第一章 第二話
「来たぜ、愛人」
「うん。準備はバッチリ。僕もうがまんできない」
「何をだよ。静かにしてろ」
次の土曜日。
志信と聖心愛は、マンションの駐車場で加藤家の車を見張っていた。
もちろん加藤家の車と棟への玄関が両方とも視界におさまるところに来ている。
今日は車でデートらしい、というのは事前の聖心愛が電話を盗み聞きして簡単にわかったそうだ。
「でも、車どうやっておっかけるの?僕、ドエムだから馬になるのはいいけど、そんなに足に自信はないよ」
「ドエムで馬っておかしくね?」
「普通は豚だよね。こりゃしまった」
「なんでいま豚の話だよ」
「なぜ豚を嫌う?」
「嫌ってねーよ!ともかく、そういうのは聖心愛様におまかせあれ。まあ、見てなって、ほら。来たぞ。あいつだ」
聖心愛が指し示す方向には、ショコラママと同い年くらいの……いや、もっと年下の大学生くらいだろうか、真面目そうな眼鏡の青年がいた。青年は携帯をいじりながら聖心愛の棟に入っていく。
「なんか、想像してたのとタイプが違うなあ」
「でも間違いないぜ。あのヒョロっちいの。母ちゃん趣味わりい」
志信としては既婚者の愛人男といえば、茶髪だったり、アクセサリをジャラジャラさせたりするような男を想像していたのだが……。本当に拍子抜けするくらい、真面目そうな青年である。不倫などするようには見えない。
「そういえばあいつ、なんか志信に似てねえ?」
「似てないよ」
「マジで母ちゃん趣味わりい」
「こっちからお断りだよ」
「しっ、隠れろ」
眼鏡の青年が棟から出てくる。その後を追うようにして……冬場だというのに胸の谷間を大きく強調したシャツにミニスカートといった、派手というより下品な装いをしたショコラママが出てきた。
「おいこら志信、おっぱいガン見してんじゃねえよ」
「あ、ごめん。つい我慢できなくなって」
「ついじゃねえよ、誰だよこっちからお断りって言ってたの」
「おっぱいはともかく、二人が車に乗っちゃうよ。どうするの?」
「大丈夫。タイヤの下に釘を仕込んで置いたのさ。出発と同時にタイヤがパンクするって寸法よ」
「それって犯罪じゃない?」
「犯罪スレスレのオメーに言われたくねーよ?」
やがて、車のエンジン音が聞こえてきた。
「三、二、一……で、パン!だ」
志信の隣に隠れた聖心愛がわくわくした声で言った。
「それ、三、二、一……まだか?三、二、一……」
ジャリ……ザザッ……ブロロ……。
加藤家の白いミニバンの、隣の空きスペースに停められていた、青いオープンカーが走りだす。運転席には眼鏡の青年、隣にショコラママ。
「しまった、愛人の野郎の車で行きやがった!」
「ま、そういうオチだろうと思ったよ」
「よし、走るぞ!」
「ヒヒーン!いや、無理だからね」
「期待してねえよ。第二の策だ、これ見ろ」
聖心愛が志信に見せた紙切れには、二つの英単語が書かれていた。
「え、これ川向こうにある看板じゃないか」
志信はマンションの自分の部屋から見える光景を思い出す。聖心愛の棟と逆の志信の棟からは、多馬川が一望でき、向かいは幟戸駅周辺だ。商業ビルが多く、夜になると様々な明かりが見えてすごく綺麗である。
その中にひときわ目立つネオンサインが二つある。それが確か、聖心愛に見せられたメモの名前だった。
「ラブホでしょ?これ確か」
「そ、そうだよ。ら、ラブホテルってやつだよ」
「聖心愛、ラブホが何するところだか知ってるの?」
「知らねーよ!けど、母ちゃんの財布にポイントカード入ってたんだよ。で、ほら。看板が派手なホテルはラブホテルだってテレビで言ってたからよ、じゃああそこが行きつけなんじゃねーかなって思ったわけよ」
「ふーん……」
