第二章 第三話
「ねえ、ノブくん。お母さんの結婚指輪知らない?」
「えっ、なくしたの?」
聖心愛たちが帰って一時間くらいあと、倫江が困った顔で問いかけてきた。
倫江の結婚指輪はダイヤのついたプラチナのリングで、普段は炊事もあるのでつけていない。テレビの前の指輪置きに父の指輪と並べておいてある。
「今朝お父さんが自分のをつけていったときはあったんだけど……それに……」
そこで倫江は言葉を切る。
「……ううん、なんでもないの。知らないならいいわ」
「なんでもないって……」
すぐに志信は気づく。
「……もしかして、ショコラママ?」
「――!」
「ショコラママがうちにきてすぐ帰ったのって、それで……」
「だめ、ノブくん。人を疑っちゃ……」
倫江はこどもの手前、そう言い聞かせてるだけなのかもしれない。その顔は明らかに、ショコラママを疑っていた。
「とにかく、お父さんが帰ってきてから相談しましょう」
「勉強代だと思って諦めろ。これに懲りたら他人を簡単に家に入れるんじゃない」
夕食の席で倫江が一連の話をすると、うんざりとした口調で勇助はこたえた。
「その……警察に連絡したほうが……」
「警察は面倒だ。盗まれるお前が悪い」
倫江は食い下がるが、まったく取りつく島もない。
夕飯がなかったら志信は今すぐにでも逃げ出したい空気だった。
「結婚指輪くらいで情けない。別にあんなものは形だけでいいんだ。また買えば良いだろう」
「でも……」
「もうこの話しは終わりにしろ。飯がまずくなる」
「お義母様から頂いた婚約指輪も一緒に……」
「何?」
勇助の箸が止まり、声が一段と険しくなる。
「あの婚約指輪もなくしたって言うのか?」
勇助が倫江に贈った婚約指輪は、大きな石がはめ込まれた純金の指輪。勇助の祖母から母に託され、倫江にと伝わってきたものだ。当然、代々の思い出が詰まっている。
「なぜそれを早く言わないんだ!他には何が盗まれた?」
「あなたの物がなくなってないか見て欲しいの」
聞くが早いか、勇助は棚に目をやってすぐ気付く。
「畜生!俺の腕時計がみんな無くなってるじゃないか!警察を呼べ!」
さっきまで通報するなと言っていたのに、その主張を勇助はころりと変えた。
父の腕時計コレクションは、志信には価値がわからない。だが、気に入ったであろうものがいくつかリビングに飾ってあった。しかしそれらも軒並み消えていた。
要するに自分の大切なものさえ無事なら気にならなかったわけだ。志信はまた一つ、父が嫌いになった。
電話をして数分。警察官が一人駆けつけてきた。
「えーと、電話でもお伺いしたんですが、もう一度最初からいいですか?」
倫江が今日二度目になる説明をする。
「するとその加藤さんと言う方が……なるほど。それは、難しいですねえ」
「難しいですって?僕の腕時計は購入価格は数万円じゃ済まないんですよ」
「いや、内容じゃなくてですね。持っていったのが知り合いと言うことになると……まず間違えて持っていってないかとか聞いていただきました?」
「どうなんだ、母さん」
警察官に食ってかかっていた勇助が、矛先を倫江に変える。
「いえ、まだ……」
「ええ、ええ。ではですね。警察は民事不介入と言いまして……」
「民事ですって?泥棒ですよ!」
「まあ落ち着いて聞いてください」
警察官の話すことは志信には難しすぎた。よくわからないけど、盗んだひとが知り合いの場合は『間違って持って帰った』とか『勝手に借りた』など、ひと付き合いをする上でのトラブルと言うふうに警察では判断してしまうそうなんだ。
で、警察の原則ではそういうトラブルには介入できないことになっている。どっちが悪いか警察から見て明らかじゃない場合は警察は動けないそうだ。
それだけ説明すると、警察官は帰っていった。
それからすることは、ただ一つ。
「加藤さんに電話だ!早くしろ」
勇助が声を荒げる。自分でやればいいのに。
引っ越し先の電話番号はわからないが、幸い聖心愛の父、希博の携帯電話番号は以前の騒ぎのときに、念のためと言うことで控えていた。
「…………だめ、電源が入ってないみたい……」
「なんだって?」
倫江を怒鳴りつけた勇助は、自分の携帯から電話をかける。それも駄目だとわかると、固定電話からも電話をかける。
「くそっ!お前の不注意が原因だからな、なんとかしろよ!」
勇助は乱暴にコードレスホンを叩きつけ、悪態をついて寝室へと帰ってしまった。
