SECT.19 メフィストフェレス
一体何が起きているのか分からなかった。
以前巻き込まれたグラシャ・ラボラスの特殊空間とは違う。あの場所は光を失っても音だけは響いていた。それも、これほどの広範囲に広がる事はなかった。
半径数キロにもわたる戦場から全ての音が消え去ったのだ。剣の交わる音も騎馬兵の立てる地響きも、人々の怒号や悲鳴も。
嵐の前に静まり返った世界のように、沈黙がすべてを支配していた。
頭が混乱する。
しかも、先ほどねえさんが呼んだ名は……
「ほほほ 契約以来 初めてですね」
沈黙の中に響いた女性とも男性とも突かぬその声に、ハルファスがびくりとしたのを感じた。
悪魔が恐れる悪魔。
それは幾人も存在しない。
メフィストフェレス――リュシフェル、ベリアル、アスタロト、ベルフェゴールなど名立たる悪魔と並び、最高位に位置する中でも伝え聞く昔語り以外での存在が確認されていない悪魔の一人。
年齢も性別も判別できない中性的な顔立ちは薄く笑みを湛えていた。
伝説の通り、漆黒の闇を閉じ込めた色の長いコートを着込んでいる。磨かれた革靴と白い手袋は紛れもなく紳士のものだ。
「お久しぶりです、閣下」
この悪魔の召還と同時にデカラビアの加護が消し飛んだねえさんは背の翼を失っていたが、それでも空に浮いていた。
代わりに現れたこの悪魔の加護だろうか。
沈黙が支配しているこの空間で、ねえさんとその悪魔の声は頭の中に直接響くような感覚で届いた。
「世界は蠢き 揺らぎ 時に滅します それでもなお 逆らい続けるのですね」
「この世に生を受け大切なものを知った時にようやく人は人と成り、世界を愛し、崩壊を防ごうと尽力するのです。それがたとえ戦と言う形で現れようとも」
「ふふ 幾重にも折り重なる世界の中 一つだけを選ぶのですか 他を捨ててまで」
「人に感情が存在する限り続いていくのです。世の定め、争いも和解も……無関心は人としての生を失っています」
いつだったかねえさんは言った。
自分勝手な理由で誰もが大切なものを選ぶのだと。
もし自分がセフィロト国に生まれていたらもっと違う選択をしていたろう。クロウリー家に生まれなかったらレメゲトンになって国の前線で戦う事も大切なものを命がけで守ろうとする事もなかったかもしれない。
しかし、そんな仮定は無意味だ。
既に自分はグリモワール国でアレイスター=ウォルジェンガ=クロウリーとして生きている。
ウォルジェンガ=ロータスとして生を受け、いつしか国の中枢に入り、名を変え、騎士を目指すも志半ばで未来を閉ざされた。その後レメゲトンとしてロストコインを捜索し、さらに戦場でセフィラを相手に戦闘を繰り広げてきた。
自らの体質のせいで母を失い、姉と新しい家を得た。騎士団での居場所を捨てる代わりにねえさんやじじぃと出会った。あのくそガキの存在を知った。
その過去全てが自分を形作っている。
大切なものを決めている。
「世界に興味がないということはもう生を諦めたということと同義です。世界と関わり、影響し影響され、自分を創りながら人は生きていくのですから」
「ほほほ 迷いの無い言葉ですね」
年齢性別共に不明な紳士の悪魔は嬉しそうに笑った。
「私は貴方が好きですよ メフィア 我が名の娘」
「もったいないお言葉です、メフィストフェレス閣下」
ねえさんはいつも迷いない。
揺ぎ無い精神に悪魔は惹かれるのだろう。クローセルも、バシンも、デカラビアも……メフィストフェレスさえも。
それに比べて自分はいつも迷ってばかりだ。それは戦場に来ても、敵を眼前にしても変わる事が出来なかった。悪魔の力で一般兵を傷つけるたび心に傷を刻んでいるなどとは、絶対に口に出せなかった。
嫉妬も何もかも超えた次元で彼女を心から尊敬している。
ねえさんの目の前にいる紳士は目を細めてこちらを見た。
ハルファスではないが、威圧感にびくりと身を竦ませてしまった。
「悪魔の子 黄金獅子の末裔 王族の良心 すべてが揃うということは ここが世界の分岐点なのですね」
