第一章 第三話 章末
ピンポーン。
七時を過ぎた頃だろうか。志村家のチャイムが鳴った。
倫江は相手が誰だろうかと考えたりしなかったのだろうか、無警戒にドアを開けた。
「こんばんはぁ。志信くんいますぅ?」
志信はその声を聞いてキンタマが縮み上がった。――ショコラママだ!バレていた!
どうしよう。当の聖心愛はついさっき家に帰った。まさか聖心愛が裏切った?違う、そんなはずはない。僕は聖心愛を信じている。志信の頭の中がぐるぐる回る。
「いるんでしょう、志信くん?出といでぇ」
気持ち悪い、演技過剰な猫なで声が家中に響き渡る。
足音が聞こえる。倫江の制止を振りきって、ショコラママが上がり込んできたようだ。
「志信くーん。ここかなぁ?」
ガラガラガラ。
リビングのスライドドアが開けられた。
だが、そこに志信はいない。
志信の部屋は一番奥。狭いマンションの中では、一部屋ずつ開けてもすぐだろう。
他の部屋のドアが開く音が、少しずつ近寄ってくる。
足音が、部屋の前で止まった。ドアノブにてがかかる気配がする。もうだめだ、殺される。
「あの、加藤さん」
倫江がショコラママを呼び止めた。
「志信になんの御用でしょうか」
違うよ、母さん。志信は出かけてると言ってくれればいいんだ。志信はドアノブをおさえながら祈った。
「そんなの決まってるでしょ」
ショコラママは言った。瞬間、語調が猫なで声から怒気をはらんだものにかわる。
「カメラ出せってんだよ!」
ドアノブがものすごい勢いでひねられた。バリアフリーのL字型ノブは下向きにひねるので、体重差で志信はそれを防ぐことはできなかった。そのまま志信はドアに吹き飛ばされ、ベッドに頭をしたたかに打ち付けて鼻血を流す。
「加藤さん!」
「るせーんだよ!っこんでろ!」
この期に及んでも、倫江にはそれを言うだけが精一杯だった。返す刀でショコラママに突き飛ばされる。
「どこだよカメラはよぉ!」
多馬川を走りながらぶつけられた怒号が志信の中にフラッシュバックする。
ショコラママが志信の首根っこを掴み、高く持ち上げた。
「てめえなんだろ?コラ、カメラ出せよ!」
カメラと言われて志信は反射的に学習机に目をやった。しまった。気づいた時にはもう遅い。ショコラママが机の上に乗ったカメラに気づく。どこかに隠すだけの余裕はあったのに――志信は後悔した。
ショコラママは志信を投げ捨てるように解放すると、学習机の上に置かれたデジカメをとって電源を入れる。一番最初に表示された画像が、さっきのホテルでの一幕だというのを確認して、メモリーカードを乱暴に引きぬく。
「や、やめろっ」
「こんなもん!」
志信の抗議の声をショコラママは無視し、爪ほどの大きさの、小さなメモリーカードを歯で砕き、プッと吹き出した。
「よくもやってくれたなクソガキ!」
「あ、ああ……」
データをパソコンに移したりはしていない。明日になったら駅前の写真屋さんの機械でプリントするつもりだったのだ。
志信はすべてが無駄になったと理解した。
立ち上がろうとするも、頭がクラクラして動けない。そこをショコラママに掴まれる。
「聖心愛と遊ばせてやってんのに何が気にくわねーんだよ?金か?ガキのくせに金目当てで脅迫しよーってのか?」
もはや何を言われてるのかすら、志信には理解できなかった。左右のミミから飛び込んできた言葉が、そのまま鼻から血とともに抜けだしていくようだった。
そもそもなんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。志信は改めて悔やんだ。
聖心愛のため?違う。聖心愛に平穏を乱されたくなかったからだ。
聖心愛が、全部聖心愛が……聖心愛が……。
「聖心愛が……悪い」
「あん?」
思わず口から出た言葉を、ショコラママは聞き逃さなかった。志信を押し倒して馬乗りになる。
「うちの姫が何したってんだよ!」
