第一章 第一話 志信、小学校四年生
彼の名前は志村志信という、どこにでもいる小学生だ。きょうだいはいない。
父、勇助と、母、倫江との三人家族。きょうだいはいない。
繰り返すがきょうだいはいない。
だから、志信が電車で市立の西城学園小学校から帰った時、仕事に出かけている父親を除けば、出水多馬川駅からすぐのマンションには、母親しかいないはずだった。
志信は、今日こそそうあって欲しい、そう思いながらエレベーターを八階で降り、自分の家のチャイムを鳴らした。
すぐに母親である倫江が出迎えてきてくれるはず、だった。
「おっせえよー!」
しかし希望を裏切るように、ドタドタ足音を響かせてドアをあけたのは、髪の毛を茶色に染めさせられた少女。大きな目がキラキラ輝いている。
親戚や同級生ではない。かといって見知らぬ少女ではない。
「男として、早いと言われるよりはいいね」
「なんだよそれ」
「父さんの隠してた本の話さ」
「わっけわかんねえ。先にゲームやってるぜ」
それだけ言って、少女は勝手知ったる顔でリビングに戻っていった。
倫江が出てきたのは、そのすぐあとだった。
「おかえり、ノブくん」
その顔には、小学生の志信にもよくわかるくらいの疲れが浮かんでいた。
「今日も来てるんだね」
「ごめんね、お母さん、今日こそは……って思ったんだけれど……」
志信と少女は、同じマンションの別棟に住んでいると言うだけの関係だ。
少女の名前は加藤聖心愛。学年は一つ下だし、学校も違う。志信は電車で私立小に通っているが、聖心愛は近所の公立小に通っているので、志信の帰宅より早く家に上がり込むことができる。
志信が物心つく頃には、聖心愛は志信の家にいるのが当たり前だった。専業主婦の倫江が、二人同時に面倒をみていたため、志信は聖心愛のことを妹だと思っていたこともある。
妹ではないとわかったのは、夜中になると聖心愛の母親が聖心愛を連れて帰り、朝になると連れてくる。そんな日の繰り返しだったからだ。
聖心愛が小学校に上がってからは、親の姿は見なくなった。けど、聖心愛はたまに学校帰りに志信の家に来て、うんざりするほどチャイムを鳴らす。結局、近所の迷惑を気にしてか、倫江が根負けしてしまう。そうして聖心愛はずかずかと上がり込んでしまうのだ。
要するに聖心愛は、親子共々迷惑なご近所さんだった。
といっても志信ももう慣れっこである。だから今日も志信は、自分の部屋にランドセルを置いて戻ってきた。
「それにしても聖心愛って変な名前だよね」
「いまさらかよ。長い付き合いだってのに」
「『心』を『こ』というのはわかる。『聖』が『しょ』というのもまあわかる。けど、『愛』を『LOVE』の『ら』って読ませるのはどう考えても無理があるよ」
「言うなよ、あたしも気にしてんだからよ」
「で、苗字が加藤だから『ガトーショコラみたいでしょ』ってショコラママも言ってたよね」
「だー、もう!そのショコラママってのもやめてくれよ。うちの母ちゃんが言えって言ってんだけど、あたしの前ではやめれ!」
「はいはい、わかったわかった」
志信はこたつに入りながら、言った。
「しょっこらせ」
「ふざけんなよオメー!ひとの名前で遊ぶな」
「子どもの名前で遊ぶなってショコラママに言っといて」
「ちぇっ。……あーあ、なんであたし、あんなバカんとこに産まれちゃったんだろ」
「『あんな馬鹿』って『ショコラママ』に似てるね」
「似てねえよ!『アンナパパ』ならともかく」
「あ、梅宮辰夫?」
「もう!そんなんどうでもいいからよー。ゲームやろうぜゲーム」
志信が机の上に勉強道具を並べたのを見て、聖心愛は不満そうに言った。その手には携帯ゲームが握られている。
「宿題が先」
「なんだよー。このモンスター強いんだから手伝ってくれたっていいじゃん」
「ショコラママっていう、モンスターペアレントより強いモンスターなんかいるの?」
「いねーけどよー……」
「だいたいそのゲーム、僕のだよね?キャラだって僕の育てたデータだし。一つしかないんだから一緒に遊べるわけないじゃないか」
「だったらもう一台買ってもらえばいいじゃん。こっちはもらってやるからさ」
「『もらってやる』ってなんだよ。やらないよ」
