SECT.7 ヒトツダケ
「うそだ!」
がたん、と少女が馬車の中で立ち上がった。
がたがたと馬車が揺れる音だけが響いている。どうもこの音は耳に馴染まない。
「もう街に戻らないの? マスターにも会えないの? ちびマスターも? もう街を探索しなくてもいいの……?」
「そうよ」
「そんなの」
そこまで言って少女は口をつぐんだ。
ひどく困惑している様子だ。唇を一文字に引き結んでこぶしを固めている。よほどあの街に思い入れがあるのだろうか。
「ラック、何かを手に入れるとき人は代わりに何かを失うのよ」
ねえさんの瞳が帝王の光を灯した。
小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり、はっきりと告げる。
「もし戻りたいというのなら、まだ戻れるわ……あなた一人、あの街で生き抜いていくと決心して、実際生きていくことが出来るのなら」
「ねえちゃんは?」
「もしあなたが戻ると言っても、私は王都に行くわ。それはもう覆せないことよ」
「っ!」
その瞬間少女の顔が泣きそうに歪んだ。
おそらくこれまで3年間、街以外の生活を知らずに育ったのだろう。新しい世界に飛び込むのは少なからず恐怖を生むものだ。
わなわなと震える唇を下から見上げながら、阿呆相手とはいえ心ならずも胸が痛んだ。
この幼い少女――見た目はかなり成熟していたとしても少なくとも中身は――の心の中を占める絶望は想像を絶するものだろう。これまでの生活をすべて捨てて、何も知らない土地へ行くのだ。
だが、たとえどんな説明だったにせよ、ねえさんが嘘をつくことはない。故郷を捨てることが予想できなかったはずはないのだ。
きっと少女もそれが分かって言葉を飲み込んだのだろう。
「甘いな、お前。頭の中身も考え方もガキだ」
「うるさいっ!」
震えるような声で一喝された。
そのまま椅子に座り込んでじっとうつむいている。ふるふると震えるひざの上の右手を見つめて黙り込んでいた。
確かに今まではねえさんに守られて毎日単調な生活を送っていて幸せだったかもしれない。
だがきっと今がこの少女にとってステップアップする機会だ。
「これも嫌、あれも嫌なんて言っててどうするつもりだ?お前が望むように進む世界なんて、そんなものどこにも存在しないんだよ」
「……」
「ほしいもの全部手に入れられると思うなよ。無理に決まっているのだからな。だから、求めるものをひとつに絞れ。お前が一番大切だと思うものを選べ。いったい今何を求めるのか、それをさっさと決めてしまえ」
がたがたと馬車の音が響いている。
「決めたらもう迷うな。一番大切なものだけを命がけで追い求めろ」
そう、4年前自分がレメゲトンになることを決めた瞬間のように。
自分が一番大切だと思うものを選ばなくてはいけない。
「お前が、望むことは何だ?」
とても難しい問いのはずだ。
少女はじっと黙り込んだ。
ねえさんが信じられないものを見るような目を向けていた。アレイにもお説教ができたのね、という声が聞こえてきそうだ。
そんなことはどうでもいい。
少女の出す答えに興味があった。
すぐには出せないかもしれない。だが、生きていくには大切なものを『ひとつ』にすることが要求される。少なくとも自分は今までそうやって生きてきた。
じっと床に視線を落とすと長い睫が頬に影を落とす。耐えるように引き結ばれた桃色の唇も、少し上気して色づいた頬も人の視線を集めるには十分だろう。
なお少女の横顔に魅入っていた自分に驚く。
何か悔しくて視線を戻すと、楽しそうに微笑むねえさんと目が合った。
くそっ。
頬が引きつったかもしれない。
ねえさんに文句を言おうかと思った瞬間、少女が顔を上げた。
「おれは……ねえちゃんと一緒にいたい」
まっすぐにねえさんの金の瞳を見つめた漆黒の眼差しは驚くほど美しく澄んでいて――思わず息を呑んだ。
「3年前に拾われてから、名前をくれたのも、育ててくれたのも全部ねえちゃんだ。おれの世界はねえちゃんが創ってくれたんだ」
少女は微笑んだ。
最初に街で見かけたときと全く変わらない微笑だった。
「街にいたかったのはねえちゃんとの生活がしたかったからだ。過去が知りたいと思ったのは、知らずにいていつか過去が分った時にねえちゃんと裂かれるのが嫌だと思ったからだ。おれの世界は全部ねえちゃんと一緒にあるんだ」
その言葉で理解した……そうか、少女の世界はすべてこのねえさんと共にあったんだ。
「だから、おれはねえちゃんと行く。もしその行き先が過去なら過去を求める。王都に行くならついていく。街にもう戻らないっていうんなら、おれももう戻らない!」
「ラック……」
ねえさんは感動したようにつぶやいた。
この短時間で自分なりの答えにたどり着いたことだけは評価してやってもいい。
「やっぱりガキだな」
「ねえちゃん、おれ付いて行くよ。ねえちゃんが行くんなら地獄の果てにだって行く。おれの世界はそこにしかない」
少女はふいに自分のほうを向いた。
「ありがとう、アレイさん!」
まるで世界の暗闇をすべて打ち払うかのような笑顔。
不意打ちをくらって心臓が跳ね上がった。
天真爛漫で自分の欲望に忠実なように見えてその実、自分以外を大切にしすぎるわ。傍から見ていて胸が痛むほどにね。でも――怖いの。いつかそんなことをしていたらこの子が壊れやしないかって。
いつだったかねえさんが言った台詞が頭の中を駆け抜けた。
まぶたに焼きついた笑顔の理由はきっとそこにある。
あの笑顔はきっと人を大切に思い、人の幸せを願っている者だけが持っている笑顔だ。きっと、自分が今まで知らなかった暖かさをあの少女は持っている。
その答えを突き詰めていけば、自分が少女に惹かれた理由が容姿だけではないことに気づいたはずなのに、その時は頭の中が混乱していて気がつかなかった。
たとえその本当のきっかけが、自分の中に流れる血だったとしても。
これまで自分が一番大切にしていたものが他のものに取って代わられるなんて想像したこともなかった。
それでも何を失っても守ると誓ってしまう日がいつかきてしまう事を、微かにでも予感できたかもしれなかったのに――