SECT.4 解セヌ思イ
案の定左腕の傷はかなり深く、何針も縫った。もう元のように手を動かすのは困難だろうと医者が言った。
少女の容態が安定したのを見て切り出した。
「聞かせてもらおうか、ねえさん。あれは何者だ?」
「……あの子は、3年前にここから少し離れた山の中で拾ったの。その時には記憶をすべて失くして、持っているのはただ一つのロストコインだけだった」
「何のコインだ?」
聞くとねえさんは一瞬躊躇ったが、ゆっくりと告げた。
「……第25番目の悪魔、グラシャ・ラボラス」
「?!」
その名を聞いて驚いた。
72枚あるコインのうちもっとも残忍で強大な力を持ち、使役するのが困難だといわれているグラシャ・ラボラス。
知っている限りで使役したのは稀代の天文学者ゲーティア=グリフィス本人のみだ。
「3年間も? 国にはまったく報告していないのか?」
「……してないわ。だってもう何十年も前に無くなったと思われていた滅びのコインなのよ? 今さら見つかって、いったいどうするというの?」
「国王はそれを望んでいる」
「私はあの子をそんな世界に入れたくないのよ。」
「だが、戦になるのは時間の問題だ。その時グラシャ・ラボラスの力がどれほど切望されると思う? どれほど有効に働くと思う?」
「そういう問題じゃないわ!」
ぴりり、と空気が揺れた。
その時だ。少女が微かに動いたのは。
「……ぅ……」
「ラック!」
上官は――ねえさんは必死でベッドにしがみついた。
「ねぇ、ちゃん」
「よかった……」
ねえさんはほっとした表情を見せた。
少女はたどたどしく言葉をつむぐ。まだ回復していない様子がありありと見て取れて、胸が締め付けられるように痛んだ。
「だいじょうぶ? 顔色……あんまりよくないよ?」
少女は起き上がるどころか意識を保つ事すら危うい自分のことを差し置いてねえさんの心配をしている。
胸のどこかがちくりと痛む。
「ばかね」
ねえさんは小さな子供にするように少女の額に手を当てた。
少女は嬉しそうに笑った。
その微笑にどきりとした。最初に見た笑顔を同じだった。
「休みなさい」
「ねぇちゃん」
「なあに?」
「銀色のヒト……見たよ。すごくきれいなヒト……路地裏に落ちてた」
それはセフィラだ。お前を狙う敵だ。
「そう」
「そんでね、壁が壊れてて……怪我してて……も一度……会いたい……な」
「分かったわ、分かったからラック、今は眠りなさい」
「うん。いっぱい話したいこと……ある……よ……」
それっきり少女はまた眠りに落ちたようだ。
もう一度会いたい。少女ははっきりとそう言った。
信じがたいことだ。左腕の傷も首筋の印も銀髪のあのセフィラに付けられたのだというのに。何より殺されかけたというのに……
「どうしたの、アレイ。難しい顔して」
「……理解できない」
青白い顔でベッドに横たわる少女は失血で一時生死の境をさまよった。
心底理解できなかった。
死ぬほどの怪我をしているのに他人を心配して微笑む理由も、次会えば命を狙われる相手に会いたいという心理も、それから少女の笑顔を思い出すたび自分の中でくすぶるこの妙に暖かい気持ちの根源も……
「何か悩んでるみたいね。聞かせてもらってもいいかしら?」
「……」
少し悩んだが、この少女のことはねえさんが一番よく知っているはずだ。
言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「分からないんだ。命を狙っている相手に会いたいって言っているのが……いったいこいつは何を考えているんだ?」
「そうね、それは私にも分からないわ。ただ、この子は自分の気持ちにとても正直なの。この子が会いたいと言うのならそれ以上の理由はないはずよ。きっとあのセフィラに何か通じるものがあったんでしょうね。もしくは……何か言われたのかしら」