「バカにすんなよ、あたしだって、結婚してる女が他の男とラブホテル入っちゃいけねーってくらいはわかってんだからな。とにかく、母ちゃんが使ってるラブホテルはそのどっちかってことだろ?隣同士の店だから、その前で見張ってようぜ」
おとなになって考えてみればこの理論はおかしいとわかる。
ラブホテルにだけ行くのであれば近場を選ぶのは自然だが、ドライブデートなのだから遠くのラブホテルを利用する可能性もある。
けれども、ラブホテルなど縁のない小学生二人には、そんなことはまったく思いつかなかった。
「来たぞ。あの車だ」
聖心愛の示す方向から青いオープンカーが走ってくるのを確認して、二人はラブホテルに向かって走りだした。
あれから、二人は二軒のラブホテルの駐車場に忍び込んで、青いオープンカーが来ていないことを確認すると、すぐ逃げ出した。
そしてご休憩三時間、宿泊は何時からと書いてあるのを見て、宿泊はないだろうから休憩を想定。だいたいショコラママが家に帰る時間から逆算して、余裕をもってその四時間くらい前からラブホテル近くに張り込むことにした。
といってもラブホテルの目の前は、隠れるところもない狭い道路と、土手のサイクリングロード。だがその狭い道路が一方通行だったので、その道をさかのぼって、織田急線の鉄橋の下で待ち構えていた。
前述のようにそこはこどもの浅知恵であり、そのホテルに来るとも限らないのだが……ポイントカードを持っているくらいだから常連なのだろう。張り込みをはじめて間もないうちに、例の青いオープンカーがやってきた。
志信たちにとってはオープンカーだったのが幸いした。乗っているショコラママをはっきりと目視できたのだからだ。
オープンカーがラブホテルに入ろうと、ウィンカーを出して減速する。
「撮れたか?」
「バッチリ聖心愛が怒鳴った顔が!」
「ばかじゃねーの!?」
「冗談。車はバッチリ写したけど、顔が見えないや、これじゃ」
「よし……行け!」
「おう!……え?」
「駐車場に入ってこい。オープンカーだから屋根閉じて、車降りるまで少し余裕があんだろ、ホテルに入った現場をおさえろ!」
「ええっ、僕が?」
「あたしがやったらこうなるんだよ」
聖心愛は自分の腹をポンポンたたく。タバコを押し付けられた跡は記憶に新しい。
「でも、僕ハメ撮りはやったことがなくて」
「やるな!」
「――わかった!」
志信はカメラを構えたまま飛び出した。カメラを構えれば顔はある程度隠せるだろうから、見つかってもなんとかなるだろう。
土手を駆け降り、ラブホテルの駐車場に飛び込む。ちょうど、車がキャンバス地のルーフを閉じるモーター音が聞こえてきた。よし、間に合う――。
物陰から志信はショコラママをよーく観察した。
車を降りて、男と並んだ時が勝負。
いや、車から降りただけでも充分かな?車がラブホテルに入るところも写してるのだから、二枚あればわかるはずだ。
けど、枚数は多いほうがいい。降りたところと並んだところ、両方撮ろう。
ガチャ、助手席のドアが開いた。
一秒が何分にも長く感じられる。
編みサンダルをはいた脚が降りてきた。ドアの影でまだ顔は見えない。
焦るな……。早くていいことはなにもない。志信は自分にそう言い聞かせた。
助手席からショコラママが立ち上がる。よし、見慣れた不愉快な顔が見えた。志信は人差し指に力を込める。
パシャ。
フラッシュが眩しく光った。同時に盗撮防止のための電子音も響く。
志信が気づいた時にはもう遅い。フラッシュに気づいたショコラママが恐ろしい顔でこちらを見ていた。
「このガキ!」
顔に違わず恐ろしい声で言葉を吐きながら向かってくるショコラママに、志信はすぐ気を取り直す。逃げなければ、何をされるかわからない。
