SECT.8 苛立チノ行方
夜の帳が下りてきて、今日の行程はここまでだ。
それなりに上質の宿に入ると、一人一部屋ずつとってそれぞれ分かれて入った。
「ふう……」
馬車に乗っているだけでもそれなりに疲労がたまるらしい。普段なら一人旅。馬車を使った移動などほとんどしないものだから、知らなかった。
ソファに座ってくつろいでいると、ドアをノックする音がした。
「ねえさんか?」
「違うよ」
なぜか入ってきたのはあの少女だった。
「何の用だ?」
「ねえ、アレイさん。アレイさんも『一番大切なもの』を選んだの?」
「失礼な上に唐突で、不躾な質問だな。頭の足りていないお前らしい」
「いいじゃん」
唇を尖らせた少女は宿に用意されていた寝巻きにすでに着替えていた。
少女はたたっと近寄ってきてソファの隣に座った。
いまだ全く動かない左手が触れた。
「いったいそれを聞いてどうしようというんだ」
「……だっておれ、すごく辛かったから」
言葉を選ぶのに手間取っている様子で、少女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねえちゃんがいればいいって言ったけど、本当はもっと他にも大切なものあったよ。あの街にはおれの好きなものがたくさんあった。カフェのマスターにも鍛冶屋のゼルにも本屋のユグばあさんにももう簡単には会えないんだって分かったらすごく悲しかったよ?」
漆黒の瞳は微かな悲しみを含みながらまっすぐにこちらに差した。
「アレイさんも悲しかった? 『ひとつだけ』を決めて、他にもたくさんある大切なものを幾つも失くす時、辛かった……?」
「いや、大丈夫だった」
それは嘘だ。
大切なものを切り捨てる時は必ず痛みを伴うものだ。
「そうなの……?」
「ああ」
騎士の道を捨てたときに感じる痛みは今でも心のどこかで膿んだ傷のように重い。
それでもその事は口に出せなかった。この少女に少しでも不安な要素を与えたくなかった。
気を遣う必要がどこにあるかと聞かれると難しい。だが、昼間の落ち込む様子を見た後だったためにこの少女に悲しむ顔はさせたくないと心のどこかで思ってしまったのだろう。
「それじゃ、どうしたらこんな風に悲しまずに済むの?」
心底その答えを求めているようだった。
不安げな瞳をこちらに向けて、何かを捜し求めるように見上げた。
「『ひとつ』に決めた大切なことをしっかり持て。それ以外に目もくれないように。そうすれば、おのずと痛みは引いてくるだろう」
「そうなの?」
「そうだ」
だが、それまでには時間がかかるだろう。きっとそれまでずっとこの少女は苦しみ続けるんだろうな。
それは自分が一番よく知っている。
「でも、分かってるんだよ。ねえちゃんと一緒にいることが一番大切で、それだけを守ろうと思ってるのに……どうしても、寂しいんだ」
「それはねえさんに言うといい。なぜ俺のところへ来た」
「やだよ、ねえちゃんを困らせて……嫌われたくないもん」
「まったく……このくそガキが」
「ガキって言うな!」
きゅっと眉を寄せた表情はあまり年相応ではないだろう。
しかし、本当にこの少女の世界はあのねえさん中心に回っているようだ。
「大丈夫だ、ねえさんはお前を嫌ったりしない」
それは確信を持って言えた。
あのねえさんもこの少女のためなら魂も売りかねない勢いだ。
「……ほんと?」
「当たり前だ。お前はいったいこれまでねえさんの何を見てきたんだ?」
口をぽかりとあけてじっと見上げてくる少女を見ていると一思いに額でも叩いてやりたくなってくるが、それはじっと我慢した。
その阿呆面をやめろ!
「そうかなあ……?」
「ああ、そうだ」
本当にもういらいらする。
いったいこの苛立ちが何なのか、分らない事そのものがさらに苛立ちを募らせる。
「うん、そうだよね」
ぱっと明るい表情をして、少女は立ち上がった。
「ありがとう! アレイさん」
「……ああ」
それ以外答えようもなくて、そっけない返事を返した。
少女が部屋を出て行った後も正体不明の苛立ちが心のどこかにわだかまっていて、眠れそうになかった。
胸の端を焦がすようなそれは燻り、消えそうにない。