第二章 第四話 章末
「聖心愛。あんたどこ行ってたんだよ。いま大切なとこなんだからおとなしくしてろよ」
ショコラママが作荷台の近くで客を見張っている。そこに聖心愛が戻ってきた。
「トイレ。それよりさっき、志信に会ったんだけどさ」
「あ?んで何か言ってたのかよ」
ショコラママの顔色が変わる。怒気をはらんだ赤色に。
「なんかさー。泥棒が入ったって言ってたよ」
「ああ!? それでうちを疑ってるってのかよ?」
ショコラママは急に辺りを見回した。志信がいないか探してるのだ。
「違う違う。警察に相談したら、昨日家に入ったひと全員に協力を求めるかもしれないって伝えに来ただけ。家の人でもお客でもない指紋があったら、それが犯人ってことなんだって」
「へえ……まあ、うちは関係ないけど」
「なんか盗まれたモンがすごいんだって。指輪に高級時計。それに現金が百万円」
「はあ!? 金はうちじゃねーし!」
思わず出した大声に、店中のひとが一瞬振り返る。ショコラママをマークしていた店員もその中にはいた。だが、それを無視して聖心愛は続ける。
「知らねーよ。もしかしたら盗まれたことにして、泥棒から逆にむしりとるつもりなんじゃねーの?」
「あんにゃろ!どこ行った!」
「もう帰ったよ。なんか話すことがあんなら、家に行く?」
聖心愛が言い終わるより早く、ショコラママは駐車場に向かって駆け出して行った。
一方、志信は聖心愛を信じて一足先に自転車で家に帰ったところだった。
相変わらず家の中の空気は悪かったが、朝よりはマシになっているようだ。
「ただいま。お父さんは?」
志信はキッチンで料理をしている母に声をかけた。
「……出かけたみたい」
しまった、誤算だ。おとなの男が居たほうが安全なのに。
「……ごめんね、ノブくん。怖い思いさせちゃって……」
「気にしないで。たぶん、これからもっと怖い思いすることになるから」
「え?」
「なんでもない」
志信はそう言って玄関を出る。駐車場を見下ろし、ショコラママの車が入ってくるのを待って作戦開始だ。
車が来るまではそんなに時間はかからなかった。運転席の中のショコラママと聖心愛も見える。よし、志信は部屋に戻って電話機をとった。プッシュするのは一一〇番。
「はい、こちら一一〇番です」
「あの、あのっ。怖い女の人が家に押しかけてきて、お母さんを……」
もちろん志信は一一〇番に電話をかけるなんて初めてだ。でも、緊張しているからしどろもどろなわけではない。深く追求されないようにわざと焦った演技をしている。
「落ち着いて。いま、お巡りさんが助けに行くからね。電話は切らないで待っててくれる?」
はたして作戦は上手くいった。住所を伝えると、電話の女のひとが指示をしてきた。
同時に、ドアが壊れんばかりの音を立てて開かれた。しまった、鍵をかけわすれた。だがもう遅い。ショコラママが侵入してくる。志信はコードレスホンを持ったまま、部屋の奥へ隠れた。
「出てこいやコルァア!」
半年ぶりに聞くショコラママの怒声。出来れば聞きたくなんかなかったけど……。
「加藤さん!?」
「加藤さんじゃねーよコラア!なに警察にチクってんだ、ああ?」
慌ててフライパンを持ったまま飛び出してきた倫江を、ショコラママはいきなりグーで殴りつける。志信は思わず目を伏せた。しまった、手が早すぎる。
「安物盗まれたくらいで警察呼んでんじゃねーよ!質屋に持ってったらパチンコ代にもなりゃしねーじゃねーか!」
ショコラママは倫江に馬乗りになると、首を締めにかかった。ひどい、こんなことになるなんて……なにが『任せとけ』だよ!志信は聖心愛を強く恨んだ。
「もしもし?大丈夫ですか?」
電話の向こうから声が聞こえる。お巡りさんはいつ来るんだろう……。
「しかも百万円盗まれただあ?なに盛ってんだよ!」
「うぐ……」
倫江の顔がどんどん赤く染まっていく。お巡りさんを待っている余裕はない。
「や、やめろ!」
