SECT.18 切リ札
消耗戦を狙ったセフィロト国の作戦は確実にグリモワール国の戦力を削いでいった。
傷ついた兵は戦線を離れその代わりに新たに兵団が送られてくるが、対 幻想兵部隊は替えがない。
緊急で結成された対 幻想部隊は『覚醒』と名づけられ、一週間のうちに10人にまで増えた。とはいえ激しい戦闘と一人あたりの相手にする兵の多さにより短期間で疲弊しきっていた。
毎日とはいかないまでも隔日以上の頻度で攻めてくるセフィロト軍は確実に年内にトロメオを落とす気だろう。
特に幻想を伴って攻め入ってくるコクマやビナー、時にゲブラの相手もこなさなくてはいけない自分とねえさんへの負担は途方もないものになっていた。
『覚醒』の面々が時に加勢してくれたりもするが、空中戦には参戦できない。
もちろん向こうもそれが分かっているのだろう、嘲笑うかのように空から来襲したセフィラは迷うことなく自分たちに襲い掛かってくるのだった。
それでもやっと幻想兵と一般兵の区別がつくようになってきた。
表情に乏しい幻想は、兜に隠れて見えにくい顔を観察できればすぐに判別できる。ただし、混乱した戦場の中で冷静に判断できるかといわれればまた別問題だった。
「アレイ、伏せて!」
鋭い声に体が勝手に反応した。
屈んだ頭上をねえさんの放った黒球が凄まじい速度で通過し、コクマの形をした幻想を消滅させた。
背中合わせに構えた周囲を何百の兵が取り囲む。
幻想たちの合間に時折見える一般兵をなんとか避けて攻撃したい。
荒い息を整えるように深呼吸した。
いくらかすっきりした頭で敵をぐるりと見渡す。
「こう毎日じゃうんざりするわ……カーバンクルを取り戻すどころかトロメオの防衛で手一杯じゃない!」
「ホドからラファエルの加護を引き剥がす手段はないのか? 大元を叩けば幻想を相手にしなくてすむはずだ」
「心当たりはあるのだけれど……」
会話はそこで一旦途絶え、二人同時に飛び掛ってきた敵を吹っ飛ばした。
二人の幻想兵は黒球とかまいたちを食らって霧散する。
「うまくいくか分からないわ! でも試してみる価値はあるはずよ!」
「それは何だ?」
「印を、探すの」
「印?」
「そうよ」
ねえさんは頷いた。
「私たちがコインを持つようにセフィラも必ずどこかに天使の加護印を持っているはずだと思うのよ。それがどんな形か分からないけれど」
「なるほ、どっ」
飛び掛ってきた兵を一刀両断しながら答えた。
「つまりホドを探すより、印がどんなものなのかを見つけるのが先なんだな」
「そういうこと!」
ねえさんはそこで一旦口を噤んでから、ふっともらした。
「おそらく、皮膚のどこかにその印を刻んでいると思うわ。悪魔との契約でも、コインを使わなければそうなるはずだから」
「あの……くそガキの額に浮かんだ印のようなものか?」
「ええ、そうよ。次からは少し気をつけてみてくれるかしら?」
そこでねえさんはきっと上空を睨みつけた。
「ホドの前にあの二人を何とかしないといけないものね!」
近くにいた『覚醒』のメンバーに合図して戦地から戦空へ移動した。
もう馴染みの姿となってきた白い翼のセフィラ二人は、初めて会ったときと変わらない様子で浮いていた。
腑抜けた笑みを湛えたコクマと、半分閉じた眠そうな瞼で神官服に埋もれている少女ビナー。
「そろそろ降参したらどうだ? レメゲトン」
「そういうわけにはいかないわ」
「だがずいぶんお疲れのようだけどね」
「ご心配ありがとう……もう喋らないでくれる? あなたと話すのが一番疲れるのよ」
「相変わらず厳しいなぁ」
「分かったなら黙って頂戴。こっちもあまり時間をかけていられないの」
それを聞いた優男は肩をすくめるようにしてへらりと笑った。
「マルクト様とケテル様がついている限り時間の問題だね。無駄な事はやめたほうがいい」
それがまたねえさんの癇に障ったらしい。
ぴくりと一瞬頬が引きつったねえさんは、次の瞬間に冷たい空気を纏った。触れれば低温で火傷しそうな極寒のオーラだ。
隣で見ていてぞくりと背筋が冷える。
これは、かなり、危険だ。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
「アレイ」
ねえさんのメゾソプラノは絶対零度の冷気を纏っていた。
「これからのことは見なかったことにしてくれるかしら?」
「え?」
思わず首をかしげた自分に、ねえさんは魅力的に微笑んだ。
連続の戦闘で疲弊しきったところに最も嫌うセフィラの挑発――ねえさんはとうとうキレてしまったようだ。
「私はゲオルグ=ファウストの末裔、メフィア=ラスティミナ=ファウストよ。悪魔のグリモワールと共に歩んできたファウスト家450年の歴史をなめてもらっちゃ困るわ」
ねえさんは背の黒い翼と共に両手を大きく広げた。
一体何が起ころうとしているんだ?!
とにかく驚くような出来事が待っているだろうとしか予想できない。ねえさんがいったい何を始めるのか予想もつかない。
その場を離れようなど微塵も思わなかった。
それより何より体が動かなかったのだ。
「ひひ! ひひ! くるぞ! くるぞ!」
「……ハルファス?」
頭上に浮かぶこの悪魔が動揺しているところを初めて見た。
その影響か、体が硬直したように動かない。
「すげえ! すげえ!」
ハルファスの甲高い声が響く。
コクマとビナーも困惑の表情を隠さずねえさんを見ていた。
ねえさんは妖艶な薔薇色の唇からメゾソプラノの声でとある悪魔の名を呼んだ。
伝説上にしか存在しなかった、最高位の悪魔の名前を。
「メフィストフェレス……!」
――その瞬間、戦場全てが沈黙に包まれた。