「けちー」
「それじゃ身体で払ってもらおうか?小学生相手がいいって大人は結構いるんだよ」
「……オメー、くだらねーことは知ってんのな」
「僕は宿題やるから、聖心愛は勝手に遊んでろよ」
勝手にぼくのゲームで遊ぶだけでも許してるぼくはおひとよしすぎるんじゃないか。志信は常々そう思っていた。
聖心愛は一つ許せば一つ踏み込んでくる。だから志信は聖心愛の要求は絶対にのまない。こどもなりに考えているのだ。
だから志信は逆に攻め込む。
「そう言えば聖心愛はいつオナニーやってるの?」
「ぶっ!え、今の流れだと宿題じゃねえ?」
「宿題やりながらやってるってこと?」
「ちげーだろ!いつもオメーん家で遊んでるあたしが、いつ宿題やってるのかって聞くところじゃね?そもそもお、おな……ってなんだよ。知らねーよそんなの」
「そっか、三年生じゃまだ勉強しないかな」
「おうよ、そういうのは四年生で男女別にやるやつだろ」
「まあたいていは女子のほうが耳年増なんだけどさ。顔赤いよ、どうしたの?」
「うるせー!あたしはうちの母ちゃんみたいに下半身ユルい女にゃなりたくねえんだよ」
「だいたいわかってんじゃん、意味」
「……うぐっ……」
しかし聖心愛の言うことももっともだ。ショコラママは十六で聖心愛を産んだと常々自慢していた。だからショコラママは小学生の子どもがいると言ってもまだ二十代半ばだ。歳の差婚と言ってたけど、志信には今ひとつピンとこない。
志信は九歳。七年後なんかずっと遠い世界に感じる。
十六歳というと、高校生だ。高校生がまだおとなじゃないってことはわかっている。志信が産まれた時、倫江は二十代後半だった。倫江とショコラママの間に、志信一人分くらいの歳の差があることは理解できる。つまり、倫江がいまの志信と同じくらいの歳のころ、ショコラママは赤ちゃんだった計算だ。
「オメーよ、あんまあたしのことバカにすんなよ?」
「そうだね、聖心愛のお父さんは確かにロリコンだよね」
「そんな話してねーよ!ってか、いまバカにすんなって言ったばかりじゃねーか!」
「ああ、そうか。十六歳で産んだってことは仕込んだのは十五歳の可能性もあるのか。そしたらロリコンなだけじゃなくて犯罪者だね」
「頼むから想像させんな、親のそれとかあれとか!あっ」
携帯ゲームから悲しげな音楽が流れてきた。
「だーっ!オメーのせいで死んだじゃねーか、うぜー」
「話しながらアクションゲームやるもんじゃないよね」
志信は慣れたもので、そう言いながらも宿題の手を休めない。
そんな態度が不満だったのだろう。聖心愛はゲーム機を手放すと言った。
「オメーよ、まだまんが家目指してるワケ?」
「……そうだけど?」
「オメーの絵、幼稚園のころからあんま変わんねーのな」
「薄々わかっちゃいるんだよ。練習はしてるんだけどさ」
志信としては、その話題にはあまり触れられたくなかった。志信は小さいころから落書きが好きで、空想にふけってはノートに色々な設定を描いていたものだった。
けれども、設定ばかりで肝心のまんがを描いたことは、まだ一度もない。ゲームみたいな武器や必殺技といった設定を考えるのが楽しいのだ。
ノートの落書きは余白と文字が主で、いつかこの設定でまんがを描くんだとは思っていたものの、ストーリーを考えたり絵の練習をしたりするほどまでには、まだ成長してなかった。
もちろん、低学年のころにはそのノートや絵を聖心愛に見せたりしたこともあった。
「ほーらおちんちんだよー」
「やめろよみせんなよオメー」
という微笑ましいやり取りも一度や二度じゃない。
だが、高学年になった志信は、それが周りの絵のうまい子たちと違うということに、薄々気づいてきた頃でもあった。
そんなだから、今は『まんが家になりたい』とは思っていても口に出さないでいる。ノートはいつしか三冊目になったけど、中身は相変わらず設定ばかり。友達にも見せたくないし、まして聖心愛に見られたら最悪だ。
「なんでアキナってほぼ全裸みたいな鎧着てんだ?」
「みっ、見たな!」
最悪だった。
「なんで僕のノート勝手に見るの?部屋には入らないでって言っただろ」
