SECT.23 ラッセル山
「な、何?!」
ネツァクの気がそれた瞬間、間合いを一気につめた。
加護なしの状態と段違いの速度だったためにネツァクにぶつかりそうになって直前で止まる。
「きゃ……!」
悲鳴を最後まであげさせる前にみぞおちに拳を叩き込んだ。
少女の体からぐったりと力が抜け、石畳に倒れこんだ。同時に背後にいたハニエルの姿も消え去った。
「やっぱりハニエル弱い! つまらん! 帰る!」
頭の中にハルファスの声が響いて、加護が消滅したのを感じた。
まあいい。次の機会にまた使ってみよう。相手の実力がある程度ないとハルファスを使えないことだけは分かった。
それだけでも収穫だ。
地面に横たわったネツァクを一瞥し、熱風の根源に目を向けると、なんとガキがフラウロスに歩み寄っていくところだった。
「なっ!」
フラウロスの体は灼熱だ。素手で触れるなど自殺行為だ!
と、思ったがすぐに気づいた。
ガキの体をぼんやりと光が取り巻いている。それはどうやらフラウロスの炎を遮断しているようで、特に暑そうな様子も見せずガキは灼熱の獣に近づいていった。
そして手を伸ばすと、フラウロスの首に手を回して大きく抱え込んだ。
本当に……信じられない奴だ。
言葉を失ってその光景を見つめていた。
陽炎が立ち、足元の石畳が焦げるのを通り越して溶けていくほどの熱を持った悪魔に手を差し伸べ、大きな猫でも相手にしているように抱きしめる少女。相手は何人ものレメゲトンを焼き払ってきた恐ろしい悪魔だというのに。
何もかもが型破りだとは思っていたが、これほどまでに常識はずれだとは思わなかった。
しばらくそうしていると、フラウロスは落ち着きを取り戻し、魔界に帰ったようだ。
後に残るのは静寂と夕陽によって浮き彫りにされた焼け焦げた街並み、それに佇む手品師の姿……その背に天使の加護はない。
見ると太陽は完全に沈み、夕陽が沈んで黒々とした輪郭を呈するラッセル山が浮かび上がっていた。
ラッセル山。
ネツァクの台詞がよみがえる――あの子は目がいいから見えちゃうの!
「そうか」
ポツリと呟いて納得する。
全てがひとつの線でつながった気がした。
石畳に横たわる人形少女を肩に担ぎ上げてガキの元へ向かった。
その気配で振り向いたガキは驚いた顔をした。
「ネツァクは……?」
「気を失っているだけだ」
そういってやるとほっとしたような顔をする。
しかしガキの顔は赤くなっていた。おそらく先ほどフラウロスに触れたせいだろう。この程度で済んでよしとするか、それとも……
文句を言う前に敵を何とかしなくてはいけない。
一人佇む手品師に、担いでいた少女を放り投げた。
「ファウスト女伯爵の居場所はわかった。この女は解放するから、連れてさっさとセフィロトに帰るんだな」
「おやおや、見つかってしまったのですか」
手品師は軽々と飛んできた仲間を受け取ると、困ったように言った。
「その女は口が軽い」
「ご忠告どうも。まあ、それは分っていた事ですが」
そうだろう、あれだけ喋っていては国家機密も何もなくなってしまう。
手品師はシルクハットをとった。
肩までの黒髪がさらりと零れ落ちる。
「それではごきげんよう。次こそは戦場でお会いしましょう。ぜひ、手合わせ願いたいものです、クロウリー卿」
「……願い下げだ」
手品師がシルクハットを一振りすると、それこそまるで手品のように二人の姿はずいぶんと破壊されてしまった街のメインストリートから消え去っていた。
薄暗くなりかけている街並みに静寂が戻ってきた。
天は夜の様相を呈している。淡い紅紫が紺へと変化するグラデーションを見上げると宵の明星が浮かんでいた。
「何とか退けたな……ねえさんを迎えにいくぞ!」
「うん、わかった」
「加護の受け方を教えてやる。馬は使わず加護を受けた状態の身体能力を駆使して向かう」
「わかった」
ガキが少し驚いたような顔をする。
一体なんだというんだ?多くの事を教えてくれと言ったのはお前だろう?
「誰の加護を受ける?」
「アガレスさん。フラウロスさんは……ちょっと危ないし」
先ほどの様子を見る限りフラウロスを恐れているとは思えなかったが、直接触れたガキなりに何か恐れるものがあったのだろう。
「それが分かっただけで収穫だ」
そういうことは触れる前に気づいて欲しい。
顔だけでなく首、腕や手に至るまでフラウロスに触れた部分は例外なく赤くなっている。特に両腕は真っ赤に染まって少し腫れていた。
その痛々しい様子に思わず眉をひそめた。
が、その視線に気づいたのかガキが先に主張した。
「おれは平気だよ。早くねえちゃんのところに行こう」
「……無理はするな」
確かにねえさんの救出が最優先事項だ。
「加護を受けるのはそう難しいことではない。悪魔を使役するのは意志の力だ。こうありたいと願う強い心さえあれば悪魔の力を借り受けることは容易い」
「つまり、力を貸してほしいって思えばいいの?」
本当にこいつは単純なことしか理解できないんだな。
少し顔が引きつりそうになったが時間が惜しい。
「……まあそういうことだ」
「やってみるよ」
ガキは右手首に括りつけられたアガレスのコインに左手を重ねた。
「アガレスさん、力を貸して!」
非常に明快な台詞に魔方陣が発動した。
恐る恐る目を開いたガキは拳を握ったり開いたりしている――どうやら加護を受けることに成功したようだ。
すると、目の前に鷹が降りてきた。
ねえさんと同じ金目に、堂々とした立派な体躯の凛々しい鷹だった。
「アガレス、さん?」
「ここにいる」
どうやらこれがアガレスの加護の印らしい。
「どうやら大丈夫そうだな……行くぞ、くそガキ」
「うん。でも、どこに?」
その答えは簡単だった。
目がいいから見える、ということはそれなりに距離のある場所で、しかし街の様子を観察できる場所でなくてはいけない。
それも、建物に邪魔されないような高さのある場所だ。
夕陽が沈んで黒々とした輪郭を呈する山を黙って指差す。
「……ラッセル山?」
双子の視力がいかほどのものか知らないが、山から街での戦闘が観察できるというからには相当なものだろう。
見つかる前に山に入ってしまう必要があった。
「急ぐぞ。ついてこい」
「あ、待ってよ!」
駆け出すと同時にマルコシアスの名を呼んだ。




