SECT.12 未来ヘノ決意
それから数日、またセフィロトの動きが途絶えた。
カーバンクルに放たれた密偵は特に何の動きもないことを伝えていたが、油断は出来なかった。奇襲はセフィロト国の常套手段だ。いつ何時また兵が攻めてくるか知れない。
その合間を利用して空を飛ぶ訓練をすることにした。
ねえさんが召還する第69番目飛翔の悪魔デカラビアは飛行能力を与える。
背に翼を湛えるセフィラを相手にするに当たってこの能力はかなり有効だと言えた。それなりに使えるようになっておくべきだろう。
ねえさんに頼み、シェフィールド公爵家の中庭で練習を始めた。
「普段悪魔を使役するのとそう変わらないわ。身体能力的に問題はないから、必要なのは意思の力だけよ」
ふわりと背に生えた翼を一振りして、空に飛び上がる。
地に足が着かない感覚はやはり慣れる事が出来ない。
「地面がないというのは不安定だな」
剣を振るうとき地面を蹴る足はかなり重要だ。それがないというのは不安を掻き立てる要素だった。
これでまともに戦えるようになるのだろうか。
「風を使うハルファスも召還者に飛翔能力を与える事が出来るのじゃないかしら。一度聞いてみるといいわ」
ハルファス。翼。轟音。
豪風――
あの時の光景が舞い戻ってきてどきりとした。
「フォルス団長には私から言っておくから、偵察も兼ねてあちこち飛んできなさい。そうすればかなり慣れると思うわ」
ねえさんはひらひら、と手を振った。
「デカラビアの加護は大丈夫よ。私の持つコインの中では最も友好的な悪魔だから安心して」
本当にねえさんは何もかも型破りだと思う。
召還者以外に加護を与えるのは並大抵の事ではない。先日の悪魔同時召還も誰にでもできる芸当ではない。それこそ悪魔との親和性が並でないのだ。
この節目の時代にレメゲトンの長を務めていく重圧は計り知れない。
それを受け止め、国を導いていく彼女こそ伝説に相応しい。自分なんかよりずっと……
漆黒の翼を広げて青空に飛び立った。
草の匂いが体の隅々まで入り込んでくる。夏の空は抜けるように青い。こんな月並みな表現しか出来ない自分が嫌になるくらいに絶対的な青が塗りたくられていた。
吸い込まれそうになって仰け反った。
そのまま水にぷかりと浮かぶように漂った。
「ああ……」
思わず漏れた声が蒼に蕩けていった。
すべてが遠ざかっていく。
戦の音、自分の無力さ、過去に受けた傷も、今疼く傷も。
何もない空間に自分がポツリと浮いている。
孤独はない。だからと言って満たされたわけでもない。
ただ凪のように静かな気配が包み込んで、波音一つ立たぬ心の水面を撫でていった。
「会いたい」
不意に思い出すのはあの少女の笑顔。
瞼の裏に焼きついた面影を、もう一度目の前の青空に描きなおす。
「……会いたい」
負の感情が凪いだ時、残るのはあの少女への想い一つだ。
今まで生きてきてこれほどまでに願った事があっただろうか。どの機能が麻痺しても、この想いだけは消えないだろう。
かろうじて正に向かう感情はたった一つの方向しか見ていない。
穏やかで穏やかで、穏やか過ぎてうるさいくらいの凪の上で。
ただ自分の中で『一つだけ』最も大切なものを確認していた。
自分の中ではっきりと決めた。
そうしたら道が見えた気がした。
未来へ続く道。
結局最後に導いてくれたのはやっぱりお前なんだ――ラック。
もう、迷わない。傷ついても立ち止まったりしない。躊躇ったりしない。もし世界を変える事が出来ないのなら、その流れの渦の中で最大限に努力する。絶対にお前を見失ったりしない。
誰よりも、お前の傍にいたいから。
「ずいぶんすっきりした顔をしてるわよ、クロウリー伯爵」