ねえさんが横たわる少女をいぶかしげに見つめる。
呼吸は安定してきたようだが、まだ血がだいぶ足りないはずだ。まぶたは硬く閉じられていた。
「いずれにせよ理解できん。しかも死にそうな怪我を負っておきながら他人の心配をするのも……自分の身は完全に後回しじゃないのか?」
「ラックはそういう子よ。いつだって人のことを優先するわ。天真爛漫で自分の欲望に忠実なように見えてその実、自分以外を大切にしすぎるわ。傍から見ていて胸が痛むほどにね。でも――怖いの。いつかそんなことをしていたらこの子が壊れやしないかって。だからどうしても国に報告できなかったのよ」
「だがもう隠し通すのは無理だろう」
「そうよ。でも、私はあの子の傍を離れない。絶対よ。何が起きてもあの子を守り抜いて見せるわ……!」
ねえさんの瞳に意思の光が灯った。
こんな時のねえさんは猫じゃなく、黄金のきらめきを持つ帝王の瞳の輝きを見せる。他を圧倒する空気、さすがはレメゲトンを束ねる立場にあるだけのことはある。
「3年前に拾ったと言っていたな。それ以前のことは全く分からないのか?」
「ええ。全く、何も。グラシャ・ラボラスのコインを持つ以上グリフィス家の末裔であることは間違いないと思うのだけれど、それ以上は分からない」
「だが、グリフィス家はもう何代も前に途絶えたんじゃなかったのか?」
「記録ではそうなっているわね。でも、実際には追放という形を取っているわ」
「追放? いったい何をしたらグリモワール王国で最も強大な一族が王都を追放されることになるんだ?」
「彼らは、国家反逆を企て、72のコインとは別に悪魔を召還しようとしたのよ」
「何?!」
「記録からは抹消されているわ。だってまさか何百年も王家に使えてきたグリフィス家が国家反逆罪だなんて……公に出せる情報ではなかったのよ」
「では、あの少女は追放されたグリフィス家の末裔だというのか」
「ええ。10中8、9そうだと思うわ。」
「何ということだ……」
グリフィス家がグリモワール王家に楯突くなど、ありえない事態だ。王都の、特に位の高い貴族たちの間だけで秘密裏に処理されたのだろう。
もしかすると、公爵の地位にある自分の父はそれを知っていたかもしれない。
「先ほどゼデキヤ王にすべてを記した書簡を託したわ。あとは王の判断に委ねましょう」
「そうだな」
ゼデキヤ王は聡明でかつ人情味溢れる王だ。状況を把握して、最もよい判断を下してくれるだろう。もちろん、ねえさんの希望を最大限取り入れた判断を。
もう一度青白い顔の少女を見た。
柔らかそうな黒髪が頬にかかっていた。長い睫が影を落として、まるで作られた人形のように美しかった。
「俺は一度王都に戻る」
「明日まで休んでいきなさい。今日はもう遅いわ」
「……分かった」
これ以上少女の傍にいると、さらに心を囚われて本当に後戻りできなくなりそうだ。
「アレイ、あなたまだ何か言いたそうよ?」
「いや、何でもない」
「そう?」
ねえさんはいつもの猫の瞳に戻ってにこりと笑った。
「ちなみにラックに手を出したら昔みたいに拳固じゃすまないわよ?」
「!」
心臓が跳ね上がった。
「あんまりこの子の寝顔ばっかり見てるんじゃないわよ。この変態!」
「なっ……!」
「気づかないとでも思ったの?もう何年あなたを見ていると思ってるのよ。」
ねえさんは腰に手を当てて眉を寄せた。
「まあでもあなたなら任せてもいいかもね」
「は?」
「そろそろこの子は新しい世界を知らなくちゃいけないわ。そうね、まあ、あなたなら……」
「何の話だ」
「調子に乗らないでね。まだ早いんだから!」
「??」
全く意味が分からない。
「ほんとにあなたは相変わらず変なところで鈍いんだから……私が心配するまでもなさそうね」
ねえさんはふうとため息をつくと、手をひらひら振って自分を部屋から追い出した。