SECT.22 加護ノ終ワリ
戻ってきた現実世界で、ねえさんの金の瞳に貫かれた。
「ザフィケルの幻覚なんかに飲まれないで頂戴。気をしっかり持っていれば幻覚は見ないはずよ」
「あ、ああ……すまない」
ぼんやりとした頭であたりを見渡すと、先ほどと景色は変わっていなかった。
メフィストフェレスの加護を受けて凄まじい気を発するねえさんと、それに相対する理解の天使ザフィケル、完全に時を停止し、知恵の天使ラジエルの加護を失ったコクマ。
先ほどまでの光景は天使ザフィケルが見せた幻影だったらしい。
隣のねえさんはため息をつかんばかりの勢いで言い放った。
「とにかく涙を拭きなさい。情けない!」
「!」
しまった、先ほどの光景は夢ではなかったのか?
慌てて頬に伝った涙を拭ったが、ねえさんの声が追い討ちをかけた。
「それから、マザコンは嫌われるわよウォル(・・・)。かあさま、かあさまって……いい加減親離れしなさい!」
恥ずかしさに顔が熱くなった。
「まあ、でもこのことはラックには内緒にしてあげるわ。感謝なさい」
また一つ弱味を握られてしまった。不覚だ。一生ねえさんには逆らえない運命なのかもしれない。
そう思って大きなため息をついた。
妖艶な笑みでなく、いつものように不敵な笑みを浮かべたねえさんはもう一度ビナーに指を突きつけた。沈黙の戦場に広がる空の中で、最後の勝負を決めるつもりだろう。
逃げようとぴくりと動いたビナーだったが、力の差は圧倒的なようだ。
そのまま硬直して動かなくなった。
ああ、これでやっとコクマとビナーと幻想をひたすら相手にしていた戦いが終わる――妙に安心した気分だった。
数での攻めは思った以上に体力も気力も消費していた。これ以上続けば自分たちだけでなく『覚醒』の面々にも負担がかかりすぎるだろう。
この二人から支配を引き剥がし、死霊遣いホドのみを集中して相手にする必要があった。
「ごめんなさいね、ビナー。可哀想な子」
ねえさんにはまるでビナーの加護印の位置が最初から分かっているようだった。迷うことなく少女の右肩に手を当てた。
コクマに対する態度とはあまりに違いすぎる。
「もしもう一度会えるのなら……」
その先にねえさんは何を言おうとしていたのだろうか。
静かに目を閉じたねえさんは、とん、とビナーの肩を叩いた。
――ビナーの背後にいたザフィケルが消失した。
悲しそうに佇むねえさんに声をかけられずにいた。
15歳で最高位の悪魔メフィストフェレスと契約するのは並大抵のことではなかっただろう。この女性はいったいどれほどの重圧に耐え、責を背負ってきたのだろう。
計り知れないその人生の一端を初めて垣間見た。
「あとはホドね」
そう言って顔を上げたねえさんはいつもの表情に戻っていた。
「でも、少しだけごめんなさい。慣れないことをしたものだから……少し疲れたわ」
肩をすくめたねえさんからメフィストフェレスの重圧が消えていく。
蒸発するように悪魔の加護が霧となって立ち上り消失していった。
「アレイお願い、この二人を」
それでも心配するのは自分のことではなくたった今倒した敵の事――
大切なものを選びなさいと言い、情の欠片もない攻撃で二人のセフィラから天使の加護を引き剥がしたというのに。
ぐらりとねえさんの体が傾くと同時に、戦場の音が舞い戻ってくる。
圧倒的な力を見せたレメゲトンの長は、加護を失って落下した。
「ハルファスっ!」
慌てて叫ぶと、風が駆け抜けた。
時が動き出して重力に逆らわず地面に向かうセフィラ二人の体をも包み込んだ風は、戦場を吹き抜けるにはあまりにも優しすぎる風だった。
「ひひ! ビックリした! まさか あいつ来るなんてな!」
甲高い声にはまだ動揺が隠しきれていない。
自分もまだドキドキしていた。
伝説だと思っていた最高位の悪魔メフィストフェレスが召還され、その力を目の当たりにした。まさしく歴史上ただ一人の目撃者となった。