ねえさんの声が出迎えてくれた。彼女はきっと何もかもを分かっていて自分を空に放ったんだろう。
いつだって心配をかけてばかりだ。
「ありがとう、ねえさん」
「いいえ。私は何もしていないわ」
こんな風に素直に感謝の意を述べられるようになったのもきっと――
もう一度だけ漆黒の瞳を思い出して微笑んだ。
街に警鐘が鳴り響く。
市民の退去が完了し、兵が続々と全土から集まってきたトロメオは完全に城塞都市と化していた。
「来たわね」
凛としたねえさんの横顔は決意に満ちていた。
「行くわよ、アレイ」
デカラビアを召還して背に漆黒の翼を湛えたねえさんがにこりと笑う。
自分も続いてハルファスの加護を受けた。
すると全身が軽くなる感覚と共に耳元に違和感が生じる。
「何度見ても可愛らしい姿よね」
「……言わないでくれ」
うめくように呟いた。
違和感の正体は頭の両側から広げられた羽根だ。小動物の耳のようにくっついたそれが飛翔能力の証だった。小さな子供がつけていれば愛らしいだろうが、自分がつけるのはかなり抵抗があった。
恥ずかしい事この上ない。
できればねえさんと代わってもらいたいのだがそういうわけにもいかない。
「今日は空から来てはいないみたいね。軍のほうへ向かいましょう」
「わかった」
地面を蹴るだけで簡単に浮いてしまう体をうまく風に乗せて、白地に金の旗印が目立つセフィロト軍に向かって飛んだ。
「セフィラが見当たらないわね。兵にまぎれているのかしら?」
ねえさんが訝しげな声を出す。
既に乱れ飛ぶ矢がねえさんに当たらず地面に落下しているところから見ると、既にバシンも召還しているようだ。
自分の方もハルファスが放つかまいたちに任せて、トロメオの城壁に進むセフィロト軍を見下ろした。
兵士たちが黒々とした塊となって矢の中を突き進む。
まるで連続して変化する絵画を見ているようだ。
「こんな時にラックがいたらきっとすぐにセフィラを見つけてくれるでしょうに」
ねえさんは軽く息をついた。
「仕方ないから探すわよ」
探すわよ、と言っても敵は万単位の軍勢だ。
先日奇襲を仕掛けてきたほんの3000人の兵とは文字通り桁が違う。
「ねえさん、それは無茶だ。相手が何もしてこないのならこちらも手を出さない方が……」
何万もの兵に単身突っ込むのは現実的にありえない。いかに悪魔の力を使い、戦略を得意とするねえさんであってもだ。
自分がハルファスの力を完全に解放したとしても一度に止められたのは100人程度だった。
ところがねえさんは当然の如く言い放つ。
「何言ってるの。私たちの方が人数的に不利なのよ。一人でも多くつぶさないと」
「つぶす、と言ってもセフィラはコインを持つわけじゃない。いったいどうやったら加護を解く事が出来るのか分からないだろう」
「それに関しては少しだけ心当たりがあるの」
ねえさんは魅力的に微笑んだ。
こうなってしまってはもう止める事などできない。
大きくため息をつくと、ねえさんを追ってトロメオの外堀に張り付いたセフィロト軍に向かって急降下した。
降下し始めると、逆に地面から上ってくる人影があった。
「あら、好都合」
コクマとビナーの2人だ。
「向こうから来てくれたわよ」
「……本当によかった」
心の底から呟いた。
「今日はここに固まってるみたいね。ほら、あそこにゲブラもいるわ」
ねえさんが指した先に手品師が馬上でこちらを見ていた。
あいつは本当にやる気がない。
放っておいても大丈夫だろうか?
「他にいるかもしれないから気をつけて。とりあえずコクマなんて瞬殺してくれるかしら?」
「……了解」
上官の無茶な命令にため息で答えて、目の前に迫ったセフィラの一人と対峙した。




