流血の週末-1
12月1日 1411時 ドイツ シュトゥットガルト
柿崎一郎は、市内を歩いていた。季節はすっかり冬となっていて、道路は白い雪で薄っすらと覆われている。柿崎は、黒いコートと黒いニット帽、指が半分出ている黒い手袋と黒い冬用ブーツを身に着けている。しかし、この元自衛官は、他の人間とは違い、コートの前のボタンを留めていない。腰のポーチに入れた、ワルサーPDP半自動拳銃と予備弾倉をすぐに取り出せるようにするためだ。
シュトゥットガルト州では地方選挙が行われているようで、各所で政治集会が行われている。あくまでも在留外国人であり、ドイツ国籍を持たない柿崎にとっては、全くもって関係が無い話ではあるが。
今日の最高気温はマイナス3度。訓練のために訪れたりした北海道を思い出す気温だ。柿崎は特殊作戦群にいた頃、真冬の北海道で冬季戦技教育隊から真冬の戦闘訓練を繰り返し受けていた。薄っすらと積もった雪の下には、大抵、ツルツルと滑る氷が潜んでいるため、慎重に歩かねばならないことを、柿崎は北海道に滞在している時に学んでいた。
昨日の訓練は、概ね成功裏に終わった。特殊現場班と警備班のメンバーたちは、訓練教育班からA+の成績を貰った。真っ暗な中、不可視光赤外線スティックと暗視装置を使い、屋内でサブマシンガンや拳銃で標的を撃つ訓練は、陸上自衛隊特殊作戦群にいた頃から当たり前のようにやっていた。
勿論、ユーロセキュリティ・インターナショナルの創設メンバーになってからも、暗所での近接戦闘訓練は繰り返しやってきたが、この手の訓練に事故は付き物だ。
実際、陸自特殊作戦群にいた頃も、部隊が講師として招いたアメリカ陸軍やアメリカ海兵隊の特殊作戦部隊の教官から、訓練中の事故の例とその原因、教訓と対策について学ぶ機会も多かった。
陸上自衛隊の特殊作戦は、他国と比較して40年から50年は遅れを取っている。9.11テロや海上保安庁北朝鮮工作船交戦事件まで、自衛隊はあまり特殊作戦や非正規戦にあまり力を入れてこなかったのが実情だ。
柿崎は、ユーロセキュリティ・インターナショナルの創設メンバーになるまで、実戦を経験したことが無かった。強いて言われれば、内戦が始まったらシリアから日本人を退避させる部隊に、警護要員として紛れ込むようにヨルダンに派遣されたくらいだ。
柿崎は、昨日の夜間戦闘訓練が深夜1時に終わった後、自宅アパートに帰って、たっぷり9時間の睡眠を取った。起床したのが、午前11時半過ぎ。起きてから、急激に空腹を覚えたものの、冷蔵庫の中には、ろくに食べ物が無く、非常食として置いてあった、ドイツ陸軍のレーションが数パックあるだけだった。
よって、柿崎は、まず、自宅アパートでゆっくり風呂に浸かってから、昼飯として、レーションのソーセージとシチュー、ザワークラフトで軽く腹ごしらえをしてから、追加の食べ物の買い出しに向かったという訳だ。
今日明日は週末で休暇となるので、柿崎は今日のうちに買い出しを済ませ、明日は自宅アパートでだらけるつもりでいた。ここから2kmくらいのところに大きなショッピングモールがあるので、軽い運動がてら、徒歩で行こう。2kmなんて、柿崎からしてみたら全然大した距離ではないので、愛車のハンヴィーを使うまでも無い。そこで食事をして、向こう2、3日分の食料を買っておいても良いだろう。土曜日ということもあり、人通りはとても多かった。
12月1日 1433時 ドイツ シュトゥットガルト
柿崎は、目的のショッピングモールに着いた。駐車場には、大小色とりどりの車が並び、ほとんど満車のようにも見える。入口の周辺には、家族連れなど、沢山の人々が行き交っている。やがて、バイクの大きなエンジン音が響いた。丁度、3台の大きなハーレーに乗った3人の人間が駐輪場にそれを止めた。そして、そのハーレーの主は、柿崎がよく知った人物だった。
「よお、イチローじゃねえか!」
「おっす、おっす」
ハーレーに乗っていたのは、ブルース・パーカー、オリヴァー・ケラーマン、マグヌス・リピダルだった。
「どうしたんだ?こんなところで」
「アパートの部屋に食べ物が無くてね。酷いことに、インスタントコーヒーの瓶と緑茶のパック、レーションが少ししか無い有様さ。それで、買い出しに来たという訳だ」
「ああ。ここのところ、俺も帰宅できていなかったからな。俺たちは、今日はツーリングをしていたんだが、ついでに日用品の調達に来たってわけさ」
パーカーが、ヘルメットをバイクの物入に収めて言った。
「朝からツーリングなんてしていたのか?」
柿崎は、パーカーのバイクを見て言う。