「ねえさんは……メフィストフェレスは一体どうやって加護を引き剥がしたんだ?」
「ひひ! あいつは時間を狂わせる! あの女 触っただろ! 時間が巻き戻ったんだ!」
そうか。ねえさんは時間を操り、セフィラが印を持つ前まで時間を戻したのだ。
動き始めた戦場からは変わらず地鳴りが響いている。
今この瞬間、時が止まり二人のセフィラが加護を失った事など誰も気づいていないだろう。
しかし、メフィストフェレスの力の及ぶ以外の場所ではちゃんと時間が動いていたらしい。気づかぬうちに太陽はかなり西に傾いていた。
このままいつまでも空にいるわけにはいかない。3人を運ばねば。
「ハルファス、とりあえず砦まで頼む」
「ひひ! 分かった!」
ハルファスの操る風に乗せて、3人をトロメオのシェフィールド公爵家に運んでいった。
セフィラ二人の扱いは、迷ったが一応鍵をかけた部屋に閉じ込めておく事にした。
炎妖玉騎士団に属する若い騎士二人を見張りにつけ、自分はフォルス団長の元に向かうことにする。今回の事を報告せねばなるまい。
日が沈み、セフィロト軍は退いていったのだろう、フォルス団長はすでに屋敷に戻ってきていた。
フォルス団長の隣には補佐のフェルメイがいた。この二人は常に共に行動しているらしい。
「おお、ウォル。無事だったか! ファウスト女伯爵が怪我を負ったと聞いたのだが、大丈夫か?」
「ファウスト女伯爵は悪魔の力を多用したために疲労で休んでいるだけです。ご心配には及びません」
とは言っても、メフィストフェレスの力を使う時に彼女にかかる負担を考えると長い休養が必要かもしれない。しばらくは自分ひとりでセフィラを相手にしなくてはいけないだろう。
「そうか!」
「フォルス団長、そのファウスト女伯爵が二人のセフィラを捕縛しました」
「なに?!」
団長は大きく目を見開いた。
隣のフェルメイも驚いた顔をしている。
「現在天使の力の加護を失ってこの屋敷内で軟禁してあります。天使の加護がない彼らはただの人間です。今は炎妖玉騎士団のラスティとブランチに見張りを任せてあります」
「レメゲトンというのは、本当にすごいな」
団長は驚いた表情を隠そうともしていなかった。
サブノックの剣を持ち、実際にセフィラと戦闘した事のあるフォルス団長だからこその言葉だった――天使や悪魔の加護があるのとないのでは身体能力が絶望的に違う。加護のない状態では普通の人間でも、加護持ちのセフィラというだけでその戦闘力は一般兵何十人分にも相当する。
「すべてファウスト女伯爵の功績です。彼女は本当に……最高のレメゲトンです」
心の底からそう思う。
「ではセフィラは私たちにお任せください。ファウスト女伯爵にはしっかりと休養をとっていただきたい」
「ありがとう、頼むぞ、フェルメイ」
「はい」
にこりと笑ったフェルメイとフォルス団長に軽く礼をしてその場を離れた。
ねえさんの休む部屋に入ると、アリギエリ女爵が待っていた。
「ねえさんは?」
「今はお休みになられています。外傷はありませんが、かなり疲労が溜まっているようです。一度ゆっくり休養をとられるべきだと思います」
「やはりか……」
コクマ、ビナー、ホド、幻想兵……
次々襲ってくる敵をほとんど一手に引き受けていたのだ。それは仕方のないことだろう。
「それからクロウリー伯爵、王都から伝令が入っています」
「王都から?」
ゼデキヤ王からの書簡だろうか。もしくは姉上からの個人的な手紙か、または父上から帰ってこいという命令だろうか。
ところが、その予想はどれも違っていた。
「フォーチュン侯爵からです」
「義兄上から?」
なんだろう。
「クロウリー伯爵とファウスト女伯爵に向けた書簡です。ミス・グリフィスのことについてのようですが」
「?!」
心臓が跳ね上がった。
何かあったのだろうか。
震える手でアリギエリ女爵から書簡を受け取った。