駐車場を飛び出し、土手を駆け登る。顔を見られてはだめだ。絶対に振り向いちゃいけない。
「待てコラ!」
女性からこんな乱暴な言葉が飛び出すとは、志信には衝撃的だった。
聖心愛は……志信を置き去りにして先ににげたようだ。志信は心のなかで毒づいたが、すぐタバコの痕を思い出す。聖心愛が捕まったら終わりなのだ。なら、僕が囮になるしかない。
とは言っても志信だって捕まるわけにはいかない。志信が捕まればやはり、芋づる式に聖心愛の仕業だとバレてしまう。
志信は土手を乗り越え、河川敷の茂みに駆け込んだ。編みサンダルのショコラママには走りづらいだろうし、背の低い志信は隠れやすい。
志信は無我夢中で走った。やがて、茂みを飛び出し、広いところに出る。まずい、出ちゃった。けど、もう戻ることはできない。河原を抜け、土手を戻り町の中へ。後ろを振り返ってる暇はない。小道を抜け、大通りを越え、ついに駅にたどり着いた。信号が青だったのが幸いした。
「志信!」
呼ばれて見れば、聖心愛が切符を持っていた。なぜここに?考えてる暇はない。志信は切符を受け取り改札を抜ける。正面の電光掲示板をみると、家と逆方向の電車がすぐ発車するようだ。二人はどちらともなく、プラットホームへ駆け登る。そして丁度ドアが開いたばかりの電車に飛び乗った。
「よし、よくやった志信!」
「ハァ……ハァ……ご褒美は脱ぎたてパンツでいいよ」
「息荒くして言うと生々しいんだよ!」
「ハァ……ハァ……いまどんなパンツはいてるの」
「やめろってんだよ!……にしても、ドアまだ閉まらねーのかよ。ババア追いついちまうぜ」
「――ただいま、線路内へのひとの立ち入りがあったため、確認をしています。しばらくお待ち下さい」
「ファック!」
「ここでするの?」
「しねえよ!ってかなにするんだよ。なんか意味あるのかよ?」
「知らないで言ってたの?」
さきほどから、乗客の視線が痛い。だが、志信は今更喋るのを我慢出来るような人間ではない。喋っていないと心が押しつぶされてしまいそうに怖いのだ。
幸いまだショコラママが追ってきている様子はない。
だが、ドアが閉まるまでの時間が無限に感じられた。
「閉まれ!閉まれ!」
「その年でもう締りを気にしてるの?」
「違えよ!」
「意味わかるんだ、この子」
「シモネタなんだろーなってことくらいはな!」
階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。そのどれもが、志信たちにはショコラママの足音に感じられた。
「放せよ!」
その声を聞いて志信の心臓が跳ね上がった。どうやら階段の下で駅員とショコラママがもめているようだ。
「あのガキ捕まえなきゃ終わりなんだよ!」
「ですが切符を……うっ」
駅員の短い悲鳴が聞こえた。そして駆け上がってくる派手な足音。もうだめだ。
「聖心愛、前の車両に逃げて!」
志信はデジカメを聖心愛に渡して、自分はその場に残った。聖心愛はまんがみたいに『オメーを残して先に行けるか』なんて無駄なことは言わない。だが、それでいいのだ。
「クソガキィャアアアアッ!」
鬼が迫ってきていた。聖心愛だけ逃げればいい。カメラも渡した。もう大丈夫だ。
――僕の命は保証できないけど。
ガラガラガラピシャン。
願いが通じてか、覚悟を決めた志信の目の前で、ドアが閉まった。
「発車します。駆け込み乗車は大変危険ですのでご遠慮ください」
大きく目を見開いたショコラママと、ガラス越しに目があった。そのショコラママは数人の駅員に捕まり、電車から引き離される。
やった……逃げ切った。
神様、どうか僕だと気づきませんように――。