「いや、勿論、睡眠は取ったぜ。ツーリングを始めたのは昼過ぎからだな。流石に、寝不足でバイクを運転するバカはいないさ」パーカーが肩をすくめる。
「それもそうだな」
柿崎、パーカー、ケラーマン、リピダルはショッピングモールの中を進んだ。中は、家族連れやカップルで賑わい、ざわざわとした会話が聞こえてくる。建物は6階構造で、中心部は吹き抜け構造になっており、吹き抜けの真下の1階部分は広場のようになっている。丁度、この広場には大きなクリスマスツリーが飾られ、それぞれの店舗ではクリスマスセールの飾り付けが施され、一部の店員はサンタクロースの格好をして接客をしている。
「全く、今年はクリスマスを静かに過ごせるとは思えないな。そう思わないか?マグヌス?」
「おい、ブルース。お前がそんな事を言ったら碌な事にならないだろ。そういうのはやめておけ」
「ところで、君らは何を買いに来たんだ?」柿崎が口を挟む。
「実は、買い物の用事があるのは俺だけなんだ。家のシャンプーに石鹸、洗剤なんかを切らしちまってね。トイレットペーパーも、あと2ロールしか残っていないときた」オリヴァー・ケラーマンが肩をすくめる。
「おいおい、そんなにあるんじゃ、バイクに積めないんじゃにのか?」柿崎がケラーマンの方を見て言う。
「ハーレーの積載量を舐めるなよ。後ろの荷台に結構積めるからな。ところで、お前は今日はハンヴィーで来たのか?」
「いや、歩きだよ。俺のアパートはここから2kmくらいしか離れていなくてね。徒歩でも大した距離じゃないからな」
「言えてる。その程度の距離なら、車なんて使うまでもないからな」
12月1日 1437時 ドイツ シュトゥットガルト
ショッピングモールの中ではBGMとして『ジングルベル』が流れていたが、ざわざわとした人々の会話による反響音であまりはっきりとは聞こえてこない。そんな中、建物の北側の入り口から、4人の男たちが入ってきた。彼らは、服装や年齢こそバラバラだが、やや大きめのリュックサックを背負っていて、1人がアフリカ系、残る3人がアラブ系だ。4人は仲間同士のようだが、全く会話をせずにモールの中を進む。そして、建物の1階にあるスターバックスの前に差し掛かると、アフリカ系の1人とアラブ系の2人は別行動を取り始めた。そして、スターバックスの前にいた1人は、店員にブラックコーヒーを注文した。
12月1日 1439時 ドイツ シュトゥットガルト
「うーん。どうしてこうもインスタントの味噌汁と鰹節、それにみりんが置いてないんだ?これだけはアマゾンで買わないとな」
柿崎は、先程買ったトマトの缶詰と乾燥パスタ、オリーブオイル、米、ピクルスの瓶、パルメザンチーズ、醤油のボトル、サラダ油のボトルを巨大なリュックサックの中に入れながら言った。
「味噌か。醤油は寿司がヨーロッパでも普及したから手に入るけど、味噌、ましてや『みりん』なんてほとんど見た事が無いぞ。それに『みりん』って一体、何なんだ?」とリピダル。
「味噌汁は日本人のソウルフードだぞ。アレが無いと、いい加減調子が狂うんだ」
「うーん。あんな臭いが強いもの、日本人はよく食べるな」
「発酵食品は健康に良いんだぞ。手に入ったら作ってやるから、お前も飲んでみろよ」
「やはり、俺たちの勝手なイメージなんだろうが、日本食といったら、やはり寿司や天麩羅の印象がどうも強くてね」
「肉じゃがや照り焼き、きんぴらと、美味いものはたくさんあるぞ。陸自にいた時に、作り方もばっちり覚えたからな。機会があれば、今度、ごちそう・・・・」
柿崎はそう言ったところで、遠くからくぐもった爆発音のようなものが聞こえたような気がした。一瞬、足を止めるが、気のせいか、と会話を続けようとする。
「どうした?イチロー」ケラーマンが柿崎を見る。
「いや、何でもない。気のせいだと思う」
「何か見えたのか?」
「いや、さっき、手榴弾が破裂したような音が聞こえたような気がしたんだが、多分だけど聞き間違え・・・・・」
やがて、柿崎たちがいる場所から10時方向からだろうか。悲鳴と共に、聞きなれた自動小銃の銃声が鳴り、そして、複数の人間がこちらに向かって逃げて来るのが見えた。
「おいおい、冗談だろ」パーカーが目を皿のようにする。
「どうやら俺たちの出番のようだな」柿崎はウェストポーチを開き、中から護身用のワルサーPDPを取り出してスライドを引いた。
「そうだ」ケラーマンはスマホを取り出し、ユーロセキュリティ社職員専用アプリを開き、緊急通報のアイコンをタップした。これで、トラブルに陥っているケラーマンの位置情報が本部に通報されたはずだ。