SECT.29 霞ム希望
軍の上空に浮かぶホドの姿をとらえた。
ねえさんと目で合図しあって真直ぐその方向に向かう。
しかしそこにいたのはホドだけではなかった。
宣戦布告のときを想起させる。先頭に立つのは宣戦布告の時に大使長を務めた男だった。色素の薄いウェーブがかった茶の髪と狡猾そうな顔に見覚えがある。表面だけに貼り付けたような笑みがひどく気味悪い。
その右後ろに控えるのは手品師ゲブラ。
左後ろには眼鏡の少年ホドが控えていた。
「あなたは初めまして、よね? いえ、一度だけ王都ユダでお会いしたかしら」
「ええ」
敵の大将と思われる人物はにこりと笑った。
「セフィラの長、第1番目ケテルです。以後お見知りおきを」
「レメゲトンの長、メフィア=R=ファウストよ。あまり言いたくないけれど、一応社交辞令として言っておくわ……よろしく」
ねえさんの纏う空気はぴりぴりしていた。
それほどにケテルのオーラは絶大だったのだ。
背後に浮かぶのは天界を司るという天使メタトロン――『神』という名で呼ばれることもあるその天使は黄金のオーラを全身に纏っていた。布で隠した顔は見えない。それでもその神々しいまでの威圧は衰えていなかった。
握り締めた拳が震えそうになって、唇をぎゅっと真一文字に結んだ。
これまでの天使とは文字通り桁が違う。
「とりあえずご挨拶だけでもしておこうと思いまして。軍はすぐに退きますよ、本腰を入れるのはもう少し暖かくなってからです。私、寒いのは嫌いなんですよ」
狡猾な笑みを隠そうともせず。
「ところで、彼らはどうしていますか?」
「コクマとビナーなら預かっているわ。けど別に返して欲しいって訳じゃないんでしょう?」
「ええ。お任せします。もし起きたら少々手こずるかもしれませんが、お願いしますよ」
「……目覚めてない事までわかってるんじゃないの。わざわざ聞かないで頂戴」
ねえさんの機嫌が悪くなってきた。
ケテルはそんなことお構いなしにねえさんの腹部を指差す。
「それが噂に聞く刻の悪魔ですか。晒したままとはずいぶんと余裕ですね」
「一体どこの噂で聞いたのかしら。あれを見て残ったのはアレイだけのはずよ」
おそらくホドのせいだろう。メフィストフェレスの支配が届かない上空から、時が止まった戦場を一人で見下ろしていたに違いない。
「いいじゃないですか。そんなことどうでも」
ケテルは軽く礼をした。
「春、草木が芽吹く頃――トロメオをいただきに参ります」
「あら、それは予告? そっちこそ余裕ね」
ねえさんはその瞬間、予備動作なしにナイフを投げた。
煌く刃が真直ぐケテルに向かう。
最もそれは目標にまで届くことなく、飛び出したゲブラのステッキですべて叩き落されてしまったが。
「好戦的な御婦人ですね」
「お互い様よ」
代わり飛んできた炎球をバシンの重力操作で叩き落しながらねえさんが妖艶な笑みを見せた。
「これ以上この国を荒らすのは許さないわ。次にきたら……本気でつぶしにかかるから」
「これは手厳しいですね」
コクマと同じような台詞で薄笑いを浮かべたケテルは、次の瞬間に消え去っていた。
同時に後ろに控えていたホドとゲブラも消失し、戦場からは幻想兵の姿が消えた。
「アレイ」
ねえさんの声は強張っている。
「あいつはやばいわ。メタトロンが天界の長っていうのはかなり頷けるわね」
その言葉に自分も賛同した。
握り締めた拳が硬直している。あの絶対的な黄金のオーラを思い出してぶるりと身震いした。
あの銀髪のセフィラが召還したミカエルの銀のオーラを前にした時も相当な威圧かんだった。しかも銀髪のセフィラは相当な剣の使い手で加護なしでも自分と同じくらいの実力を持っていた。
しかし、メタトロンは常軌を逸している。
「対抗するにはそれこそ魔界の長――リュシフェルでも召還するしかないかしら?」
「……ねえさん」
「何かしら?」
「あの……王都に置いてきたくそガキの額にもねえさんみたいな悪魔の紋章が浮かぶ。もしかして、あいつが契約した悪魔は」
「ふふ、それは言っちゃだめよ、アレイ」
ねえさんはにこりと微笑んだ。
「知らない事にしておかなくてはいけないの。そこに触れちゃ駄目。グラシャ・ラボラスを持っているだけでも大変なのに、それ以上あの子に枷をかけられないわ」
「やはりグリフィス家が召還した悪魔は……」
「今はトロメオ防衛のことだけ考えましょう」
数十年前にコイン以外の悪魔を召還しようとして追放されたグリフィス家。辺境の山奥に屋敷を築き、『リュシフェル』の名を冠した少女を育て上げた。
そして、3年前。
あのくそガキが山奥で瀕死の重傷を負ってねえさんに拾われた。
いったい何があった?
