第二章 第一話 志信、小学校五年生
あれから半年くらいたちました。
それから半年後、志信は五年生になった。
あれから聖心愛には会っていない。マンションも引き払ってしまったし、学校も違うので、会う機会がそもそもないのだ。
もちろん、引越し先の隣町からわざわざ押しかけてくることもない。
おかげで母である倫江は、憑き物がとれたように元気になった。十数年にわたるストレスからついに解放されたのだ。
それとは逆に、志信は抜け殻のようになっていた。
家に帰っても聖心愛がゲーム片手に待ってたりはしない。
ましてや、ラブホテルの前で見張ってたりする必要もない。
志信は孤独を噛み締めていた。
そもそも、志信には学校帰りに一緒に遊ぶような友達がいなかった。家に聖心愛がいるせいで、友達を招いたり、友達の家に行ったりしづらかったからだ。
聖心愛が抜けた穴は大きい。
「穴があっても入れられないんじゃ意味ないよなあ……」
志信は誰にでもなくつぶやく。そんなシモネタを言える相手も、もういないのだ。
自分の人生の中に、どれだけ聖心愛が食い込んでいたのかがよくわかった半年間だった。
かといってそれを友達に話すことなんかできやしない。失恋だのなんだのはやされるのはまっぴらごめんだ。
これもぜんぶ聖心愛が悪いのだ。
聖心愛が僕の生活に入り込みすぎていたのが悪いんだ。
聖心愛が……。
聖心愛、元気でやってるかなあ……。
あのキョーレツなショコラママのところじゃ苦労するだろうけど、おじいちゃんおばあちゃんと一緒なら、なんとかなるのかな?
こんなふうに、少し気を抜けば聖心愛のことばかり考えている毎日である。
そんなある日、学校から帰ってきた志信に倫江が言った。
「ノブくん、駒江通りの向こうに新しいショッピングセンターができたんだけど、行く?」
新しいショッピングセンター!なんと甘美な響きだろう。
ショッピングセンターといえば、いろんなお店が入っている。おもちゃ屋さんや本屋さん、あるいはこども向けのゲームコーナーやファーストフードショップも入ってる。だから、そこはきっとこどもだけじゃなくて、おとなも楽しい場所なんだろう。
今までショッピングセンターに行こうとすれば、どこに行くとしても車の距離だった。けれども新しいショッピングセンターは自転車でも行ける距離らしい。
こども一人で遊びに行く事だってできる。聖心愛がいなくなった寂しさを紛らわすには最適な場所かもしれない。
「行く!」
志信は迷わず答えた。
それから車で十数分、駒江通りを道なりに進んで、大学病院を過ぎたあたりにそのショッピングセンターはあった。三階建てで地下は駐車場。一階は食品、二階は衣料品、そして三階は志信のためにあるようなこども向けフロアだ。
おもちゃ屋、本屋、文房具屋、こども服屋、ゲームコーナー。そういったものが志信の目を輝かせていた。
倫江も今日は目的があって来たわけではないのか、一階二階は軽く回って、すぐ三階に志信を連れてきてくれた。このところ何かと沈みがちな志信を気遣ったのだろう。
実際、志信にはこれまでのことをすっかり忘れるくらい楽しかった。本屋では立ち読みして、文房具屋でも楽しそうな文房具をいくつも見た。もちろん、おもちゃ屋とゲームコーナーも忘れない。
特に志信が気に入ったのは、文房具屋で買った『まんがの描き方&画材セット』だ。
志信だってあれから半年。まんがの絵を模写したり、少しずつ絵はうまくなってるつもりだ。けれども、つけペンとかスクリーントーンとか、そういうものはいまだ未知の領域だった。それらがこのセットには詰まっているし、自己流じゃない絵の練習方法もきっとこのセットで勉強できるだろう。
「あれ?」
お宝を抱えてご満悦の志信の視界に、見覚えのある後ろ姿がうつった。
人ごみをかき分けてトイレの方まで走っていった、茶髪の女の子。あの後ろ姿は、聖心愛じゃないか?