「閣下、それは……」
「さて お困りのようですね」
ねえさんが問おうとしたのを分断して、メフィストフェレスは肩をすくめた。
召還者の彼女は問いを諦めて深く頭を下げた。
「はい。ぜひお力添え願います。死霊遣い(ネクロマンサー)ホドの術により多くの兵に被害が出ています。できる事ならば……ホドを見つけ出し、我が軍に勝利と祝福を」
「お安い御用です ほほほ」
メフィストフェレスは不気味な笑いを残して黒い霧へと姿を変えた。
霧はねえさんに纏わりつくようにして吸い込まれ、消えた。
先ほどまで悪魔から発せられていた威圧感がねえさんに移る。ハルファスがひっ、と小さな悲鳴をあげたのが聞こえた。
背後に漆黒の闇色のオーラを纏ったねえさんは凄まじい気を発しながら二人のセフィラを睨みつけた。
「さあ、覚悟なさい。レメゲトンを敵に回すとどうなるか教えてあげるわ」
沈黙の世界の中で。
動きのない世界の中で――
メフィストフェレスの特殊空間において動いているのは支配するねえさん、悪魔の加護を受けた自分、それに天使の加護を持つコクマとビナーだけだ。
ゲブラ辺りが巻き込まれていたとしたら動けていたかもしれないが、今日手品師の姿は目にしていなかった。
もし他に動けるものがいるとするならば……それは幻想を操っているホド本人に他ならないだろう。
「メフィストフェレス? 聞いた事がない名前だねぇ」
コクマは、ハルファスすら恐れるメフィストフェレスの恐ろしさが分かっていないのか、まだ挑発するような態度を改めずにへらへらと笑っていた。
ねえさんはそんなコクマに慈悲を掛けるつもりはないようだ。
相手を馬鹿にしたような笑みを張り付かせたコクマと相変わらず眠そうなビナーを冷たい目で見た。
「折角だから教えてあげましょう」
ねえさんの声には抑揚がない。
背筋がゾクリとした。
「メフィストフェレスは魔界でも最高位に位置する悪魔の一人よ。かのゲーティア=グリフィスが魔界の創造主リュシフェルと契約を結んだ折、他の天文学者も悪魔を何人も呼び出そうとしたわ」
ねえさんが言うのはあくまで伝説の中での話――グリモワール建国にまつわる逸話の中でしか語られない物語だった。
「もちろん私の先祖も魔界から悪魔を呼び出したわ。それが、このメフィストフェレスよ」
伝説にしか過ぎないと思っていたそれは、どうやら史実だったらしい。
「クロウリー家にマルコシアスが代々仕えてきたようにファウスト家にはずっとメフィストフェレスがついていたわ。もちろん、表向きは王家に知らせることはせずにね」
含みのある言葉からは、王家がメフィストフェレスの存在を知っていたように思える。
ゼデキヤ王はファウスト家がコイン以外の、しかも最高位に位置するメフィストフェレスを呼び出して使役している事を容認していたというのか。
それでは、グリフィス家がコイン以外の悪魔を呼び出そうとしたというのは本当なのか。
リュシフェルを呼び出したというゲーティア=グリフィスの伝説は真実なのか。
頭の中が混乱する。
「私も15になると同時に契約したわ」
ねえさんは静かにそこまで言うと、どこからかナイフを取り出した。
そしてその刃を黒いドレスの上に滑らせる。
「!」
鋭い刃は黒い布を引き裂き白い肌を露にした。
布の裂け目から見える腹部に、漆黒の魔方陣が鈍い光を放っている。見た事のない悪魔紋章が刻まれたそれは、時折くそガキの額に現れる印に酷似していた。
「これが私の6人目の悪魔――」
ナイフを捨てて、ねえさんは慈悲の欠片もない表情を向けた。
「刻の悪魔メフィストフェレスよ」
そこでようやく、先ほどこの空間に飲み込まれてからずっとわだかまっていた違和感の正体がようやく分かった。
眼下に広がる戦場はピクリとも動いていない。
音がなくなったのではなく、幻想を含めた全ての兵隊の動きが止まっていたのだ。
「もう茶番は終わりよ。さようなら、セフィラ」




