SECT.33 壊レユク心
「おお、クラウド!」
同じ年の騎士団試験に合格したこの二人は旧知の仲だった。
「何だ、来てたのか」
「当たり前だ。漆黒星騎士団は王都在住だろう。相変わらずだな、フォルス」
義兄上は翡翠の瞳を細めて微笑んだ。
「お前の祝言のとき以来だから一年ぶりか? 変わってないな!」
「フォルス、お前も全く変わっていないよ。小さい理屈を完全に無視する辺りがね」
そう言われてフォルス騎士団長は豪快に笑った。
「奥方もお元気か?」
「元気だとも。最近は可愛らしい妹が出来そうだと喜んでいるよ」
思わず眉間に皺が寄る。
何故今ここでその話が出て来るんだ!
義兄上は自分を困らせたいのだとしか考えられない。
「そうだろう、アレイ」
肩をそびやかすようにして苦笑した義兄上は、いつも隠している腹黒い部分を少しだけ外に出しているようだった。旧友に再会して少し心が緩んでいるのだろう。
だから止めるべきだった。
「おい、こいつの懸想の相手を知っているのか? どうしても口を割らんのだ」
「ああ、よく知っているよ」
そう言ってにんまりと笑った義兄上の表情は、面白いおもちゃを見つけた子供の顔だった。
しまったと思ったときにはもう遅い。
「いくらでも話してあげよう。とてもかわいい子なんだ。養子にしたいくらいにね!」
「あっ、義兄う……え……」
止めようと伸ばした左手はむなしく空をきった。
今年で30歳になる旧友の騎士団長2人は、楽しそうに笑いながら広間の方へと戻っていってしまった。
困ったことになった。
これでは次に騎士団と合流したとき何を言われるかわからない。
第一、あのくそガキはもう……
「くそっ……」
小さく悪態をついてワインを胃に流し込む。
今日は心から酔いたい気分だった。こんな時は酒に強い自分を恨めしく思う。
ホールからは人々のざわめきと共に楽隊の奏でる美しい音楽が流れてくる。明るく照らし出された広間では今も美貌の王子と悪魔に愛された姫君が並んで談笑していることだろう。
そう思うとやるせない気持ちで胸が張り裂けそうだった。
もう傍にいられないのか。あの笑顔を間近で見ることは出来ないのか。あの優しい心に触れることも柔らかい髪を撫でてやることも許されないのだろうか。
怖かったと言って腕の中で大粒の涙を零した漆黒の瞳を、嬉しいと言って向けた太陽のような笑顔を、恥ずかしそうに眼を背けて呟いたありがとうという言葉を思い出す。
心の中の大半をあのガキが占めている。他の事を考えられなくなるないくらい頭の中が彼女のことでいっぱいだ。
過去を捨てずに受け止めたのも人々の優しさに気づくことが出来たのもあいつのお陰なんだ。
抱きしめたときの感触が蘇ってきて思わず両手を握り締めた。
大きな運命を抱えるには細すぎる腕を知っている。怖いと言って怯える表情を見たこともある。だからこそ、不安に震える肩を抱きとめてやるのは自分でないと嫌なのだ。
――他の誰かの腕の中にいる事を考えただけで吐きそうになる。
嫉妬の心が暴れて、おかしくなりそうだ。
彼女がいま目の前に現れたら迷わず抱きしめてしまうだろう。
きっと不思議そうに見上げる瞳に吸い込まれそうになるだろう。
こんなにも、愛しい。
気が狂いそうなほどに――
「クロウリー伯爵」
呼びかけられてはっとした。
見ると王都の少し南に領地を構えるバラッド伯爵が立っていた。
その後ろには見覚えのない娘が立っている。
「お久しゅうございます」
「あ、ああ」
声が出なかった。
心臓はまだ落ち着いていない。
社交辞令のような挨拶を上の空で聞いていた。
「これは娘のジェーンです」
「初めまして、クロウリー伯爵。ジェーン=S=バラッドです」
もともとの顔はずいぶん愛らしいものだろうに、眼の周りにアイシャドウを厚く塗り、唇にも赤いラインを引いていた。
触れると指に化粧が着きそうな肌だ。
「今年で18歳になります。ミュレク殿下の誕生パーティに呼ばれるのは初めてでとても緊張しているんです」
困ったように微笑む娘にどう返答するか迷う。
これまでも女性の相手は面倒だという理由のみで適当にあしらって来たからだ。
だが、最近こんな風に親と連れ立って声をかけられるケースが多い。おそらく政治上と言うかクロウリーという名とレメゲトンという位のせいで娘だけでなく親が必死になっているのだろう。
自分はもう24になるしもう落ち着いてもおかしくない年齢だった。
親であるクロウリー公爵が自分に不干渉なためうるさい結婚話などは全くでないが、そろそろ世間がほうっておかないのは事実だ。
どうやってこの場を離れようか。
そう思っていると広間から躓きそうになりながら飛び出してきた人影があった。
誰かと思えば見慣れた漆黒の髪と瞳だ――人の輪の中心にいなければならないはずのあのガキは一体ここで何をやっているんだ?
目の前にいる娘のことも忘れて釘付けになった。
「クロウリー伯爵?」
娘もそれに気づいたのか首を傾げる。
が、そんなことどうでもよかった。
北の都に住居を構えるエドモントン子爵に捕まったガキは話を聞くどころか子爵の、その、少々薄くなってしまった頭を一心に見つめている。
なんて失礼な奴だ!
エドモントン子爵の方は喋るのに必死で気づいていないが、傍から見ればガキが完全にその禿頭に夢中なのは一目瞭然だ。
「すみません、少し用があるので失礼します。ミス・バラッド」
呆然とするバラッド親子を尻目にまっすぐガキの元へ向かった。
どうやら領地の自慢をしているらしいエドモントン子爵に声をかける。
「エドモントン子爵」
子爵は気がついてこちらを見た。
「おお、これはクロウリー伯爵」
「そちらのご婦人をお借りしてよろしいかな?」
ガキはひどくほっとしたような顔になった。
その顔を見てまた胸が痛む――本当に自分はどうかしている。
目の前にするだけで落ち着かなくなる。漆黒の瞳を見つめることなどとてもできやしない。そんな事をしたら心が押しつぶされそうだ。
この髪に触れたいという気の狂いそうな欲望をいったいどこまで抑え切れるんだろう。
こいつがレメゲトンをやめるといったら、果たして自分は止めずにいられるのだろうか。
もう何も分からない。
ただ分かるのはきっと目の前からこの少女が消えた時、自分はこれまでで一番深い傷を心に負うのだろうということだけだった。




