SECT.7 飛翔と奇襲
数日後到着したアリギエリ女爵と共にまだ避難の済んでいない市民と騎士団員や兵たちの前でレメゲトンの到着を宣言した。
シェフィールド公爵家の中庭を解放し、千人以上もの市民を集めてのお披露目だった。
目の前で戦が繰り広げられ、人々は怯えている。それを沈めるためにも表に出ておく必要があった。
二階のバルコニーから千人もの人を見下ろすと、本当にこの人数を守りきれるのか不安になっていた。
ここ数日セフィロト軍は何の動きもない。
明らかにおかしかった。
それでも敵軍の様子を見ながら市民を少しずつ脱出させていく――残されていく人々は不安に包まれていた。
レメゲトンの正装に身を包んだねえさんは市民たちを落ち着けるため、比較的人間に友好的なクローセルを呼び出した。
「おお、クローセル様だ!」
「何という偉大なお姿……!」
地に伏し祈りを捧げる人々を、シェフィールド公爵家のバルコニーから見下ろし、クローセルはやれやれと首を振った。
「俺は見世物じゃないっつーの」
「ごめんなさいね、クローセル。あなたにしか頼めない事なのよ」
「まあ ミーナねえさんの頼みなら」
文句を言いつつも金髪碧眼の堕天使クローセルは、純白にほんの少し青空の色を溶かし込んだ色をした翼を一振りし、真っ青で一点の曇りもない夏の空に飛び立った。
バルコニーの下に集まった民衆からはどよめきが沸き起こる。
クローセルが大きな三叉戟を一振りすると、その先から太陽の光を反射する水の粒が放たれた。
輝光石の欠片を振りまいたようにきらきらと輝く雫は、光のヴェールとなって人民に降り注ぐ。
声も忘れ天を仰ぐ人々。
大昔からレメゲトンはこうやって人民の心を掴んできたのだろう。
腰まであるストレートブロンドを風に靡かせたねえさんは人々を導く救世主のようだった。
その場にいるだけで人の視線を集める、絶対的な存在感を持った者――まさにそれはねえさんの事を指しているようだ。
「これで満足? ミーナねえさん」
ふわりとバルコニーに戻ってきたクローセルに、ねえさんはねぎらいの言葉をかける。
「十分よ、ありがとうクローセル」
「ねえさん もっと褒めて!」
調子に乗りそうなクローセルを一瞥し、ねえさんはすぱりと切り捨てた。
「もう帰っていいわよ」
「冷たい! 最近俺に冷たいよ ねえさん!」
「煩いからやめて。これでも疲れてるのよ、私」
これほどまでに対等に、というかそれ以上に悪魔と言い合うレメゲトンも史上少ないだろう。
クローセルは美しい顔を歪めて――元が完璧だから歪めても美しいのだが――まるで泣きそうな顔をした。
これほど正直に感情を表に出す悪魔も少ないだろう。
「だって俺 ねえさんの力になりたいのよ? 戦闘には出らんないけどさ」
クローセルの言葉にねえさんは軽く微笑んだ。
「仕方のないことでしょう。世界の理があなたを天使の前に存在させないのだから」
我侭を言う幼子を諭すような優しい声音だった。
クローセルは唇を尖らせた。
その表情には見覚えがあった。
「俺の知らないところで ねえさんが危険な目に遭うのは耐えられないんだ」
とても聞き覚えのある台詞を呟いて、金髪碧眼の堕天使は俯いた。
ざくり、と心臓が抉られる感覚が襲ってくる。
「……バカね。私が負けるわけないでしょう?」
微笑んだねえさんは、くそガキに見せる微笑みをクローセルに向けていた。
見た目だけなら文句なしに天使といえる容姿をしている彼の中身はどうやら未だ幼いようだ。ねえさんに懐いているのもくそガキがねえさんに向けるような感情を有しているからかもしれない。
「心配しないで。私は……」
その瞬間、クローセルの姿が空中から消え去った。
明らかに不自然な悪魔の消失――これが示す可能性はほぼ決定されているといっていい。思わず剣の柄に手を掛けた。
どこだ?どこにいる?
天使の姿を探して周囲に気を張った。
しかしすぐに市民が集合した広場に、兵士が転がり込んでくる。
「セフィロト国の奇襲です!」
驚くほど広場に響き渡ったその声は、人民にパニックを呼び起こした。
広場を埋め尽くす悲鳴、慌てて広場を抜けようとする人々……騎士たちの指示を聞かない民主うのパニックはそのまま放っておけば深刻な事態を引き起こしていただろう。
それを留めたのはやはりレメゲトンの長であるねえさんだった。
「動かないで!」
凛とした声が響き渡った。
ぴたり、と千人を超す民衆の動きが止まる。
「避難は騎士団員が指示するわ。勝手に動けば敵の思う壺よ。指示に従って順番に避難しなさい」
有無を言わさぬ絶対的な口調は、確実に市民の心を捉えた。
ゆっくりと動き始めた民衆の群れから視線を外し、帝王の光を灯す黄金の輝きはまっすぐに上空を見上げる。
「来たわよ、アレイ。ぜったいに人々に被害を出しちゃ駄目」
真っ青な空に浮かぶ純白の翼。
マルコシアスと同じそれは天界に住まう者の証だ。
「空から奇襲とは考えたわね。でも、私たちがいるからにはそんな事させないわ」
その横顔は何が来ても揺るがない精神に裏打ちされた強い意思に満ちていた。
人々と正面から攻めてきたセフィロト軍はフォルス騎士団長に任せるとして、空から飛来したセフィラを相手にしなくてはいけない。
ねえさんはマントをはずすと天に高く手を掲げた。
「デカラビア!」
第69番目、飛翔の悪魔デカラビアは全ての鳥を操る能力と飛行能力を与える。
バルコニーに漆黒の翼が広がった。
背中の大きく開いた黒いドレスから漆黒の羽根が伸びている姿は悪魔の化身のようだった。
「あなたも行くのよ、アレイ」
ねえさんの手が背に触れた。
背がむず痒くなり、漆黒の羽根が視界を横切った。
「最初は少し難しいかもしれないけれど、あなたならすぐに慣れるわ」
自分の背に漆黒の翼を確認する。
なんだか妙な気分だ。
だが、今にも空へ飛び立てそうな気がする。
まるで最初から飛び方を知っているかのように気分が高揚した。マルコシアスともハルファスとも違う加護が自分を包んでいた。
「さあ、行きましょう」
負けないための戦いに。
守るための戦いに。
空に浮かぶ純白の翼を目指して、漆黒の翼を一振りした。
地面に足がつかないのはひどく不安定な状況だった。
純白の翼を背に湛えた天使――セフィラの姿を目指して青空の中を真直ぐに飛翔した。
「ふふ、さすがねアレイ。私は飛べるようになるまでずいぶんかかったのよ?」
「……それを突然実戦で使わせるなど、何を考えているんだ」
ため息をつくと、隣を飛ぶねえさんはくすくすと笑った。
「あなたならできると思っていたからよ」
「まったく」
あきれると同時に信じられていた事が嬉しかった。
「セフィラも2人いるみたいね。1人頼むわよ?」
「分かっている」
見上げた先には、同じく天使の加護を受けているのだろう、背に翼を湛え神官服に身を包んだセフィラが2人中に浮いていた。




