SECT.6 真実ノ少女
王都に来るときよりずっとのんびりした速度で街に向かっていた。
どう考えても一日二日で完治するような怪我ではない。ゆっくり向かってもさほど支障はないだろう。
明日には街に着くという晩、夜遅く宿屋に入った。
「一晩泊めてもらえるか?」
「はい、お一人様ですね」
宿の番をしていたのは、若い娘だった。
おそらくグリフィス家末裔の少女と同じくらいの年だろう、きりりとつり上がった眉と温和そうな大きな眼が妖艶な、世間一般的に美女と呼ばれるたぐいに入るであろう女性だった。
やたらとちらちら自分のほうを見ているのが分かる。
「こちらの部屋です」
部屋まで案内し、妖艶に唇の端で微笑んだ。
「ありがとう」
短く礼を言うと、少女はほう、とため息をついた。
「お兄さん、すごくお綺麗ですね。声も素敵」
「……」
その台詞に困惑した。
いったいこの女は何を言いたいのだろう?
「もしよかったら少しお話しませんか?」
ああ、その手の誘いはいらない。
返事もせずに部屋の扉を閉めた。
自分が人並み以上の容姿をしていることは自覚している。だからといってどうということはないが、面倒といえば面倒だ。
ねえさんもかなり見目麗しい部類に入るだろうが、彼女の場合はそれを楽しむだけのバイタリティも心の余裕も有している。
どさりと荷物を置いて、ベッドに横たわった。
天井を見上げながらふとあの少女のことを思い出す。
自分は、あの少女について何も知らなかった。言葉を交わしたこともなければ、動いている姿を見たのも一度きりだ。
それなのに、あの屈託ない笑顔が瞼の裏に焼きついて離れない。
今すぐにでも会いたいと、全身の血が叫んでいる。
「何故だ……」
感情が消えない。
それどころか、心臓の鼓動に合わせて全身に向かって吐きだされる血がさらにその感情を増幅させていくようにも感じる。
理屈ではない感情が全身を支配していた。
そして自分は、この先あの少女に契約という難関が待っていることに気づいてようやく自分の上官の感情を理解した。
彼女はあの少女を大切に大切に育ててきたのだ。
契約の際には、過去何人ものレメゲトンが帰ってこなかったり、命を落としたりしている。百年前までその成功率は二割に満たなかったらしい。
マルコシアスとの契約を思い出す。今でこそかなり親しくはなったが、契約で初めて目にした時の恐怖と畏怖はとても忘れられるものではない。契約のためにいったいどれだけ向こうにいたのか分からない。くそじじぃが気づいた時には血まみれで魔方陣の中に転がっていたらしい。自分自身も最後の方はいったい何が起きたのか、どうやってマルコシアスが契約を承諾したのか全く覚えていなかった。
漆黒の瞳を持つあの少女はいったいどの悪魔と契約を結ぶのだろう。無事に帰ってくるといいのだが。
考えても仕方がない。
おとなしく眠ろうとしたが、一度だけ見た漆黒の瞳が頭から離れてくれなかった。
ねえさんがあの少女にどんな風に説明したのかは分からないが、自分が到着した次の日には王都に発つことが決まっていた。
王都まで行く馬車を用意し、ねえさんの店の前で待っていると、少女の声が聞こえた。
馬車の階段を上る音がして、入り口が開く。
その口から発せられた言葉は、予想していたものと少々違っていた。
「あ……えーと、誰?」
かわいらしく小首をかしげて大きな漆黒の瞳をきょんと丸くした。
その後ろからねえさんが入ってきて苦笑する。
「忘れてたわ。私の知人のアレイスター=W=クロウリー。今回王都まで一緒に行くのよ」
少女はだいぶ健康を取り戻したようだった。頬には淡く桃がさして、黒髪は肩の辺りで揺れている。ぱっちりとした黒瞳が目を惹く、利発そうな顔立ちだった。
「はじめまして、クロウリーさん。おれはラックといいます。よろしく」
おれ、という一人称に驚いた。
それより何よりあの糸の切れた人形のように動かなかった少女が動いているという事実が新鮮だった。
「……よろしく」
かなりそっけない言い方になったのは仕方ないだろう。
向かい合わせの席は広いのに、なぜか少女は自分の隣に腰掛けた。
いったい何を考えているんだ?
