SECT.9 カマエル
矢が乱れ飛ぶ中、門の上に立った。
風で腰まであるストレートの黒髪が靡いた。
数百メートル先にセフィロト軍が陣形を組んで待機しているのが分かる。今動いているのは弓部隊だけだが、しばらくすれば全軍が進行してくるだろう。
広場の市民は退避し終わっただろうか。
空中でセフィラと戦闘を続けるねえさんは……
すべての雑念を打ち払うように叫んだ。
「ハルファス!」
加護が全身にいきわたる。
「ひゃはは! 人間だ! 人間だ! あれ全部殺っていいか?」
ハルファスの声が頭の中に響く。
「駄目だ。殺してはいけない。気絶させるだけだ」
「難しいな! でもやる! 俺やる!」
「……感謝する」
加護を受けた体で門の上から飛び降りた。
都市をぐるりと取り巻く堀を軽く凌駕して、舗装されていない道にざっと着地した。もう一度数百メートル先にいる敵軍を睨み、狙いの人物を発見する。
これだけ目立つ行動をしているのだ、敵軍の先頭に立つあのセフィラも自分に気づいているはずなのだ。
それでも出てこないのなら、派手に立ち回っておびき寄せるしかない。
左手で剣を構えて切っ先を真直ぐ敵軍に突きつけた。
「攻撃を止めるなよ、フェルメイ!」
後ろの壁に向かって叫ぶと、予想外に声が響いてしまった。いったん敵からの攻撃が止み、注意が完全に自分に向いた事を感じる。
これでおとりとして動く事が出来る。
次の瞬間には凄まじい数の矢が降ってきた。
「ハルファス、お前は剣以外の力も使えるな?」
「ひひひ! よく知ってるな!」
「助けてくれるか?」
「ひゃは! いいぞ!」
自分の頭上に幼い子供の影が浮かび上がった――ハルファスだ。
上半身だけ姿を現した戦の悪魔ハルファスはその短い腕を頭上に掲げた。
矢はすぐそこまで迫っている。
「吹き飛べ!」
甲高い声と共に突風が吹き荒れた。
突風と言っても半端な風ではない。
半径数十メートルにわたって吹き荒れる豪風に、飛んできた矢はすべてはじかれ、折られ、粉々に宙を舞った。凄まじいまでの気圧に耐え切れず地面は抉り取られ、わずかに生えていた草も根こそぎ吹き飛ばされてしまった。
「きゃはははは! 飛んだ飛んだ!」
「……!」
予想以上の威力だ。
これはうまく使わないと敵味方構わず破壊してしまうと言う事態を招きかねない。
まるでクレーターのように何もなくなってしまった場所の中心に佇み、改めてハルファスを支配下に置けたことを深くリュシフェルに感謝した。
とても人が起こすとは思えない大災害を前に、両軍とも沈黙していた。
数千人の視線がすべて自分に向けられている。
3000もの敵国軍隊を前に一歩も退かず、人知を超えた悪魔の能力で全てを打ち払った。
闇を思わせる黒髪に悪魔の末裔印である紫水晶の瞳、悪魔紋章を刺繍した正装と黒のマント、左手には第49番目の悪魔サブノックが鍛えた長剣――それは古来崇拝されてきたレメゲトンの姿そのものだ。今回ばかりは自分の容姿に感謝しよう。おそらくグリモワール軍にとっては最高の、セフィロト軍にとっては最低のパフォーマンスになったに違いない。
目立つ行動は好きではないが、四の五の言っている場合ではないのだ。
戦いは人が起こすもの。
だとすれば、争いを動かすには人の心を動かすのが最も効率がいい。
とても何千人もの人間がここにいるとは思えないような静寂がトロメオを包んでいた。
ところが、その静寂を破る音がある。
「仕方ありませんね」
久しぶりに聞く声。
静まり返った戦場に似合わぬ、燕尾服の男が自分の目の前に現れた。
相変わらず神出鬼没だ。先ほどまでセフィロト軍の先頭にいたくせに一瞬で距離をつめてきた。以前から不審に思っていたのだが、どうもこいつは天使の加護なしに瞬間移動でもできるらしい。
「久しぶりだな、手品師」
「ふふ、まだ名乗っていませんでしたか? 私はセフィラ第5番目ゲブラ、峻厳の天使カマエルを召還します。お久しぶりです、クロウリー伯爵。やっぱり戦場で会えましたね。私が言ったとおりだったでしょう?」
「……相変わらずよく喋る」
吐き捨てるように言ったが、手品師はまるで意に介さない様子だった。
「ちゃんと足止めに2人向かわせたんですけれどね。実力を出し切ったファウスト女伯爵の力は思った以上です」
「はっきり言ってねえさんの実力は俺の数段上だ。並みのセフィラ2人程度では止められん」
「やはり、殺しておくべきでしたか?」
「……口には気をつけろ」
怒りの炎がかすかに胸の端を焦がす。
驚きでいったん攻撃が止んでいた兵団もまた矢の嵐を降らせ始めた。
同時に地響きと共にセフィロト軍が侵攻してくる。
「おやおや、このままでは進軍に巻き込まれてしまいますね」
「お前の軍だろう」
「いえ、マルクト様の軍ですよ」
マルクト様、などとはいけしゃあしゃあとよく言ったものだ。セフィロト国に忠誠など誓っていないくせに。
背後に迫った軍に怯えることなく、シルクハットのセフィラは声高に天使の名を呼んだ。
「カマエル!」
ぶわ、と熱風が吹きつけた。
まるであのくそガキがフラウロスを召還したときのようだ。
見ると手品師の背後には真紅の甲冑を身につけ巨大な槍を手にした戦士が控えていた。熱風の元はその戦士――カマエルのようだ。
「カマエルだ! はは! 面白くなってきた!」
自分の頭上に浮かぶハルファスが嬉しそうに笑う。
ゲブラは何もない空間からステッキを取り出した。まるで本物の手品師だ。
こいつには他のセフィラにはない恐ろしさがある。その正体が何かは分からなかったが、油断するわけにはいかない。
真直ぐに見据えて剣を構えた。
ゲブラは剣でなくステッキを構えている。背後に浮かぶ真紅の甲冑がとてつもないオーラを放出していた。
くそガキはこの天使がフラウロスの片割れだ、と言っていた。
この圧力がフラウロスと同等のものだとしたら、あのグリフィス家の末裔はとんでもない化け物を使役していることになる。
「ひゃははは! カマエル! 倒す!」
キンキンと響く声が近づく馬蹄の音を裂く。
地響きと鬨の声が集中力を削ぐ。
「五月蝿い悪魔ですね、私とクロウリー伯爵の会話を邪魔しないで欲しいものです」
そういって唇の端をあげる手品師に、闘気とは別の何かを感じて背筋がぞわりとした。ついでに顔が引きつる。
ねえさんと変わってもらえばよかった。心の底からそう思ったが、今さら後悔しても遅い。
3000の兵が迫るトロメオの眼前で、一歩も退かぬ決意でゲブラと対峙した。