「どうかしたの、ノブくん?」
「あ……別に。なんでもないよ。見間違い」
聖心愛のような人影は正直なところ、気になる。けれども聖心愛は母の悩みの種だったのだ。母がいる今、聖心愛にかかわっちゃいけない。志信はそんな気がして黙っていた。
「それじゃあ、夕飯のお買い物をしましょうか」
一階の大部分は食品スーパーマーケットになっている。そこでは新装開店特売をしていて、色々なものが安く売っている。当然、開店したばかりなので物珍しさにお客さんも多い。
今度は倫江の目が輝く番だ。お惣菜、野菜、肉、魚、飲み物……買うものはいっぱいある。
志信はショッピングカートを押して倫江の後を追いかけた。カートにはうずたかく品物が積まれていく。もちろん志信はこっそりお菓子を紛れ込ませるのも忘れない。
かさばるのは特にトイレットペーパーだ。お一人様お一つ限りなので、二人だから二パック買える。
「……あっ」
つーっと、ローラーのついた靴を滑らせて目の前を横切った女の子。さっきと同じ子だ。間違いない。あれは聖心愛だ。隣町に引っ越したって言ってたけど、この近くなのだろうか。
追いかけたい気持ちはやまやまだけど、志信はそれをぐっとこらえた。あっという間に聖心愛の姿は人ごみに紛れて見えなくなる。
「ノブくん、お菓子買う?」
「あ、うん……もう、入れちゃった」
「だと思った。素直でよろしい」
それから志信は倫江と一緒にレジに並んだ。こんなに混んでるレジは初めてだ。
店員さんがお金を入れると自動的にお釣りが出てくるレジが珍しかった。まるで自動販売機だ。店員さんはいらないんじゃないかな?志信はそう思ったけど、そうしないとやっぱりズルをするひとがいるんだろうなと思って考えなおした。
それから二人は作荷台にカートを横付けして、袋に買い物を詰め込んでいった。
トイレットペーパーはそのまま持てるようになっているので袋には入れない。これはかさばるけど軽いから僕が二つとも持とう。志信は考えた。あとはお母さんが持てるかな。
しかしそのとおりにはならなかった。出来上がったのは大きな袋が四つとトイレットペーパーが二つ。一週間分くらい買いだめしたのだから仕方がない。
「ちょっと買いすぎちゃったね。どうやって持っていこう」
倫江が言ったその時だ。
「そんなに買ったら持って帰れないですよねぇ?もらってあげますよぉ」
二度と聞きたくないと思っていた声で、意味のわからない内容が聞こえてきた。
振り返るとそこに、気持ち悪いニヤニヤ笑いを浮かべた二十代半ばの派手な女……ショコラママが立っていた。
ああ……やっぱりあれは聖心愛だったんだ。志信は後悔した。聖心愛がいるならショコラママがいてもおかしくない。出来れば、ショコラママと自分の母親を会わせたくはなかった。
「……加藤さん……」
「あ、なんだ。志村さんじゃないですかぁ。なにやってるんですかぁ?こんなところでぇ」
「あの……買い物を……」
「でもぅ、そんなに買っちゃったらぁ、持って帰れないですよねぇ?うちがもらってあげますよぅ」
「え?」
「だからぁ、もらってあげるって言ってるんですよぅ」
志信にも、倫江にも、ショコラママの言っている意味がわからなかった。
「あ、あの……うちで必要なので買ったものですから……」
「でもぅ、持って帰れなきゃおんなじじゃないですかぁ。遠慮しないでくださいよぅ。うち、車で来てますからぁ」
倫江がしどろもどろに断るが、ショコラママは全くこたえた様子がない。
その時、志信の視界の端にうつるものがあった。
聖心愛だ。聖心愛はショコラママを指でさして、親指で首をかっ切るポーズをする。
やっちまえ……と言いたいのだろうか?しかしここで僕は何をしたら……。
「あの、ショコラママ……さん」
「ほら、志信くんだって喜んでるじゃないですかぁ」
「お金、ないの?」
瞬間、ショコラママが凍りついた。その向こうで聖心愛が大きくガッツポーズをしている。いいぞもっとやれ。そんな風に言ってる気がして、志信は続ける。
「お金がなくてお買い物ができないんでしょう?だから……ええと、かわいそうだよ。お母さん。なにか食べ物をめぐんであげないと、飢え死にしちゃうんでしょう?」
志信はそこまで言って、言い過ぎたかと思った。あの日のショコラママを思い出したからである。もしショコラママがここでキレたらどうなっちゃうんだろう。
恥という概念がショコラママにあれば、これでいなくなってくれるかもしれない。けれども、半年前みたいになったらどうしよう……。
ややあって――。
「や、やだ。志信くんってば。冗談だよ」
ショコラママの口から搾り出された言葉を聞いて、志信は安堵した。怒りを堪えているようだったが、この様子ならいきなり殴られたりはしないだろう。
「それじゃ、うち、帰りますんで。おつかれっした」
そう言い残して、ショコラママはゲラゲラ笑う聖心愛の方へ戻っていった。
志信は脚ががくがくして何もできなくなってしまったが、そこに思いもよらぬ言葉がかけられた。
「ノブくん、だめよ。ああいうことをひとに言っちゃ」
倫江は厳しい口調でそう言った。
どうして?だって志信の機転で買い物は守られたのだ。むしろ褒めて欲しいくらいだ。
志信は母親に逆らおうとして、やめた。倫江の顔もまた真っ青で、ショッピングカートにしがみついて立っているのがやっとに見えたからだ。