残された倫江と志信はどうしていいかわからず呆然とするしかなかった。
次の日は土曜日。勇助の会社も志信の学校もお休みだ。
勇助は朝食の席で一言も口をきかなかった。怒りが収まっていないのは全く隠そうともしていない。倫江はずっとびくびくしていたし、志信もそれが不快だった。
お母さんには悪いけど……今日は遊びに行こう。
志信は朝食を済ませると、逃げるように家を飛び出した。
自転車にまたがって……さてどこへ行こう。
マンションのエントランスを出る前に、駐車場に白いミニバンが停まっているのが目に入る。一瞬ドキリとするが、それは聖心愛の家の車ではなくて、別の住人のものだった。
あの時、ショコラママに先回りさえされてなければ……。
『あのショッピングセンターができてからさ……始めたんだよ。しかもほぼ毎日』
ふと、志信は聖心愛の言葉を思い出した。
それが本当なら、休日の今日は絶好の狩り日和じゃないか。きっと今日もショコラママはショッピングセンターで例の『もらってあげる』をやってるはずだ。
志信は自転車をショッピングセンターに向けて走らせた。駐輪場に自転車を停めるのももどかしく、一回の食品スーパーマーケット目指して走りだす。
思った通り、作荷台のところに、ショコラママがいた。ちょうど今、老婆相手に『もらってあげる』をやってるところだった。
その老婆は耳が遠いのか、それともショコラママの非常識な発言が理解できないのか、何度も聞き返しているようで、だんだんショコラママも苛立ってきているようだ。
志信はまた『お金ないの?』をやるべきかと悩んだ末、一歩足を踏み出した。
「やめとけよ」
その時、後ろから声をかけられた。振り向いてみるとそこには聖心愛がいた。
「ほら、見てみろ」
聖心愛に促されてみてみると、店員が駆けつけてきたところだった。ショコラママは慣れた様子で逃げ出していく。
「こっちだ」
聖心愛は志信の手を引いて三階まで登った。トイレの前の休憩スペースに座る。
「来ると思ってたよ。オメー、あれだろ。なんか盗まれただろ」
「僕は聖心愛の心を盗もうとしたんだけど」
「バカ。あたしゃ本気で心配してるんだぞ。……悪いな、くそ、あのババア……」
「気づいてたの?」
なんで止めなかったんだよ。と言おうとして志信は考えなおした。聖心愛は志信の部屋にずっといたのだ。聖心愛に止められるはずがない。それに、あのショコラママに逆らえば聖心愛といえどただじゃすまない。
「さっき質屋に寄ってたんだよ。指輪とか時計とか金に替えてたんだ。どこから持ってきたのかと思ってたんだけど……やっぱりな」
「質屋!? 売っちゃったの?」
両親の大切な指輪や時計が売られてしまった。もう戻ってこないかもしれない。志信は目の前が真っ暗になった。
「ああ、ああ。安心しろ。質屋ってのは売るところじゃなくて貸すところなんだよ」
「えっ?」
「質屋に物を貸して金を借りる。金を買えせなかったら質屋はその物を他人に売って金に替える。そういう仕組なんだ。だから、すぐに金を返せばなんとかなる」
「なるの?」
「……と、思う」
聖心愛は自信無さげに言った。
「聖心愛!もう、聖心愛が売られちゃえばよかったのに」
「失礼だなおい」
「そしたら僕が買うから」
「お断りだ!とにかく、質屋の仕組みはよくわかんねーんだよ。けど、多分急げばなんとかなる……と思う」
相変わらず不安定な語尾の聖心愛に、志信は不安を覚えた。でも、まだ希望があるのは確かなようだ。
「そんでオメー、警察に言ったのか?」
「それが……」
志信は昨日、警察に言われたことをかいつまんで、セクハラ混じりに話した。ただでさえ志信も理解できてないあやふやな説明なので聖心愛には全く理解できなかったようだが、聖心愛はしかしこう言った。
「つまり今のままじゃ、警察はどっちが悪いかわからなくて動けない、ってこったろ?」
「うん……だから、君のお父さんに相談したかったんだけど……」
「あー。駄目だ。親父いま、仕事でアメリカにいるんだわ。帰るのは半年くらい先だって話」
それで電話が通じなかったのか……。志信は愕然とする。
「まあ、でも任せとけ。どっちが悪いのか警察の前ではっきりさせりゃいいんだろ?」
「そうだけど……」
「あたしに考えがある。オメーは先に家に帰って、あたしが言うとおりにしてろ」
聖心愛はそう言っていたずら笑いを浮かべた。