロクに話しかけたつもりだった(ロッヅは頼りにならないから話しかけさえもしない)。
しかし、自分の小さな口から漏れてきたものは思っていた言葉ではなく、なんだか舌足らずな音だった。
まるでろれつをうまく回すことができない――。
「……りぇ?」
と。
そこで。
ルーミアは自分の手のひらをみた。
明らかに小さくて、ふにっとしていて、まるでモミジのようだった。
別の表現をするならば――幼児のようだった。
着ていたキャミソールが肩から完全にずり落ちた。
それは決して、服がゆるくなった訳ではない。
ただ、サイズが合わなくなっただけだ。
ルーミアの体が、小さくなって――。
「ど、どゆうこ――」
あれ?
ルーミアって、誰だっけ?
***
不楽はゾンビである。
墓場の底から呪術で蘇ったわけでもなく、ゾンビパウダーを使われて仮死状態になっているわけでもなく、なんらかのウイルスに感染したわけでもなく。
死体を継ぎ接ぎ合わせて創られた奇っ怪なるもの。
そのルーツからみると、彼をゾンビと表現するよりはフランケンシュタインの化物。と表現したほうが正しいかもしれない。
実際のところ、彼をつくった創造主はフランケンシュタインの化け物をベースに彼を造ったようだし。
とある陰陽師からの注文で――たった一つの願いのための幾億もの土台の一つとして、彼を造ったのだし。
ともかく。
ゾンビ。
動く死体。
フランケンシュタインの化物。
人間によって創られた、生前の存在しない死体。
対吸血鬼用に創られた彼の体には、色々なものが足りない。
例えば――血。
例えば――心。
吸血鬼よりも強く、吸血鬼の特殊能力を無効化するように創られた彼は、人ではないものらしく、心ではなく、現実から行動を開始する。
そんな彼は、食料が底をついたという極めて現実的な理由から買い出しに行っていた。
彼自身は死体しか食べることができないから、買い出しになんていく意味なんてないのだけれど、頼まれてしまったのだから仕方ない。
主人であるルーミアから『団長の命令を聞くように』と命令されているのだから。
両手に買い物の品が大量にいれられた袋を持ちながら、不楽は、体に起きた異変に疑問を覚えていた。
その異変については、詳しくは言えない。
いや、それは別に効能がなくなるとかの詐欺まがいの理由からではない。
単純に、理解できていないから、詳しくは言えないだけだ。
ただ、変だなー。ということだけははっきりと分かっていた。
なにかが、体の中からなくなっているような。そんな感覚。
体を解剖してみれば分かるだろうけれど、いまこの場で体をバラバラにすることにはメリットよりはデメリットが多い。だからやりはしない。
しかしまさか、その異変の理由が『ルーミアとの血の契約が解除されている』ということなのだということに全く気づいていない不楽は、両手に持った荷物で足が遅くなったりすることはなく、むしろ常人よりははやいスピードでキャラバンにつくと、両手に持っていた荷物を片手で持ってから、空いた手でドアノブを掴んでキャラバンの中に入った。
「ただいまー」
ロッヅはキャラバンの中に入る。
ロッヅが入ったことにより、キャラバンは少しだけ傾いてまたすぐ元に戻った。
キャラバンの中にはクンストカメラの団員、全員が揃っていた。
揃っていて、揃いも揃って顔をしかめていた。
困っているようにみえた。
「どうかしたのかな?」
不楽が二人に近づいて話しかけてみると、二人の肩はびくりと震えた。
不楽は首を傾げる。
二人の視線をおって、不楽も床の方を見た。
そこにいたのは一人の女の子であった。
歳は五歳ほど。背はロッヅよりも小さく、不楽の腰辺りぐらい。
髪は明るめの茶色で、肩甲骨あたりまで伸びているそれを、一本にまとめている。
目の色は黒かった。
鼻の上にはそばかすがついている。
純粋素朴な、田舎娘。といった風貌だろうか。
知らない子であった。
迷子だろうか、それとも一つ目の団長がまた勝手にいれた新メンバーだろうか。
考えれる可能性とすれば、この二つが濃厚だった。
「迷子かな?」
だから不楽は、そのうちの片方を口にした。
クロクは首を横に振った。