志信はとっさに、手に持っていたコードレスホンを投げつけた。思わぬ方向から飛んできたそれは、ショコラママの頭を直撃し、倫江の首を締めている手が緩む。
「テメーこのガキャア!」
額から血をだらだらと流して、ショコラママが志信の方に向きなおってきた。
「またテメーか!昨日はうちのことコジキ扱いしやがって!だからテメーん家のものもらってやっただけじゃねーか!今度は泥棒扱いかよ!」
なんだ、実は意味のある言葉も喋れるじゃないか。変なところに感心してしまったが、そんな場合じゃない。倫江は解放されたが、今度は志信が大ピンチだ。
怒りに任せて追いかけてくるショコラママから、志信はリビングのテーブルの周りをぐるぐるまわって逃げる。バターになってしまいそうだ。けれどもこれで少し時間が稼げる。
と思ったのもつかの間だった。足の下に固いものの感触。
「あっ」
踏んでしまったのはさっき投げたコードレスホンだった。その勢いで志信は姿勢を崩し、食器棚に突っ込んでしまう。ガラガラと皿やフォークなどが落ちてきて、そこにショコラママがのしかかってきた。
「テメーよくも!」
額からの出血で真っ赤に染まったショコラママは、まさに赤鬼のようだった。
「お巡りさーん!ここです、ここ!六階!」
聖心愛の声が聞こえる。外のお巡りさんを、玄関側のベランダで見つけたのだろう。
だがその声はショコラママには届かない。届いていれば躊躇したかもしれないのに……それどころか、その手にはいつのまにかテーブルナイフが握られていた。
――あれで刺されたら死ぬな。刺された後にお巡りさんが来ても遅いよな。
志信はなぜかのんきにそう考えていた。
ショコラママがテーブルナイフを大きく振りかざす。
「志信っ!」
聖心愛の声で、志信は目を覚ました。駄目だ、死ぬわけにいかない。
だんっ。
間一髪。頭をひねって助かった。耳にテーブルナイフのぎざぎざがあたってすごく痛い。切れたかもしれない。
狙いが目で助かった。首やお腹だったら避けられなかった。
「避けんじゃねーよ!」
無茶だ。
避けなきゃ死ぬ。
次こそお腹や首を狙ってくるかもしれない。
お腹は柔らかいのだ。
お腹を刺されたらどうなるだろう。内蔵とか出ちゃうかもしれない。
小学生の志村志信くん、刺されて死ぬ。犯人は死刑。そんな新聞の一面を想像した。
だめだ。ショコラママが死刑になっても、僕が死んだらおしまいだ。死にたくない。
僕の人生というまんがの主人公が僕なら、主人公が死んだらこのまんがは終わりになっちゃうんだ!
「うわあああああああああっ!」
志信はお腹から大声を出した。だからといって何かが変わるわけはない。
でも、変化はあった。
ナイフを振りかざしたままのショコラママが、前のめりに倒れてきたのだ。
「ノブくん!」
その向こうに、倫江が立っていた。ショコラママを殴ったのであろう、熱々のフライパンを握りしめて。
「警察だ!」
その時、お巡りさんが駆け込んできた。
……遅いよ。
緊張の糸が切れた志信の意識は、闇に閉ざされた。
週が開けないうちに、急遽、海外から戻ってきた聖心愛の父親――希博が再び玄関で土下座していた。
ショコラママはあれから病院で手当を受けたが、頭をフライパンで強く殴られたわりには記憶の混濁も大きな怪我もなく、そのまま警察の取り調べを受けた。質屋にいれられた盗品も、希博が責任をもって取り戻してくれた。
その後、事件が明るみになるにつれ、他のひとたちが『わたしもやられた』『うちもやられた』と、わらわら余罪が出てきて罪は重くなっていく。
当然、窃盗だけではなく傷害の現行犯でもあるショコラママは、刑事裁判にかけられることになった。窃盗に関しては民事なので示談で済ませることもできたが、警察の目の前で行われた傷害はそうはいかない。刃物を持ってこどもに馬乗りになっていたのだから、殺人未遂でもおかしくないのだ。
さらに、半年前の事件で、希博が志信たちの診断書をとらせていたのが効いた。それそのものは問われることはなかったが、裁判官の心証には影響したようだ。
