--- オワリ ---
ところが、変わったと思ったのは気のせいだったようだ。
円卓の部屋を出た次の瞬間、グリフィス家の末裔はくそガキに戻ってねえさんの胸に飛び込んだ。
「やっと、追いついたよ。ねえちゃん」
それを受け止めたねえさんはいつものように頭を撫でてやる。
「ラック……本当に大きくなって……!」
感動に打ち震えるねえさんの手の感触を確かめるようまた阿呆面で笑うくそガキの姿を見て、なぜかほっとする自分がいる。
「暴走した悪魔を取り押さえたそうね。フォーチュン侯爵から聞いているわ」
「うん。すごくがんばったよ」
はじけるような笑顔が自分の中に幾つも刻んできた傷に流れ込んだ。
包まれて少しずつ癒されていくのが分かる――驚くほど優しい感触で。
「アレイさん」
はっとするとねえさんのところにいたはずのくそガキがすぐ傍にいた。
「やっと、追いついたよ」
近くで見るとやはり顔つきも少し大人びている気がして見つめるのは照れくさかった。
もうこのくそガキも少女の時を脱しようとしている。
「遅かったな」
「仕方ないじゃん。おれは未熟者だったんだから」
「違いない」
「もう!」
そういって頬を膨らますと、記憶の中にいる少女の姿と重なった。
もっとたくさん言いたい事があったはずなのに、再会しただけですでにもう満足してしまい、言葉が出てこなかった。
言葉もなく見下ろしていると、少女は相好を崩した。
「阿呆面で笑うな。気が抜ける」
「いいじゃん、アレイさんに会えて嬉しいんだ」
その言葉に心臓が跳ね上がる。
それはいくらか期待してもいいと言う事なのだろうか。それともいつものように素直な気持ちを告げただけなのか。
きっと後者だろう。
こいつがそんな小難しいことを考えるはずもないし、駆け引きと言う単語を知っているかすら怪しいものだ。
「レラージュと戦闘したそうだな」
「うん、強かった。勝てないかと思ったよ」
ずっと心配だった。義兄上の手紙を読んでから。
「ひどい怪我をしたんじゃないのか」
すると少女は悲しそうな顔になってふるふると首を振った。
「おれは平気だ。でも新しくレメゲトンになったライディーンにひどい怪我させちゃった」
まただ。そんな傷ついた顔をして。
それは人の傷だ。お前まで傷つかなくてもいいというのに。
「でも、ちゃんとそいつを救ったんだろう?」
「うん、ちゃんと生きてた」
「なら何故そんな顔をする。お前は……よくやった」
素直に褒めることができて、自分が一番驚いた。いつからこんな風に言葉を紡げるようになったんだろうか。
ぽん、と頭に手を置いた。
記憶にあるより少し近い距離にどきりとした。
「ほんと?」
「ガキにしてはな」
「ガキって言うな!」
懐かしいやり取りを口にして、思わず微笑んだ。
それを見た少女が呆けたようにじっと見上げてくる。漆黒の瞳に吸い込まれそうになってしまう。
いったいどうしたんだ。
不審に思って漆黒の瞳を覗き込む。
「何だ、ぼんやりして」
その声にはっとした少女の頬がみるみる赤くなっていく。
何だ、何か悪い事でもしたか?
「変な奴だな」
ところが予想したような反論が返ってこなかった。
不思議に思ってもう一度聞く。
「どうした」
「な、何でもないよ」
慌てたように頬を染めて首を振る少女の反応はこれまでと全く違っていた。
どうしたんだろう。
赤くなった頬に触れようと手を伸ばすと、それを避けるように飛び退った。
「あ……」
ざくり、とナイフが心臓に刺さる。
――拒絶された。
伸ばした手についた血の染みが見えたのだろうか。彼女は血の匂いにひどく敏感だから。それとも、もう自分に傍にいて欲しくはないのだろうか。
いずれにせよ、伸ばされた手は行き場を失った。
ところが少女は頬を染めて懸命に弁解した。
「違うんだ! 嫌なわけじゃないんだ! でも、なんだかすごく……」
嫌なわけじゃない?それではどうして拒むんだ……?
漆黒の瞳がまっすぐこちらに向いている。
「すごく……」
姿形だけではない。
最後に会ったときとは何かがほんの少し違っている。
なぜだろう。何が違うかは分からないが、この少女の中で何か変化があった気がした。
細い指がそっと自分の胸に触れた。心臓の音を確かめるように手のひらを当てる。照れくさそうな声で少女が呟いた。
「何でいままで平気だったんだろうね」
まだ赤い頬にそっと手を伸ばした。
少しびくりとしたが、今度は逃げなかった。
すべらかな感触に今すぐにでも抱きしめたい衝動にかられた。
「不思議だな。すごく……幸せなんだ」
少女がもう一歩近づいてきた。
漆黒の瞳が真直ぐに見上げている。
どうしたんだろう。何か、おかしい。今日のこいつは今までと何か違う。
不意に少女は背に手を回して抱きついてきた。
突然のことに狼狽する。
「いったいどうしたんだ」
これまで散々この少女を抱きしめてきたくせに、いざ逆に抱きつかれるとどうしていいのか分からなかった。
お前は、一体何を望むんだ?
手を伸べられることを望んでいるのなら、今すぐにでも差し伸べてやろう。何しろ、自分はもうお前以外は要らないと分かってしまっているのだから。
「もうどこにも行かないで」
その言葉は父親に送るものなのか?それとも一人の人間に送るもの?
もしくは――恋人に贈るものだと少しは期待していいのか?
「仕方ないな」
前はどれでもいいと思っていたのに、今はそう思えなかった。
自分がこの少女を想うように、この子にも想い返して欲しい――それは、人生のうちに最初で最後の我侭だ。自分が想うように彼女も想ってくれたなら。
ただもう少しだけ、この少女の温かさを満喫してもいいだろうか。
トロメオが陥落し、敗戦濃厚な戦場だというのにこの少女がいるだけでもう大丈夫な気がしていた。守りたいものが傍にある。それだけで気持ちはずいぶんと違うものだ。
もう少ししたら、きっとこの気持ちを伝えよう。それまでに戦争が終わっているかは分からないけれど。
その頃には少女は感情を理解するようになっているだろうか。
そんな悠長な事を言っていたから失敗したのかもしれない。
再会できた幸福感に包まれて、ねえさんがかけた保険の意味に気づいていなかった。
永遠などというものは虚偽だと、昔誰かが言っていたというのに――