うちの姫、だってさ。これがタバコを押し付ける母親の愛情なのかな。僕ならタバコじゃなくて下半身を押し付けるけど。志信はもう自分が何を考えてるかわからなくなって、おかしくなってしまった。それが顔に出たのだろう、ショコラママのカンに触れてしまったようだ。
「なに笑ってんだよぉ!」
志信の首にショコラママの手がかかった。ぐえ、声が漏れる。
倫江は倒れたまま動かない。失神しているのかもしれない。
ああ、こりゃ死んだな。エロガキだったバチがあたった。童貞のまま死ぬんだ。意識が遠のきかけたその時、ふっと身体が軽くなった。ベッドの弾力を感じる。
「よせ!なんてことをしてるんだ!」
ぼやけた目でみると、おとなの男が、ショコラママを引き剥がしてくれたようだった。
「パ、パパ……」
誰であろう、聖心愛の父にしてショコラママの夫、希博だ。
聖心愛は聖心愛で、倫江に声をかけて起こしたところだった。
「落ち着け!自分が何をしていたのかわかってるのか?」
「だって、パパ……」
「だってじゃない。聖心愛から話は聞いた。まだ聞いていないが証拠もある」
言って、希博が差し出したのは長時間録音対応のICレコーダ。
「君のかばんに聖心愛が忍ばせておいたものだ。今日、君が誰と会って何をしていたのかすべてわかるそうだ」
すべてわかるって?じゃあ、カメラは……。
あはは……それじゃ、僕のやったことは無意味じゃないか。一体、僕はなんのためにこんな苦労をしたんだろう。
希博は志信と倫江のために救急車を呼び、病院で診断書を作らせるよう指示して、自分はショコラママを連れて家に帰った。
それからしばらくしたある日。
志村家のリビングに加藤家がやってきて、話し合いの場がもたれることになった。
「この度は長年にわたりご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
玄関でいきなり土下座をする希博を、志信の父、勇助がなだめ、リビングに通す。ショコラママはずっと仏頂面をしてその横に立っていた。
あのあと。
希博がショコラママを問い詰めた結果、長い間ずっと聖心愛を志村家に押し付け、無料託児所扱いしていたことを、ようやく希博も理解した。
その理由はほとんどがショコラママの不倫。あの大学生だけではなく、聖心愛が小さい頃からとっかえひっかえ不倫を繰り返していたそうだ。初めて聖心愛が志村家に来た日、『ダンナとデートなんで』と言ったが、その時ですら実は不倫だったらしい。
そして今日。勇助の仕事が早く片付く日にあわせて、謝罪に来たのだった。
「今後の対応ですが……隣町のわたくしの実家に引越し、母に妻を見てもらうつもりです。もちろん、二度と聖心愛をこの家に連れてこさせたりはしません。妻と娘がご迷惑をおかけいたしました」
違う、聖心愛は……。
志信はそう言いかけて、やめた。おとなの話にこどもが割り込むものじゃない、と知っているからじゃない。
実際、聖心愛には確かに迷惑をかけられ続けていたのだ。ゲームは取り上げられるし、両親は不仲になるし……。
でもあの日、聖心愛は志信の共犯者だった。
その興奮が忘れられないのだ。
「まあまあ、頭を上げてください。聖心愛ちゃんはとてもいい子ですから、大丈夫ですよ」
なにが大丈夫なものか。志信は自分の父親が、聖心愛のことをなにも知らず、母親の苦労も知らないまま、そんなわかったようなことを言うのが気に食わなかった。
けれども志信はぐっとこらえた。あの聖心愛も借りてきた猫のように、終始無言で静かにしている。だから志信も黙っていた。
聖心愛は、こんなおとなしい子じゃなかったはずだ。
そして加藤家が志村家をあとにするとき、深々と頭を下げる希博の隣で、ショコラママはついに一度も頭を下げることが無かった。
そのかわり、志信は今まで聖心愛から聞いたことのない言葉を聞くことができたのだ。
「ありがとな……志信」