となると、新メンバーであるようだ。
クンストカメラに加入したということは、どこかしら普通ではないはずだ。
しかし、その見た目は田舎娘であり、どこをどうみても普通だった。
もしかしたら純粋素朴な田舎娘。というのがもはや絶滅危惧種であり、その珍しさからここに加入できたのかもしれない。
もしくはロッヅのように、いつもは普通の少年にしか見えない、変化する類か。
可能性としては、後者の方がありそうだ。不楽はそう判断する。
実際、少しおしい。ニアピンである。
確かに変化しているし、見た目普通の人間である。
見た目どころか、中身も普通の人間だ。
彼女自体には、どこも奇妙さなんてないし、珍妙さもない。
ただ、彼女が置かれている状況は珍妙奇妙ではあった。
不楽は固まっている二人の間に移動すると、かがんでそばかすの少女と目をあわせた。
大きな黒い目に、自分の顔がうつりこむ。
「はじめまして」
不楽は表情筋を動かしてにこりと笑う。
クロクの頭についている首のマネキンのような営業スマイルに引けをとらない、無感性で無感情な笑みだった。
それを敏感に感じ取ったのか、そばかすの少女は不楽から距離をとった。
不楽は、まるで頭の重さに耐えられなくなったみたいに首を傾げた。
「不楽」
不楽は自分の胸に手を当てながら言った。
「僕の名前」
そばかすの少女は、未知の敵を観察するように上目遣いでじろじろ不楽の顔を睨む。
不楽がまた笑うと、少女はびくりと体を震わせた。
――笑い顔って、友好の印。じゃあなかったっけ?
自分の笑顔があきらかに不気味であることを理解できていない――不気味だと感じる心もない――不楽は彼女の行動の意味はよく分からなかった。
ただ、笑顔を向けると逃げることだけは理解できたので、笑顔を向けるのをやめた。
無表情なのも、それはそれで不気味なのだが。
「よろしくね」
「ふ……ふりゃく?」
「ふ、ら、く」
「ふりゃく」
「話すのが苦手なのかな」
そばかすの少女は舌足らずな口調で、不楽の名前を反芻する。
ら、の発音が難しいらしい。
「きみの名前は?」
「わたし?」
「そう、きみ」
「エミーラ」
「っていうんだ。よろしくね」
それで、と不楽は言う。
「きみは一体なにものなのかな?」
「なにもの?」
「うん」
不楽はロッヅとクロクを順々に指さす。
「二人は普通じゃあない。どこか特別で異質だ。通常ではなくて異常である。それがフリークショーだから」
きみはどこが異質で異常なのかな。と不楽はエミーラに尋ねた。
しかしその返答が返ってくることはなかった。
なぜならエミーラが、立ったまま眠っていたからだ。
そばかすのついた鼻から鼻ちょうちんが膨らんでいる。
不楽はカーテンの閉じている窓を見た。そういえば、もう夜なのだった。これぐらいの歳――たぶん、四歳か五歳ぐらいか――の子供ならば、寝ていてもおかしくない時間帯だ。
寝る子は育つ。
不楽は立ったまま眠っているエミーラを両手で脇を掴むようにして持ち上げると、近くにあった布団に寝かせた。
掛け布団を頭まで覆うようにしてかぶせる。ルーミアが寝ている時と同じようにしたのはなんとなくである。
掛け布団の奥からは少し寝ずらそうな寝息が聞こえる。掛け布団が鼻をおさえているのかもしれない。
しかし、不楽はそんなことを気にも留めずに――呼吸をしていない。というか呼吸をしたことがない不楽にとって、窒息はよく分からない現象の一つだ――すくっと立ち上がると、いまだに呆然と立ち尽くしている二人に気になっていたことをたずねた。
「ねえ、ルーミアさんは?」
「…………」
二人は無言のまま、エミーラが眠っている布団の方へ視線を動かした。
確かにこの布団は、いつもルーミアが使っているものだが、今眠っているのはエミーラである。
人が常日頃使っている布団を、他人に勝手に貸しだすのはいかがなものか。という新たな意見が浮上してきたが、そんなことを気にする不楽ではない。
それに、その批判は的外れである。
実際は、その布団を他人に勝手に貸しだしたりはしていないのだから。
「だから」
クロクは言う。
未だに信じられない。と言いたげな表情だった。
「その、エミーラが、ルーミアだ」