「だってよ、最近見せてくんないじゃん?まんが家になるなら人に見せなきゃだめだろ」
それは正論。おとなと違ってこどもの世界に遠慮はない。
「それに……ぷっ……ふだんおっぱいおっぱい言ってるくせに、オメーおっぱいちゃんと描けねえのな。みーんなぺったんこ」
「笑うなら見るなよ」
「まんがなんだから笑っていいだろ」
「笑わせるのと笑われるのは違うんだよ!」
「オメーさ、まんが描くなら絵の練習しなきゃダメだろ?」
「してるよ、練習くらい。ノート以外のところで……」
志信は聖心愛のこういうところが嫌いだった。触れられたくないところにずかずかと踏み込んでくる。物理的に家に踏み込んでくるだけでなく、心にも踏み込んでくる。
セクハラで先制攻撃をすることで防御を覚えたのも、当然のことだった。
「あの……聖心愛ちゃん。お家に電話しても繋がらないんだけど……。今日もごはん食べていくの?」
倫江が腫れ物に触れるように言った。もっと堂々としてもいいのに。
「そうやって餌付けするから、聖心愛が調子に乗るんだよ」
「なんだよ餌付けって」
「そうよ、ノブくん。よくない言い方よ」
結局、母は事なかれ主義なのだ。
結局、聖心愛が帰ったのは、志信の父親である勇助が帰ってきてからだった。
帰宅して早々、逃げるように帰っていく聖心愛とすれ違った勇助は、あからさまに不快そうな顔をする。
遅い夕食の席についた勇助は、志信の目から見ても明らかに不機嫌だった。
聖心愛に迷惑をかけられているから、ではない。
志信はこのあとあるだろう口論の場に居合わせたくなくて、そそくさと自分の部屋に退散することにした。
その後ろから、父の苛立った声が聞こえてくる。
「……だから、こどものことはおまえに任せてるんだ。友達の相手くらいしてあげなさい。志信にとってもいいことだろう?何をそんなに面倒くさがるんだお前は」
勇助の怒りは聖心愛ではなく倫江に向けられていた。倫江が毎晩弱音を吐くことがたまらなく嫌なのだろう。
小学生の志信には、両親の喧嘩はいたたまれないものだった。
「何度も言ってるだろ、俺の仕事が金を稼いでくることなら、ご近所付き合いも主婦の仕事なんだ。もうこの話は——」
ドアが閉まると父親の怒声は消えた。こども部屋の割に頑丈なドアに感謝する。
それから志信は、ヘッドホンを付けて聖心愛から取り返したゲームの電源を入れる。この武器はカッコいいな。僕のまんがにも取り入れよう、などと考えて現実から逃避する。
隣の部屋に駆け込んですすり泣いている母親の声は、聞こえないよう意識した。
「聖心愛……なんでいつも僕ん家のこたつの柱に股を押し付けてるの?」
「してねーよ!」
志信はある日、思い切って訪ねてみた。
「なんか深刻そうな顔してると思ったら、またセクハラかよ。将来が心配だなオイ」
「そうじゃなくってさ。なんで自分の家でそういうことしないでうちでやるのかなって」
「自分ちでもここでもしてねーよ!」
「そうなの?すればいいのに」
「しねーよ!」
「もちろん自分の家でだよ」
「だからしねーって言ってんじゃねーか!あー、くそっ、また死んだ!」
聖心愛はゲーム機を置くと、改めて志信に向き直る。
「だからよ、オメーが言いたいのはアレだろ?なんであたしがうちに帰らないでここに入り浸ってるのかってことだろ?」
「すごい、よくわかったね」
「わざとわかりづらいように言ってたのかよオイコラ」
聖心愛はそう言うと、しばし気まずそうに黙って目を伏せる。
「んー……帰りたくねーんだよ……な」
「そうして少女は非行に走り、やがて身体を売って……」
「売ってねーよ!オメーん家に来てるじゃねーか」
「でもさ、家に帰りたくないなんて、よっぽどの理由があるんじゃない?」
志信には信じがたいことだった。そりゃあ、聖心愛みたいなのが家にいるなら帰りたくなくなる気持ちもわかるけど、当の聖心愛が家に帰りたくないなんて。どういうことなんだろう。
「だってよ、うちに帰っても誰もいねーんだもん」
「そして誰もいないリビングで開放的になった聖心愛はするすると衣服を脱ぎ始め……」
「ねえよ!ったく……もう話さねーぞ」
「情熱的なアプローチだなあ」
「離さないんじゃねーよ。喋らねーって言ってんだよ」
