SECT.5 保険
遠ざかっていく屋敷の玄関でずっと手を振り続けるガキを後ろに見送って、戦地への道のりについた。
「子供が成長するのは嬉しいけれど寂しいのよね」
ポツリと呟くねえさんの声のトーンが恐ろしい。
道中馬車に二人きりというのはかなり厳しいものがある。
ところが、ねえさんの口から出たのはいつものように自分を牽制する言葉ではなくむしろ肯定する言葉だった。
「アレイ、あの子を絶対に離しちゃだめよ。ラックにはあなたしかいないし、あなたにはラックしかいないんだから」
「違うだろう。それは俺の役ではなくねえさんの場所だ」
戸惑いながらも当たり前の答えを返すと、ねえさんの金の瞳が自分を射抜いた。
「もう認めなさい。あの子を支える事が出来るのはあなただけなのよ」
有無を言わさぬ眼だった。
「他の誰の前であの子が泣くというの? 怖いだなんて言うと思うの? 誰の言葉だったら別離を納得するの?」
「それは」
「あの子が泣くところなんて一度だって見た事がないわよ。3年間育てていて、一度もないのよ?」
ねえさんの前で泣かないのは困らせたくないからだ。嫌われたくないからだとあいつははっきり言った。
自分の前で弱音を吐くのはきっと父親というポジションについてしまったからだ。
「もう悔しいったら……!」
そんな事を言われても仕方がない。優しく包むのが母の役目だとしたら、全部受け止めるのが父の役目だ――ごく一般的な家庭ではそうなっているはずだ。
残念ながら自分の家は全く違うものになってしまっているけれど。
と、ねえさんの人差し指が目の前に突きつけられた。
「いい加減意地を張るのはやめなさい、アレイ。伝わらなくてもいいなんて言ってたらあの子は本当に気づかないわよ。誰かが教えないと分からない事だってあるの」
ごくり、と唾を飲んだ。
ねえさんの目がいつになく本気だったからだ。
「次に会うのはいつになるのかしら。半年後? 一年後? その時あなたはいったいどうするつもりなの?」
「……」
「あと2年もすればあの子も成人よ。その頃に戦争が終わっているかどうかは分からないけれど、確実に周囲はラックを放っては置かないでしょうね。もう私たちを含めて6人しかいないレメゲトンの、しかも稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスのただ一人の子孫よ。もし手に入れられれば絶大な地位と権力を手にする事になるもの」
地位。権力。名声。
少女はきっと戦争とは全く違う争いの渦中に巻き込まれていくだろう。何も知らない無垢な少女はおそらくそれになす術なく翻弄されてしまうだろう。
「ミュレク殿下は立派よ。彼はラックを全てから守るつもりでいたもの。それをちゃんとあの子に伝えたのよ――姫のお気に召さなかったようだけれどね」
レメゲトンではない職を与えることは、この国をすべる王族であるからこそできることだ。
グリモワール王国ではすべての任命権限が王の下にある。レメゲトンはもちろん騎士、国家医師、騎士、議員、爵位に至るまですべてが王の名の下に定められている。
独裁ともなりかねない王の所業を唯一止める権限を持つのは貴族議会だ。通常議会とは別に設置されたそれは王を罷免する事が出来る。
ある意味で王と同等の権力を持っているのだ。
いずれにせよ要職はすべて王族の意思で決定される。
いかに名門クロウリー家の嫡子であってもそこに口を出す権利はない。
「ちゃんと示しなさい。あの子はいつだってそれを望んでいるわ」
そうだ。あいつはいつも迷っている。
ねえさん、銀髪のセフィラ、街の人間……大切なものが多いせいで、やりたいこととやらなくてはいけない事が多すぎるといつも困惑して足が前へ進まなくなるのだ。
そんな場面に何度も出くわした自分は、いつもあいつの目の前にやるべきことを「一つだけ」残してきた。
きっとまたあいつはたくさんの大切なものに囲まれて身動きできなくなるときが来る。
そして、あいつが最も苦手とする身分とか権力とか、そんなものの大きな流れに巻き込まれていくんだろう。
その時自分は一体どうするんだろう。
果たして少女に手を差し伸べる事が出来るのだろうか。「一つだけ」の道の先に自分を選べと言う事が出来るのだろうか……?
戸惑って口を噤んだ自分に、ねえさんは諭すように言った。
「拒絶される事を恐れないで。あの子は今も成長しているわ。そう遠くない未来、あなたの気持ちを理解するようになるはずよ」
「俺は」
傍にいるというだけでなく、もう一歩先に進んだ解答が必要だった。
それはすなわち彼女の要望をかなえるだけでなく自分の望みを表に出すと言う事と同義でもある。
「大丈夫よ、心配しないで。ラックを3年も育ててきた私が言うのよ? それが信じられないって言うのかしら」
答えられなくて唇をひき結んだ。
「努力……する」
かろうじてそう呟くと、ねえさんは不満そうだったがとりあえず納得したようだ。
その様子にどこか違和感を覚えた。
「ねえさん。どうしてそんな事を言い出したんだ? 今までは俺があのくそガキに不必要に近づくのを嫌がっていたはずだ」
今日のねえさんは少しおかしかった。
何かを急くように結論を導こうとした。
まるであのくそガキの将来を誰かに託すかのように……
「仕方ないじゃない。これから向かうのは戦場なのよ。いったいいつ命を落とすか知れない」
ねえさんの顔が翳った。
「もちろん死ぬ気なんてさらさらないわよ? でも、保険はかけておくものでしょ」
ああ、そうか。
自分の身のことなどすっかり忘れていた。
これから向かうのは戦場――いつ命を落としてもおかしくない場所だ。
「そんな弱気はねえさんらしくないな」
「……言うようになったわね、アレイ」
ねえさんは唇の端を上げた。
「じゃあ、最後にあの子に関係ないことを一つだけ。これは、忠告よ」
「何だ?」
「ほんのわずかだけれどレメゲトンに不信感を抱く者が出ているわ。おそらくセフィロト国の言い分を聞いたものたちでしょうね」
セフィロト国の言い分、つまりはレメゲトンがセフィラへ攻撃を加えたことが戦の一因となったとことを指しているのだろう。
セフィラと戦闘したのは事実である。
だが、その裏の事情を知らない人々にとって戦争の引き金になるような行動をしたレメゲトンへの不信が高まるのは仕方のないことだ。
「分かった。気をつけよう」
最初は小さなひび割れでも、後の決壊に繋がる事もある。
「ごめんなさいね、私があいつらを倒せなかったばっかりに」
「いや、それは」
無茶と言うものだろう。
貴族たちのひしめくジュデッカ城に突如現れたセフィラを転送しただけでかなりの功績だ。それも相手は美の天使ミカエル。王冠の天使メタトロン、王国の天使サンダルフォンに継ぐ実力を持つ強大な相手だった。
「セフィラにはもう負けないわ」
気まぐれ猫のような金の瞳に物騒な笑みを浮かべて、レメゲトンの長は宣言した。
とてもじゃないが、今のねえさんを敵に回す気はしない。
純粋に剣技や身体能力は完全に勝っているだろうが、悪魔を絡めた戦闘となると話は別だ。
「誰が来ようとトロメオより西には進ませないわよ」
「……そうだな」
あいつのいる王都を守るといったから。
それだけではない、レメゲトンとしてグリモワールの民を守る使命がある。大切な国を傷つけさせるわけにはいかなかった。
がたがたとなる馬車は、確実に戦場へと導いていった。