グラシャ・ラボラスとの契約は?リュシフェルの召還は?他のグリフィス家の人間は一体どこへ消えたんだ?
考えても仕方がない。
ケテルが予告した春は、もうすぐそこまで迫っていた。
そして春。
予告どおり、これまでで最大の軍勢がトロメオの眼前に集結していた。
むろんこちらも準備を万全に整えて待っていたのだ。
戦闘衣装に身を包んだねえさんと共にセフィラたちを迎え撃つ事になった。
「さっと見たところ幻想兵がいないわ。おそらく私たちのほうに3人がかりで来るはずよ」
死霊遣いホド、手品師ゲブラ、そしてセフィラの長ケテル。
3人とも非常に厄介な相手だ。
幻想を多用してくるホドはおそらく消耗戦になるだろう。いかにして本体を叩くかがポイントになる。
得体の知れないゲブラは、天使の力がなくともかなりの実力を持っていると思われた。手にしているのはステッキだったが、間合いの取り方、観察能力、そして構えからして奇妙な剣術を使うだろうことは用意に予測できた。
そして天界の主を使役するケテル。メタトロンの支配は圧倒的で、ハルファスで対抗できるかは分からない。メタトロン自身の能力もあまり知られていない。独立戦争の折はリュシフェルと凄惨な戦闘を繰り広げたという言い伝えが残っている程度だ。
「他のセフィラは……第10番目マルクトはどうやら全軍指揮のようね。慈悲の天使ツァドキエルを守護に持つケセドが戦場に出てくるとは考えにくいし、アレイに聞く話だと戦闘能力的はネツァクも出てこなさそうよね。あ、でもコクマやビナーが出てくるくらいだからもしかしたら来るかしら。ま、でも相手にならないでしょうけど。基礎の天使ガブリエルを使役するイェソドは分からないけれど、あと警戒するとしたらあの銀髪のセフィラだけね」
「もしそいつが来たら俺が叩き潰す」
「ラックを盗られないように?」
「それは関係ない」
関係ないことはなかったが、それ以上に剣士としてあのセフィラには負けたくなかった。
戦場にいる間も稽古は欠かしていない。何百何千の幻想兵を相手にしてきたのだ、謹慎処分を受けているティファレトよりずっと強くなっている自信があった。
「間違いなく空中戦になるわよ。ハルファスは疲れていないかしら?」
「メタトロンと相対するのを楽しみにしている……のんきな奴だ」
「ハルファスとすっかり仲良しになったわね」
言われてため息をつく。
確かにその自覚はあった。今では空中戦はハルファスでないとうまくいかないほどになっていた。地上での戦闘に関してはまだマルコシアスの方がシンクロ率は高いだろうが。
やっと慣れたハルファスの加護が耳元に広がる。
「さ、行くわよ。あのケテルの鼻っ柱を折ってやらないと気が済まないわ!」
「そうだな」
真直ぐに敵軍を見つめた。
その中にセフィラの姿を見つける。
「ねえさん」
「なあに?」
「G-O-O-D L-U-C-K」
そう呟くと、ねえさんは金の瞳でにこりと微笑んだ。
「Y-O-U T-O-O……あなたもね」
古代語で笑顔を交し合って、空に飛び立つ。
その時はまだ希望を胸に抱いていたはずだった。
しかしながらそれは淡い希望だった。
次の日には、戦場に参入してきたケテルによってその希望が完全に費えた。