「まあまあ、誰のせいで怒ってるかわからないけど、ここは僕の顔に免じて」
「オメーのせいだっつーの!あとほら……変なあんちゃんがいる時もあってさ」
「変なあんちゃん?なにそれ愛人?」
志信はそれは初耳だった。聖心愛から、変なあんちゃんの話なんか聞くのはこれが初めてだ。
「……そうだよ、多分、愛人だよ」
「えっ、あっ……なんかごめん……」
「……親父の帰りが遅い日はさ、母ちゃんいつも出かけちまうんだわ。その、変なあんちゃんを車に乗せて出かけることもあるし、あたしを追い出して家ん中でおっぱじめることもあるんだ」
「えっ、聖心愛追い出されてるのになんでそれ知ってるの?覗いたの?」
「覗いてねえよ……その……」
「今度覗くときは僕も誘ってよ」
「覗いてねえよ!たまたまあたしが学校から帰ったらヤってたんだよ!」
「え、ヤってたって?何を?」
「えっ……」
「何をやってたのかなあ。僕、小学生だからわからないや」
「そっ……その……う、浮気だよ浮気。チューとか……」
「とか?とかって例えば?」
「おっ、オメーねちっこいのな……。とにかく、浮気してたんだよ」
「ふーん……で、聖心愛はそれ、なんにもしないの?」
「仕方ねーんだよ。こどものあたしにゃ、なんにもできねーって」
「でも、それじゃあ聖心愛が」
「ああ、あたしは気にしなくていい。この生活も快適なんだぜ」
志信は、『聖心愛がうちに入り浸って困る』と言いたかったのだが、聖心愛はそうは受け取らなかったようだ。
「で、お父さんはそれ知ってるの?」
「親父?知らねーよたぶん」
「じゃ、言いつけりゃいいじゃないか」
「あー、ダメダメ。あたしが言ったってバレたら、こうなる」
聖心愛はそう言ってシャツの腹をめくった。志信は思わず目を見開く。
「なに鼻息あらくしてんだよ、もっと下だよ、下」
「下……。聖心愛、まだブラしてないんだね」
「下から覗き込めってことじゃねえよ!下を見ろって言ってんだよ」
「じゃあパンツも降ろしてくれなきゃ」
「もっと上だよ!」
「おっぱいまだ生えてないから見てもつまんないなあ」
「だから覗き込むなよ!ヘソの横、見ろ」
ようやく志信は言われたところを見る。そこには一センチくらいの水ぶくれができていた。
「タバコ押し付けられた跡だぜこれ。こないだちょっと逆らったらコレだ」
「はあ?タバコ?なんでそんなひどいことするんだよ。お母さんなんでしょ?」
「知らねーよ。あたしから見りゃ、あんたの母ちゃんが優しすぎるんだよ」
「それにしてもおっぱい生えてないね」
「しつけーよ!」
聖心愛は顔を真赤にして、腹をしまった。
「とにかく、あたしはあの母ちゃんに逆らおうって気はないね」
「……でも、本当にあのお母さん……そういうことするんだ。自分のこどもに、しかも女の子にタバコを押し付けるようなことするなんて。……それに……」
そこで志信は言葉を切る。
「ん、なんだよ?」
「いや、なんでもない」
それを聖心愛が明かしてくれたことも驚きだった。意外と志信は信用されているのかもしれない。
「……手紙を書いて送るといいんじゃないかな」
「はあ?」
「手紙を郵便局から送れば、聖心愛が言ったことはバレないだろ?僕が近所のお姉さんに出してるエロ手紙みたいに」
「オメーそんなことしてんのかよ……」
名案だと志信は思った。だが、聖心愛はそうは思わなかったようだ。
「母ちゃんの愛人のこと知ってんの、あたしだけなんですけど?そしたら誰が手紙書いたかなんてすぐわかるだろ」
「今日パンツ何色?」
「ごまかすなっつの」
志信はそれを聞いて、言い返すことができなかった。
「なあ、自分が不利になると攻めに回ってごまかすのやめねえ?」
「やめない」
「……けど、手紙か。アリかもしれねーな。志信、カメラ持ってっか?」
「うん?ああ、パンチラ撮る用に買ってもらったやつだけど」
「これ終わったら捨てろよそのカメラ」
「ちなみに今こたつの中に仕込んでる」
「殺すぞ!」
「冗談だよ、聖心愛のパンチラなんか観たってしょうがないだろ」
「二回殺す!」
「で、カメラ何に使うの?」
「あ?ああ……疲れるなオメー……」
聖心愛はうんざりして言った。