--- オワリ ---
漆黒のドレスは象牙色の肌にとてもよく似合っていた。
悪魔に愛された、とはよく言ったものだ。漆黒の髪と漆黒の瞳は闇の粋を集めて作られたように美しい。先ほどの娘と違ってほとんど化粧をしていない。目を伏せると少し煌くアイシャドウと淡い桃の唇でいつもより大人びて見えた。
連れ出したはいいが目が合わせられずワインを傾けていると、ガキはじっとこちらを見つめていた。
その視線が気恥ずかしい。
「何だ」
思わず不機嫌な声が出た。
「いや、アレイさんはやっぱりきれいだなあと思って」
お前のほうが綺麗だ。
そんな俗っぽい台詞を思いついた自分にため息が出そうになる。
少しだけ酒が回ってきているようだ。
その勢いに任せて口を開く。
「ミュレク殿下はどうされている」
「忙しそうにいろんなヒトと話してるよ。おれは退屈だから逃げてきたんだ」
ピンヒールは中庭の煉瓦の上を歩きづらいだろう。おぼつかない足元を見て思う。
「こういった社交の場に少しは慣れた方がいい。これからこういう機会も多いだろう」
戦場に出るよりも。剣術を覚えるよりも。
殿下の隣にいる事が大切なのだから。
ガキは相変わらず年相応でない顔をしてため息をついた。
「面倒だなあ」
「まず敬語を覚えろ、話はそれからだ。お前の言葉遣いはまったくなっちゃいない」
「これでもがんばってるんだよ!」
本当か?
疑わしい目を向けた時、ちょうど給仕がワインの入ったグラスを手渡した。
軽く礼を言って受け取ったガキはすぐさまそれを口に含んだ。
その瞬間眉がきゅっと寄せられる。
「美味しくない」
「ガキが」
「ガキって言うな!」
ワインが飲めないのはまだまだガキの証拠だ、と言おうとするとガキは半分以上残っていたワインを鼻をつまんで飲み干した。
我慢してまで飲むんじゃない!
グラスを給仕に返して、しばらくすると頬がほんのり染まってきた。
どうやらこいつは極限酒に弱いらしい。とろんとした目になったガキは、舌足らずにこう言った。
「あのね、サンがね、レメゲトンやめないかって言ったの」
その瞬間胸の内が抉りとられるような痛みに襲われた。
「……皇太子を呼び捨てにするんじゃない」
かろうじて呟いた言葉は確実に震えていた。
別れの時が近づいている。そう確信して、吐きそうになるほどの切なさが心の中を渦巻いた。
これまで生きてきた中で一番深い傷が刻まれようとしていた。
ところが、ガキの口から出たのは思いもしない言葉だった。
「でもね、おれは立派なレメゲトンになるって決めてたから、断っちゃったよ」
阿呆面でにこにこと笑い見上げるガキの言葉が一瞬全く理解できなかった。
断った?何を?――レメゲトンをやめることを。
「おれもっと強くなりたいよ」
理解するまでずいぶん時間がかかった。これは酒のせいでなく、予想も出来ない展開についていけなかったからだ。
ミュレク殿下の誘いを断ったというのか。王子の隣の席を放棄したというのか。王都に残留しレメゲトン以外の職に就くという道を捨てたというのか。
その方がずっと安全で簡単な道のはずなのに。ガキだってミュレク殿下の隣を選ぶと思っていたのに。
呆然としているとガキが思い出したように言った。
「そうだ。ねえアレイさん。この間言いそびれた続き、教えてよ。『これからは……』のあとに何て言うつもりだったの?」
「そんな事言った覚えはない」
なんでここでその言葉が出て来るんだ。
「言ったよ! 絶対!」
唇を尖らせたガキが見上げたようだったが、とても顔を合わせられなかった。
じわじわと嬉しさがこみ上げてくるのが分かった。
とても不謹慎な話だが、ガキがレメゲトンの道を選ぶことを自分でも信じられないほどに望んでいたらしい。傍にいられなくなるのはそれほどまでに嫌だったらしい。
嬉しい。素直にただ嬉しい。
頬がかっと熱くなるのが分かった。
口元が綻びそうになったのを悟られないよう漆黒の瞳から顔を背けた。
と、それが気に食わなかったのかガキは一歩前に踏み出した。
案の定バランスを崩したガキを見て自然に腕が出た。
「危ないな、気をつけろ」
支えてやると、ガキは楽しそうに笑った。
そのはじける様な微笑に心臓が跳ね上がる。
「ね、アレイさん」
「何だ」
「踊ろう?」
相変わらず唐突だな。
しかし今はその変わらなさすらも愛おしい。またこれからも傍にいられる、それだけでこんなにも満たされた気持ちになる。
それなのにどうしていつものように愛想の欠片もない言葉が口から飛び出してしまうんだろう。
「女性が男性を誘うもんじゃない。作法の欠片もない奴だな」
「じゃあ誘ってよ」
間髪いれず返したガキに、思わずため息をつく。
もともとダンスは好きではない。相手が女と言うだけで面倒だった。貴族の嗜みとしてそれなりに踊れはするが、義理以外で女性を誘ったことはなかった。
だが、こいつは特別だ。
すっと膝を折って手を差し出した。
「一曲お願いできますか、御婦人」
「喜んで」
見上げると、一番見たかった笑顔がふわりと包み込んでくれた。
手をとって楽隊のステージへ向かう途中の人々の視線が痛かった。
敵意のある視線ではないが、見世物ではない。
自分が人並み以上の容姿をしているのも知っているし、今のくそガキはどこからどう見ても美しいグリフィス家の末裔だ。
それにしても視線が多すぎるだろう!
