SECT.29 未ダ見ヌ悪魔
任務は終わったが、今回のことでかなり多くの謎が残された。
街に出て行ったガキを見送ってからねえさんが休む部屋に入る。
「あらアレイ。一緒に行かなかったの?」
当たり前のように聞くねえさんの笑顔が怖い。ほぼ体力も回復し、いつもの調子が戻ってきていた。
話がそっちの方向に行く前に話しておかなければならない事は多い。
「……それよりもいくつか話したい事がある」
「何かしら? それはラックより大事なことなの?」
「まだ分からない事が多すぎる。あのガキの出生もそうだが、敵の一人、セフィラ第5番目ゲブラが、その、ひどく喋りたがりでいろいろな情報を漏らしていったのだ。だが情報が断片的過ぎて要領を得ない」
「それはどんな情報なのかしら。聞かせてくれる?」
ねえさんはレメゲトンの長の顔に戻ってベッドの端に腰掛けた。
頭の中を整理するようにして幾つものことをねえさんに報告していった。
ティファレトが一つになるという意味の取れない言動、片割れを持つ天使のこと、銀髪のセフィラがガキに執着する理由など、今回謎として残ったことは多かった。
とくにガキへの執着はゲブラ自身、そして自分自身の執着にも関係があると聞いて心穏やかではいられなかった。
「天使と悪魔の話は聞いた事があるわ。天使には同じ姿をした片割れの悪魔がいるらしいの。例えば今回の場合カマエルとフラウロスね。セフィラが召還する天使のほとんどが片割れを持つらしいわ。そして互いに相手を滅ぼそうとするのよ。理由は分からないけれどね」
ねえさんは真剣な顔でこちらを見た。
黄金の煌きに吸い込まれそうになる。
「滅ぼせばそれが真実、とアガレスは言ったらしいわね。同じ魂はどちらかしか存在してはいけないということかしら? どちらにしてもよく分からないわ」
そこでねえさんはいったん口をつぐんだ。
部屋の静寂を震わせてねえさんはポツリと呟いた。
「もしかすると、これは想像なんだけれど、あの子が印を持つ悪魔の中にミカエルの片割れがいるんじゃないかしら」
「グラシャ・ラボラスか?」
「違うと思うわ」
ねえさんはきっぱりと言った。
「これは以前から少し疑っていたことだったのだけれど……あの子の中にはもう一人悪魔がいるようなの。額に紋章が浮かび上がったのを見た事がないかしら?」
「ああ、一度だけ見た事がある」
銀髪のセフィラの前でフラッシュバックに遭った時額に浮かび上がる紋章は見た事があった。
72の悪魔とは全く別の紋章は、歴史書を紐解いてみても見つからなかった。
「それが誰なのかはわからないけれど、かなり高位の悪魔であることは間違いないわ。コインの悪魔より上位かもしれない。もしかすると……」
ねえさんは言いかけて止めた。
金の瞳を少し細めて何かを考えていた。
「いえ、それはあまりに突飛過ぎるわね。悪魔の名前をつけるなんてありふれているもの。理由にはならないわ、忘れて頂戴」
ねえさんはひらひらと手を振った。
「でもコイン以外の悪魔ということはおそらく確かよ。グリフィス家が王都を追放された理由はコイン以外の悪魔を召還しようとしたから――それは以前言ったわよね?」
「その悪魔とガキが契約していると言うのか?」
「ええ。滅びの悪魔グラシャ・ラボラスとも既に契約しているような子よ」
「いや、だが、他の悪魔を呼び出し契約するなど並大抵の事ではない。本当に可能なのか? コインなしに悪魔を召還するなど、稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスくらいのものでは……」
「でも、ゲブラはあなたがラックに執着するわけも同じだと言ったんでしょう」
「ああ」
「もしあの子の中に高位の悪魔がいるとしたら、あなたが惹かれるのは当たり前のことじゃないかしら、クロウリー家の嫡子なんだから」
どくりと心臓が一つ脈動した。
――悪魔の子孫
思い出したくなかった言葉が頭の中を駆け巡った。
「あら、ごめんなさい。苛める気はないのよ? あなたがあの子を思う気持ちも本物だって知ってるわ。それでもきっかけはそこにあったとは思えないかしら?」
肩が震えた。
過去の記憶が蘇って目の前が暗くなる。
「噂は本当なんでしょう? 悪魔の末裔、アレイスター=W=クロウリー伯爵?」
ねえさんがこの場で口に出せるほど公然に崇められている事実がある。
その事実によってクロウリー家はグリモワール王国で絶対的な地位と権力を持ち、現在も追う国内でトップの貴族であり続けている。
だが、その事実は自分にとっていい思い出とは言えなかった。
しかもそれが原因でガキに惹かれたなどとは、思いたくもなかった。
「受け入れなさい。それは誇るべきことであって忌み嫌うことではないわ」
「……分かっている」
だが、騎士になることを諦めた傷の下に深く刻まれた傷跡を忘れることは出来ないだろう。
疼きはしないが重い鉛を流し込んだように心を沈ませる傷跡だった。
ねえさんと話した後、店のテーブルを借りてカードの占いをはじめた。
占う内容は……
カードを展開した瞬間、大きな音を立ててガキが帰ってきた。
慌ててカードを片付ける。
「何を占ってたの?」
「ガキは知らなくていい」
ガキはむっとしたようだったが、すぐにもとの顔に戻った。
そしてどこか躊躇うようにおずおずと口を開いた。
「あのね、アレイさん」
「何だ?」
「カンナがね、あ、カンナっていうのは果物屋さんの女の子だよ」
「ああ、あの時の」
セフィラが街に出現した時、息せき切って駆け込んできた少女か。
「アレイさん、おれが助けてって言った時にすぐに来てくれたって聞いたから、あの……」
とても言いづらそうにするガキが珍しく、思わずまじまじと見つめてしまった。
どこか恥ずかしそうに視線を逸らす姿とほんのり桃に色づいた頬がひどく愛らしい。言うか言うまいか迷っている表情に釘付けになった。
「ありがとう」
目をそらして、照れたように呟いた。
感謝の気持ちがどうとか言う前に、その気持ちが嬉しかった。
それなのに自分の口から飛び出したのはいつものように不機嫌な台詞だった。
「そんな嫌そうな礼はいらん」
「嫌なわけじゃないよ。ただ……かしこまって言うのがすごく恥ずかしかっただけだ」
「恥ずかしい? お前にそんな感情があったのか」
これは本当に心の底から驚いて出た言葉だった。
「知らないよ。おれだってびっくりしてるんだ」
ガキは漆黒の瞳をこちらに向けた。
染まった頬にどきりとする。
「今までこんなことなかったのに……」
変な奴だな。
微かに唇の端で微笑んでしまった。
先ほどまで重かった心がふっと軽くなるのを感じた。
過去が傷つけた自分の心の一部分など今はどうでもいい。
「お前はいつも危なっかしいからな、知らない場所で危険な目に遭われると厄介だ。これからは」
そう言いかけてはっと我に返る。
いったい自分は何を言うつもりだったんだ?!
「これからは……何?」
「何でもない。忘れろ」
はっきりそう言うと、ガキは近寄って漆黒の目で見上げてきた。
「気になるよ」
「絶対言わん」
一瞬の気の迷いだ。絶対に口に出すものか――心にそう誓って沈黙を守り通した。