なぜ希博が自分の不利になる診断書をとらせて、裁判所に提出したのかは、今でもわからない。もしかすると、ショコラママとの離婚のきっかけを探していたのかもしれない。
結果、ショコラママは有罪。執行猶予がつき、希博からは離婚を言い渡された。
当然、聖心愛は希博の家で祖父母とともに育てられると思ったのだが……。
事件から半年後。離婚調停なども含めて揉めに揉めたあと、聖心愛が志信の家に来た。
「なあ、志信……あたし、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「えっ……間違いなく僕の子なの?」
「心当たりねえよ!」
「じゃあ別の男がいたのか!」
「誰とも心当たりねえよ!」
「誰と寝たんだこの雌豚!」
「だから、なんで豚なんだよ」
「なぜ豚を嫌う?」
「嫌ってねえよ!ああ、もう!」
聖心愛はそこで大声をだし、一旦仕切りなおす。
「オメー、あたしが神妙になってるからってセクハラに逃げるのやめろよ」
「……うん、ごめん」
「あたし、母ちゃんの実家に行く事になったんだ」
「えっ」
「なんかさ……母ちゃんの親がすっげえ弁護士雇ったとかでさ……。親権っての?母ちゃんが勝ったらしいんだよ。こういうとき、虐待とかがなければ母親の方が有利なんだってさ」
「虐待ならされてるじゃないか!」
志信は聖心愛のシャツに手をのばす。
「さわんなよ」
「虐待ならされてるじゃないか!」
志信は聖心愛のシャツに手をのばす。
「よせって」
「虐待ならされてるじゃないか!」
志信は聖心愛のシャツに手をのばす。
「しつけーよ!殴るぞ!」
「ごめんなさい殺さないでください」
「そこまでしねーよ!」
「でも……その、タバコ、押し付けられたのは虐待に数えられないの?」
「一回だけなら事故かもしれない、ってさ」
「そんな……!」
「で、その母ちゃんの実家ってのが……遠いんだ」
「どこなの?手紙出すよ!」
「……もう、やめにしようぜ」
「待ってくれ、僕の何が不満だったんだ」
「……そういう冗談じゃなくてさ、本当に、もう別れようぜ。あたしら」
聖心愛は絞り出すような声で言った。
「もう、あたしのことは忘れてくれよ。どんだけオメーに迷惑かけたと思ってるんだ?」
「でも、それは君のお母さんが……」
「あたしが立てた作戦のせいで、あんたも、あんたの母親も死ぬところだったんだぞ!」
聖心愛はぴしゃりと言った。
「……だからさ、あたしみたいな疫病神のこと、忘れてくれよ」
「忘れられないよ、君の身体のことなんか」
「身体だけじゃねーだろ!このドスケベ!」
聖心愛は言って、志信をこづいた。
「あ、いや……そもそも身体の関係なんかねーだろよ……」
「うん、まあね」
「それだよ。オメーみたいな変な奴のこと、あたしだって忘れるの大変なんだぞ」
「聖心愛……」
「あたしと、オメーは二度と会わない。あたしだって辛いんだ」
聖心愛はそれだけ言って、立ち上がった。
「そんなの嫌だよ!聖心愛、僕……聖心愛のこと……」
「好きだなんて言うんじゃねえよ!」
聖心愛は志信の言葉を遮って言った。
「それはオメーの勘違いだ。あたしは手近なセクハラのターゲットでしかねーよ。あたしみたいなの好きになるわけねーんだよ!」
聖心愛はそう言うと、志信の両頬をおさえつけた。
そのまま黙って唇を寄せる。言葉と行動のあまりの不一致に驚いた志信は、何もできないままそれを受け入れた。
唇と唇が触れ合い、そして離れた。
「これはオメーへの礼だ。それ以外なんでもない。だから、勘違いするな」
聖心愛はそう言い残して、志信の部屋を立ち去った。
玄関の外に出た時、聖心愛はエレベーターを待ちながら、誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「……あたしがオメーのこと好きだってのも、きっと勘違いなんだよ……」
コンクリートの床に、黒い水滴の染みができて、消えた。