しかしそれも隣を歩く少女の漆黒の瞳を見ると気にならなくなった。
自分は少女の魂をよく知っていたはずだった。
よく考えれば彼女が安全なところに匿われることを望まないのも、人を守るために自分が強くなりたいと思うことも分かったはずなのに、どうして考え付かなかったんだろう?
今なら思い悩んだこの二日間を自嘲的に思い出すことが出来る。
リードしてやると少女はまるでマルコシアスの翼を借りているかのように軽く踊りだす。重さなど全く存在しないかのようにくるくると軽いステップを踏む。
それに合わせて艶やかな黒髪が靡いて象牙色の頬にかかった。
彼女が望むなら、と言ったゼデキヤ王の言葉の裏の意味にどうして気づかなかったんだろう。ねえさんの大丈夫という言葉の奥の真意が何故分からなかったんだろう。
自分で思う以上にこいつは俺のことを頼っている、そう思い違いしてもいいだろうか?
「アレイさん」
手をとって踊る少女は不意に口を開いた。
「今度はなんだ」
「いつも助けてくれてありがとう。おれアレイさんに何回助けてもらったかわかんないや」
そんな別れのような台詞はいらない。
守られることを望まないお前の傍でずっと見守っていてやる。
「すごくワガママかもしれないけど、おれ、アレイさんに傍にいて欲しいんだ」
その言葉に息を呑んだ。それは自分が最も欲していたものだったから。
お前が望むなら何だってしてやる――その言葉の裏の矛盾。
この少女は自分が傍にいることを果たして望んでいるのかという疑問。
わだかまっていた全てが払拭された気がした。
先ほどと対照的な歓喜の渦で心が壊れそうに躍る。例えばこれがねえさんの反対隣、父親という役割のことを指していたとしてもかまわない。
「……お前はいつも危なっかしいからな、知らない場所で危険な目に遭われると厄介だ。これからは」
そこで一瞬躊躇った。
しかし明かりが揺れる漆黒の瞳を見下ろして思う。
全ての悪魔の頂点に立つという堕天の悪魔リュシフェル、もしあなたが許してくれるのなら。
この瞬間だけでいい、勘違いして自惚れてもいいだろうか?
世界中で最も愛しい少女が微笑む。その温かい心を映し出した何もかもを包み込むような優しさで。
この瞬間だけでいい、ねえさんじゃなくミュレク殿下でもなく、この瞳に映るのは自分だけだと――
そっと耳元に唇を近づけた。
「すぐ助けられるようにずっと傍にいてやる」
くすぐったそうにしながら、少女は嬉しそうに微笑んだ。
何に変えても守ってやりたい。
お前を脅かす全てのものから。
「ありがとう」
強くなりたいのなら剣を教えよう。
知りたい事があるのなら出来る限りの知識を与えよう。
もし辛い事があるのなら……隣で支えてやる。
誰よりも近くで。手の届く場所で。
パーティの終わりを告げるワルツが奏でられている。刹那の夢の片隅で人々は手に手をとって踊りだし、宴の終焉を楽しんだ。
戦の足音など微塵も聞こえないように、明るく華やかな音楽が鳴り響いている。
世界中で一番眩しい笑顔だけが目に焼きついた。その他には何もいらなかった。
優しい光を灯した漆黒の瞳を見つめながら、この愛しい手を離したくなかったから。