「さて、何から話そうかしら……説明は手伝ってくれるのよね、アレイ?」
「ん、まあ、それなりに」
少女の顔をまともに見ることはできなかった。
ねえさんは向かい合わせに座った少女に諭すような口調で話し始めた。
「それじゃラック、今まであなたに教えていなかったこの国のこと、グリモワール王国のことから少しずつ話していくわ」
「グリモワール王国?」
きょとん、とした声を出した少女はまるで何も知らない子供のようだった。
「そうよ。あなたや私が今住んでいるこの土地を治めているのは、ゲーティア=ゼデキヤ=グリモワール様。グリモワール王国第22代ゼデキヤ王という方なの」
「ゼデキヤ王」
「そう。私たちが住んでいたカトランジェの街や、隣のジャスパグ、今向かっている王都ユダ・イスコキュートスもそうよ。みんなゼデキヤ王が支配してらっしゃるの」
「王都ユダ・イスコキュートス」
なぜいちいち口に出すのか。
オウムじゃないんだ、静かに聴いていろ。
「ユダというのはグリモワール初代国王の名前よ。ユダ=ダビデ=グリモワール。でも、ダビデ王と呼ばれることのほうが多いわね」
「ユダ=ダビデ=グリモワール」
少女はまるで無理難題を押し付けられたかのように眉を寄せた。
ちょっと待て。何かおかしい。この反応はとても20歳近い娘のする反応ではない。
とても素直なよい子なのよ、というねえさんの言葉が頭の中で反芻された。
「覚えなくても大丈夫よ、ラック」
「ほんと?」
「できれば、今の王様の名前だけ覚えておきなさい」
「えーと、ゼデキヤ王。ナントカゼデキヤ=グリモワール」
ああ、やっぱりそうか。
今の台詞で確信した。
「まあ、それで十分だわ。それ以外はなんとなく覚えていればいいわよ。これからどんどん難しい話をするから」
「わかった」
あまりにも阿呆面で笑ったために、思わず本音が出てしまった。
「何だ、こいつただの阿呆か」
その瞬間ねえさんが頭を抑えた。こうなることはいくらか予想していたようだ。
「むっ! なんだよう」
これまでいろんなことを心配していた自分が馬鹿らしく思えた。
何でこんな頭のねじが抜けたやつのことなどずっと考えていたんだろう?
容姿を愛でるだけの人形のようだった少女が動き始めた途端、自分の中での少女の位置が完全に変わってしまった。
――そうか。
自分は美しい花を愛でるように、壮大な景色に感動するようにこの少女の容姿に惹かれていただけだったんだ。心配して損をしてしまった。
自分の中でそう結論付けると、はあ、と床に向かってため息をつく。一気に気が抜けた。
「事実を言ったまでだ」
こうなればもうとどめるものは何もない。
この少女は人形ではないのだから。
「アレイ、やめなさい。ラックも落ち着いて」
「だって、ねえちゃん!」
「年は知らんが、どう見ても20近いだろう。精神年齢はいったいいくつだ?頭の年齢も調べたほうがいいぞ。信じられんくらいに役に立たん頭だろうな」
そう言うと少女は眉を寄せた。
「おれが阿呆なんて、そんなこと自分だって分かってるさ!」
「そうか、分かってるか。分かっててそれじゃあお前はもう救いようのない馬鹿だな」
「何だと!」
眉間にしわを寄せて、唇を尖らせてその少女が睨んでいるのがわかったが、それを無視して視線を窓の外に向けた。
いったい何なんだ。容姿と中身が違いすぎる。まるで子供だ。
黙って座っていればよっぽど美しい娘だというのに。
「もうやめなさい、アレイ……ラック、続きを話すわよ?」
「うん、いいよ」
少女はぶすくれた様子でしぶしぶ退いた。
その様子を見て困ったように笑いながらねえさんは話を続けた。
「今わたしたちが向かっているのは王都ユダ・イスコキュートス。王都ユダと呼ばれることのほうが多いわ。さっきも言ったけれど馬車で5日はかかるの」
「遠いね」
「そうよ、遠いの。一度行ってしまったらきっと、もうあの街に戻れないわ」
ねえさんの台詞で少女は素っ頓狂な声を出した。
「えっ?! どういうこと?!」
まるで何も聞いていないかのような口調だが、ねえさんは連れてくる時に何も話さなかったのだろうか。
いや、何も話せなかったのかもしれない。
3年間も大切に育ててきた、それこそ純真無垢な心を持った少女の前で故郷を捨てろなどということはとても口に出せなかったのだろう。
それでもねえさんは決心したようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「一度王都に行ってしまえば、私は情報屋をやめて、元の職に戻ることになるわ。そうしたらもうあの街には戻らない」
「情報屋やめるの? そしたらおれはどうしたらいいんだ?」
困惑した少女はまるで迷子になった子供のように見えた。
「あなたも王都で新しい地位と身分をもらうことになるでしょう。いいえ、新しい、というよりはあなたが記憶をなくす前にいた場所に戻るの」