SECT.10 瞬殺
ゲブラのステッキは炎を纏っている。
そう言えばくそガキはこいつと対戦した事がある。どんな能力を持つのか事前に聞いておくべきだった。
己のうかつさに舌打ちし、とんとん、と軽くステップを踏んだ。
マルコシアスの加護のようなシンクロ率はない。体中にみなぎる力も違った感触だった。だが、驚くべきはこの身の軽さだった。
軽く跳んだだけでトロメオを囲む堀を飛び越えられるほどの脚力。つい先日ネツァクと戦闘した時もその速度に振り回されそうになったことを思い出した。
「身体能力にまだ慣れていないようですね」
ゲブラは楽しそうに笑う。
ほんの数度跳んだのを見て見抜くなど、本当に侮れない奴だ。
そう思って睨むとゲブラはにこりと笑った。
「警戒しないでください」
「戦場で敵に会って、警戒しないなどと言う事は有り得ないぞ?」
一体何を言っているのか。
思わず眉を寄せた。
「ふふ、そうですね。でも、勘違いしてはいけませんよ、クロウリー伯爵。あなたの敵は私個人ではないのですよ」
馬の蹄が地面を叩くことで起こされた地響きがすぐそこまで迫っている。
特攻部隊がゲブラの真後ろまで来ていた。
「あなたの敵は、この、セフィロト国なのです」
ゲブラの姿がふっと消えた。
「?!」
消えた?!
なぜこのタイミングで……
が、考えている暇はなかった。
目の前に3000の軍が迫っていた。
「ひゃはは! カマエル消えた! 人間だ! 人間だ! たくさん来るぞ!」
興奮するハルファスの声を無視して舌打ちした。
あの手品師はレメゲトンをただ一人軍の前に取り残すため、ここにひきつけていたのだ。あいつが瞬間移動できることを忘れてしまっていた。
あまりの自分のうかつさにもう一度舌打ちする。
とにかくここを離れなくては何百頭もの馬につぶされてしまうだろう。
ねえさんにばれたら「何をやってるの!」と叱られる事必須である。常に先を読みなさい、と再三言われているのだが、いまだにそれが出来ず困った状況に陥る事が多い。
要するにねえさんとの実力差の理由はその辺にあるのだろう。
これはロストコインを探していた時代、さらには炎妖玉騎士団に所属していた時代から変わらず自分の弱点であり続けているのだった。
「きゃは! 殺っていいか? 殺っていいか?」
「できるだけ我慢しろ!」
ハルファスに向かってそう叫んで、とにかくこの場を避けるために思い切り上空に跳び上がった。
目前に迫った馬上の人物の顔が特定できるほどの距離まで来ていた。
が、耳元を風が切って一瞬で景色が豹変した。
「……え?」
振り向くと東の都トロメオ全体が見渡せた。足元を豆粒のような騎兵隊が駆け抜けていく。青空が隣にいた。
予想していなかった事態に混乱する。
ハルファスの加護がどれほどの威力を持つのかまだ理解できていなかったようだ。
思いがけず高度まで跳び上がってしまった。
「さて、どうしようか」
体が降下し始めてから考える。
危機になってからようやく考え始める癖は改めた方がいいかもしれない。これまではすべて何とかなったが、きっといつか身を滅ぼすときが来るだろう。
困っているとハルファスの甲高い声が頭に響いた。
「ひひ! 任せろ!」
楽しそうなハルファスは、羽根に覆われた両腕を大きく広げた。
ごう、と耳元の風が渦を巻いた。
次の瞬間にはまたも信じられない光景が眼前に広がった。
豪風が騎兵隊を翻弄している。
兵士の乗った馬が楽々と空に浮き、騎手を引き剥がした。剣士の手から外れた剣が乱れ飛び、その刃は馬も人も構わず傷つけていく。
百人以上の騎兵が突如吹き荒れた豪風によって空に舞い上げられた。
すべてが上空に巻き上げられた状態で、自分はふわりと地面に着地した。
「ひひ!」
ハルファスの笑い。
次の瞬間すべてが空から降ってきた。
何かがつぶれる音、砕ける音、叩く音――大気全体が、震えた。
「……!」
一瞬にして周囲は惨状と化した。
十メートル以上もの高さまで巻き上げられ、落下した騎兵隊はほぼ殲滅状態だ。
生きている者が残っているかも定かではない。ぴくりともしない人間と馬の群れを前に体が動かなかった。
遅れて頭上から振ってきた誰かの長剣をハルファスがかまいたちのようなもので弾き飛ばした。
からんからん、と軽い音を立てて剣は地面に転がった。
うつ伏せに倒れた兵士の下にじわじわと赤いしみが広がっていく。すでに血溜まりの中に仰向けた兵士もいる。風で飛んだ剣が胸を貫いている人もあった。
再び戦場に沈黙が訪れた。
先陣騎兵隊の100人以上が瞬く間に壊滅したことで、後続部隊は足を止めている。
それどころか後方では逃げ出し始めたセフィロト兵もいるようだ。
「ひひひ! ちょっと失敗か?」
ハルファスの声ががんがんと響く。
それではっとした。
今がチャンスだ。
「退け! セフィロト軍! 退けばこれ以上は追わぬ!」
腹の底から搾り出すように叫んだ。
心臓が凄まじい速さで脈打っている。まるで頭の中からがんがんと叩かれているようだ。
兵の列が一歩、また一歩と退いていく。
それを見てほっとした自分がいた。
倒れた兵士に見向きもせず、散り散りに退いていくセフィロト軍――あまりにあっさりとしていて拍子抜けした。
ハルファスを魔界に返すと、ふと一息ついてあたりを見渡した。
――最悪の光景が広がっていた。
抉られた地面に泡を吹く馬が転がっている。びくりと痙攣するその足元には全く動かない兵士が転がっている。その地面は真っ赤に染まっていた。
自分をぐるりと囲んだ半径数十メートル以内はずっとそんな光景が広がっていた。
掘り起こされた土の香りと風にのってきた血の匂いに思わずくらりとして頭を押さえた。
恐怖に目を見開いて事切れた、足元に転がる兵士と目が合う。
「……っ!」
悲鳴も出ない衝撃が全身を駆け抜けた。
全身が震えだす。
人を殺したのは――初めてではない。語るべき事でもないが、触れ回る事でもない。その記憶は今でも重いが特筆すべき傷ではなかった。
戦争に来る時点で命のやり取りは覚悟してきたはずだった。
それでも、レメゲトンになる時一つだけ心のどこかで決めていた事があった。
「この力だけは使いたくなかった……」
悪魔の力を使って人の命を奪うことだけはしたくない。たとえ自分の剣でやむを得ず戦闘する事はあっても、人外の力をぶつける事だけは。
人間の持ちえないこの強大な力でもって抵抗する事もできない人間を殺す事だけは――
泣く事を忘れた眼から涙が溢れる事はない。
それでも、その時自分は泣いていた。声も上げず涙も流さず泣いていた。




